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【第二章完結・第三章開幕】無属性の落ちこぼれ追放令息は、失われた魔法《原初式》を読み解く ~世界の魔法は、最初から間違っていた~  作者: 刈谷るあ
冒険者編

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第61話「源」

 悲鳴が聞こえたのは、翌々日の昼だった。

 山の裾の炭焼き集落で、また魔物が出たという。街道で獣を追っていた僕は、村人の叫びを聞いて、煙の上がる方へ駆けた。脚に力を乗せる。この数日で覚えた、あの速さだ。以前の倍近い足で、僕は畦道を突っ切った。急ぐときにこの力が使えるのは、正直、ありがたかった。

 着いたときには、小屋がひとつ潰されていた。

 牙のある、灰色の大猪だ。麓の猪よりひと回り大きい。それが小屋の前で暴れて、逃げ遅れた親子を追い詰めていた。父親が薪割りの斧を構えているが、腰が引けている。あんなもので止まる相手ではない。

 僕は考える前に、地を蹴っていた。

 脚に力を乗せる。胸から腿へ、あの流れをたどって。数歩ぶんの速さが、体を前へ運んだ。猪の横っ腹に体をぶつけるようにして、突進の軌道から親子を押しのける。牙が、僕のすぐ後ろで空を裂いた。

 「小屋の裏へ逃げろ!!!」

 怒鳴ると、父親は子を抱えて転がるように逃げた。それでいい。あとは僕の仕事だ。

 猪が向き直る。小さな赤い目が、僕を捉えた。荒い鼻息が、湯気のように立っている。潰された小屋の匂いと、獣の臭いが混じって、鼻をついた。

 人目はない。逃げた親子も、もう振り返る余裕はないだろう。ならば、隠す必要もない。僕は胸の脈に気を沈めた。焦るな。乗せろ。掌に、細く鋭い火が立つ。青白いそれを、猪が突っ込んでくる正面から鼻づらへ叩き込んだ。

 猪がのけぞる。その隙に横へ回り込み、山刀で後ろ脚の腱を裂いた。動きが鈍る。もう一度、火。今度は目を灼いた。片目をやられた猪が、狂ったように向きを変えて突っ込んでくる。僕はまた脚に力を乗せた。半歩、体を横へ滑らせる。牙が脇腹をかすめて、上着が裂けた。皮一枚のところだ。ボルツに叩き込まれた間合いが、ここでも僕を生かしている。

 最後は、泥臭かった。暴れる巨体を柱の陰でいなし、隙を見て火を入れる。それを何度か繰り返して、ようやく猪は前脚を折った。とどめに、喉の奥へ一発、火を通した。獣がひときわ大きく身を震わせて、動かなくなる。

 息は、思ったより上がっていなかった。

 循環のやり方のおかげだ。前の猪のときとは、体の残り方がまるきり違う。火を五度も入れて、まだ掌の芯に余りがある。四日前の自分なら、とうに空になって、剣と体だけで凌ぐしかなかったはずだ。地味な稽古の四日が、こういう場面で、確かに効いていた。


 だが、その手応えを噛みしめる暇はなかった。

 助けた親子が、潰れた小屋の前で、呆然と立ち尽くしている。母親のほうが、片脚を引きずっていた。逃げるときに、柱の下敷きになりかけたらしい。手当てをしてやりながら、僕は集落の様子を見回した。

 ひどいものだった。

 畑は踏み荒らされ、炭焼きの窯は崩され、小屋が何軒も傾いている。人が住むにはもう限界に近い。壁に立てかけられた鍬や籠は、逃げ出す暇もなく置き去りにされたままだ。集まってきた村人は、どれも痩せて、目に生気がない。何度も同じ目に遭って、もう泣くことにも疲れた顔だった。

 聞けば、こんな襲撃が、この半月で四度目だという。山が荒れてから、麓へ下りてくる魔物が日に日に増えている。前は年寄りの猪が一頭迷い込む程度だったのが、今では、さっきのような大物が群れて下りてくる。畑を耕す者は減り、逃げ出す者も出はじめた。それでも、行くあてのない者は、ここに残るしかない。

 「上の連中は、何をしてるんだ」

 思わず、そう漏れた。領主家が討伐の札を出しているのは知っている。若い当主が、自ら山へ入っているのも。それでも、魔物は減るどころか、増えている。

 「お偉いさまたちは、山の上で手一杯なんだと」老いた炭焼きが、力なく言った。「上から湧くのを止められねえと、下のわしらは、こうしてじりじり食われるだけでな」

 「若い当主さまも、頑張ってなさるんだがなあ」別の村人が、ため息まじりに続けた。「山に籠もりきりで、何人も家来を亡くしなさって。それでも、湧く数のほうが多いって話だ。……気の毒なもんさ。あの人も、下のわしらも」

 その言葉に、僕は黙って手を動かした。母親の脚に、当て木を添える。兄のことを、こんなところで、村人の口から聞くとは思わなかった。気の毒だ、と言われる兄を。

 上から湧くのを、止められない。

 その言葉が、僕の中の古い傷を、静かにこすった。


 灰の村を、思い出していた。

 あの村も、こうだった。森の奥から湧くものを止められず、少しずつ削られて、最後に一息に呑まれた。ボルツも、マルタも、僕を拾ってくれた人たちが、みんな、あの一夜で消えた。僕は当時、非力な子供だった。湧く源そのものには、手も足も届かなかった。目の前で人が食われていくのを、ただ見ていることしかできなかった。だから村は、消えた。

 あのときの無力さを、僕は忘れたことがない。

 いまの僕は、あのころとは違う。火を出せる。風も、身体強化もある。源に手が届くだけの力が、まだ足りないにしても、少なくとも、指の先くらいは届く場所まで来た。それなのに、裾でいくら猪を狩っても、結局は同じことだ。

 僕が一匹倒すあいだに、山の上からは二匹、三匹と下りてくる。この親子を助けても、次に襲われる誰かは助けられない。源を断たなければ、この集落も、いずれあの村と同じ末路をたどる。それを、僕はもう知っている。知っていて、裾で山犬を追い続けるのは、要するに、見て見ぬふりだ。

 あの人の声が、耳の奥で鳴った。

 ――片づけたきゃ、自分で登れ。

 わかっている。わかっていた。ずっと、わかっていたのだ。

 僕が登れない理由は、山の上に兄がいるからだ。あの紋の下へ名乗り出るのが怖いからだ。だが、その怖さを言い訳にしているあいだにも、裾では人が食われ続けている。自分の都合で足を止めているあいだに、また、目の前で誰かが消えていく。それは、灰の村で一度、味わったはずのものだった。

 二度は、御免だった。


 その足で、僕はギルドへ戻った。

 依頼板の前に立つ。青い縁の札は、まだそこにあった。三つ塔の紋。城の東の山の、魔物討伐。何度も前を素通りしてきた、あの一枚。

 今日は、素通りしなかった。

 しばらく、その札の前に立っていた。三つ塔の紋を、指でなぞる。門にも、広間の垂れ幕にも、僕の生まれた寝台にもあった、あの印。これに手を伸ばせば、僕はいやでも、あの家に近づいていく。ずっと、それが怖かった。似ていると気づかれることも、レオンだと知れることも。

 だが、と思う。

 いま怖がっている僕は、結局、あの村を救えなかったころの僕と、何も変わっていない。怖いから、動かない。動かないうちに、誰かが消える。それを繰り返すのは、もう、たくさんだった。

 札を、板から剥がした。指が、少し震えていた。名を上げるためじゃない。催しのためでも、兄を見返すためでもない。ただ、これ以上、裾で誰かが食われるのを見ていたくなかった。それだけだ。それだけのことに、僕はずいぶん長く手間取った。

 受付へ持っていくと、あの女が、札と僕の顔を見比べた。

 「あんた、これ、本気かい」

 「ああ」

 「これはねえ、C級が一人で受ける札じゃないよ。奥は、パーティでも死人が出てる」女は声を落とした。「名を上げたいのはわかるけど、命あっての……」

 「名のためじゃない」

 僕がそう言うと、女は少し、口をつぐんだ。それから、ため息をついて、台帳に何か書きつけた。止めても聞かないと、悟った顔だった。

 「……死ぬんじゃないよ。せっかく、真面目に働くいい子だと思ってたんだ」

 その言葉が、なぜか胸に沁みた。この町で、僕を心配してくれる人間が、一人でもいたのか。偽名の、素性も知れない流れ者の僕を。少しだけ、鼻の奥が熱くなった。顔には出さずに、僕は札を握って踵を返した。


 翌朝、僕は東の山へ入った。

 裾を越え、山犬の縄張りを抜け、さらに上へ。空気が、じっとりと重くなっていく。木々のあいだに、獣の骨や、折れた武具が転がりはじめた。ここから先が、騎士たちが命を落としている領域だ。

 男の姿は、どこにもなかった。

 当たり前だ。俺の山じゃない、と言った人が、ついてくるはずもない。今度こそ、本当に独りだった。北の谷のときのような、いざとなれば助けてくれる背中は、もうない。頼れる風もない。あるのは、この数日で掌に馴染ませた、まだ十のうち四つか五つの、頼りない手応えだけだ。

 昨日、あの黒い獣を片手で薙いだ男の姿が、頭をよぎった。

 あの高みには、遠く及ばない。届かないことは、もう嫌というほど知っている。だが、届かないなりに、いまの僕にできることは、たぶん、ある。奥の主を一撃で倒すような真似はできない。それでも、下りてくる魔物を一匹でも多く途中で止めれば、裾に落ちる火の粉は、それだけ減る。全部は無理でも、幾らかは。まずは、それでいい。

 それでも、足は止まらなかった。

 源は、この上にある。断たなければ、裾は削られ続ける。兄がいようが、いまいが、関係ない。僕は登ると決めた。決めた以上は、登るだけだ。

 急な斜面を、身体強化で登る。胸から脚へ、力を乗せる。息が切れる。すぐに切れる。それでも、掌の火よりは幾らか長く保つようになった脚で、僕は一歩ずつ、上へ近づいていった。木々のあいだから、時おり、遠くの咆哮が届いた。何かがいる。それも、山犬よりずっと大きな何かが。掌が、じわりと汗ばむ。怖くないと言えば、嘘になった。

 一度だけ、振り返った。

 はるか下に、裾の集落の煙が、細く立ちのぼっている。あの煙を絶やさないために、僕は登る。名のためでも、兄のためでもなく。そう自分に言い聞かせて、僕はまた前を向いた。上の斜面が、灰色の雲の底へ、険しく続いていた。

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