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【第二章完結・第三章開幕】無属性の落ちこぼれ追放令息は、失われた魔法《原初式》を読み解く ~世界の魔法は、最初から間違っていた~  作者: 刈谷るあ
冒険者編

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第60話「格」

 二の腕の傷は、二日ほどで塞がった。

 浅かったし、化膿もしなかった。ただ、動かすとまだ引きつる。その痛みを言い訳に、僕はその日、依頼を休んだ。休んで、催しのことを、きちんと調べておこうと思ったのだ。

 ギルドの受付で、あの女に訊いてみた。領都に着いた日に、催しのことを教えてくれた人だ。

 催しというのは、要するに品評会のようなものらしい。半月後、城下の広場に研究院の連中と、あちこちの学び舎の人間が集まる。そこで腕自慢の冒険者や、変わった才を持つ者が、めいめいの技を見せる。見物人に紛れた研究院の目に留まれば、声がかかる。運がよければ、そのまま学び舎の枠に拾い上げられることもあるという。名を上げたい冒険者にとっては、年に一度の晴れ舞台らしかった。

 「ただねえ」女は帳面をめくる手を止めずに言った。「あそこに出てくるのは、みんな一癖も二癖もある連中だよ。珍しい属性を操る子、若いのに何十人分も稼ぐパーティ、貴族の推薦つきの神童。……その中で目立とうってんなら、よっぽどのものを見せないとね」

 よっぽどのもの。

 僕は、この四日で片づけてきた依頼を思い返した。獣の間引き。荷の護衛。山犬の掃討。どれも、地道な、名の残らない仕事ばかりだ。あんなものをいくら積んでも、研究院の目には、たぶん埃ほども映らない。

 「C級の若いのが一人、真面目に働いてるねって、それだけさ」女は、悪気なく言った。「それが悪いとは言わないよ。ただ、あの催しは、そういう場所じゃない」


 礼を言って、僕はギルドを出た。

 わかってはいたことだった。目立つには、目立つだけの何かが要る。地味な仕事を積むだけでは、催しの日に、僕はただの背景で終わる。

 目立つための、よっぽどのもの。

 それが何かは、考えるまでもなかった。城の東の山だ。あの青縁の札。領主家が高い金を積んでも片づかない、格上の魔物。あれを仕留めれば、名は一息に跳ね上がる。研究院だって、無視はできない。

 わかっている。ずっと、わかっている。

 わかっていて、指が伸びないのだ。あの山には、兄がいる。あの紋の下へ、自分から名乗り出ていく――そのひと足が、どうしても踏み出せない。城下の雑踏を歩きながら、僕は同じ場所を、もう何度目かもわからないくらい、ぐるぐると回っていた。


 その日の夕方、僕はまた、山の裾へ向かっていた。

 仕事のためではない。ただ、宿にじっとしていられなかった。傷を言い訳に休んだくせに、体のほうが、動いていないと落ち着かない。人目のない斜面で、循環のやり方でも、ひとりで詰めようと思った。それだけのつもりだった。

 斜面の中腹の、岩の陰まで来たとき、僕は足を止めた。

 少し先の、開けた窪地に、人影がある。

 男だった。

 あの、谷の男。城下では別に動くと言っておきながら、こんな山の中に、ひとりでいる。こんな時分に、こんな場所で、何をしているのか。声をかけようとして、僕はやめた。あの人の気配が、いつもと少し違っていたからだ。だらけた旅人の風はそのままなのに、肩のあたりに、薄く張りつめたものがある。岩陰に身を寄せて、様子をうかがった。そして、息を呑んだ。

 男の正面に、それがいた。


 牛の倍はある、黒い獣だった。

 背に岩のような瘤を背負い、四本の牙が下顎から反り返っている。山犬とも、麓の猪とも、格が違う。あれが、東の山の奥から下りてくる類のものだ。領主家の騎士たちが、命を落としながら相手にしているという、あの手の魔物。

 男は、丸腰だった。

 いつもの、手ぶらの、くたびれた旅人の格好で、その化け物の前に、ふらりと立っている。逃げる素振りもない。獣が咆哮を上げ、地を蹴って突進した。地面が揺れる。あんなものに正面から当たられれば、騎士の鎧だろうと、ひとたまりもない。

 男が、右手を軽く上げた。

 次の瞬間、獣の巨体が、横っ飛びに宙を舞った。

 ――流された。

 北の谷で僕を救ったときと同じ、あの見えない道が引かれるやつだ。だが、あのときとは桁が違った。あんな巨体を、羽虫でも払うように片手で真横へ流してのける。獣が地面に叩きつけられて、土煙が上がった。

 それだけでは終わらなかった。

 男がもう一方の手を獣へ向けると、指の先に火が生まれた。僕の絞りの火とは比べものにならない。太く白く束ねられた火柱が、唸りを上げて獣の胸へ突き刺さる。獣が絶叫した。その悲鳴に重ねて、今度は男の足もとから水が湧く。詠唱もない。手を振っただけで水の刃が幾条も奔り、獣の脚を薙いだ。

 火。水。流し。

 男はそれらをまぜこぜに、息をするように使っていた。ひとつ出すだけで精一杯の僕とは、何もかもが違う。属性がどうの、二枚までがどうのという枷は、この人には端からないのだ。四つ目の牙のような枷を、僕が後生大事に抱えているあいだ、この人はそんなものをとうに投げ捨てた場所に立っている。


 獣は、いくらも保たなかった。

 最後に男がぱちりと指を鳴らすと、獣の全身を青白い光がびりびりと走った。雷だ。鉄輪のクレイが、一発撃つだけで魔力を使い果たしていた、あの雷。それを、男は火や水の締めくくりに、片手間のように放った。獣は一度大きく痙攣して、それきり動かなくなった。

 男は、汗ひとつかいていなかった。

 息も乱れていない。倒した獣を一瞥もせず、無造作に踵を返す。手についた土を、ぱんぱんと払う。道端の草でも刈ってきたような、気の抜けた顔だった。あれを――騎士が何人も死んでいる、あの化け物を、こともなげに。

 僕は、岩陰にへばりついたまま動けずにいた。

 勝った気になっていた。四日前より強くなった、循環のやり方を掴んだ、十のうち四つになった。そんなことで、少し浮かれていた。馬鹿げている。ここに、こんなものがいる。僕とまったく同じ手を使って、こんな高みに立っている人が。僕が数歩の速さで喜んでいる、そのはるか先に。

 上には、上がいる。

 わかっていたはずのことが、いま体の芯まで冷たく染み込んできた。あの猪に、山犬に、勝ったくらいで。恥ずかしくて、顔が熱くなった。


 「いつまで、そこにいる気だ」

 男が、こちらを見もせずに言った。気づかれていた。当たり前だ。この人に、隠れられるはずがない。

 僕は、のろのろと岩陰から出た。何を言えばいいのか、わからなかった。

 「……あんた、そんなことが、できたのか」

 「見りゃわかるだろう」

 「なら、なんで」僕は、思わず口走っていた。「その気になれば、あんた一人で、あの山の魔物なんて、みんな片づけられる。騎士が、死なずに済む。なのに、なんで――」

 男は、そこでようやく、僕のほうを見た。

 その目には、僕を責めるでも、憐れむでもない、ただ乾いた色があった。

 「俺の山じゃねえからな」

 それだけだった。俺の山じゃない。俺の戦じゃない。だから、手は出さない。この人は、そういう生き方をしている。かかわらない。かかわれば、目立つ。目立てば――そこから先は、いつか聞いた話と、同じなのだろう。

 「お前もな」男は、山の上のほうへ、顎をしゃくった。「あの山を片づけたきゃ、自分で登れ。誰かに登らせるな。俺にも、な」

 その言葉が、妙に重く胸に残った。

 この人は、僕があの青縁の札の前で足を止めていることを、たぶん知っている。城下でのことも、山の裾でのことも、いつもどこかから見ている。目立ちたくない、けれど登らなければ何も片づかない。その堂々巡りを、この人は、とっくに見抜いている。そのうえで、片づけたいなら自分で登れと、それだけを言った。手も貸さないし、背中も押さない。ただ、逃げているぞと、言外に突きつけてくる。

 「あんたは」僕は、去りかけた背中に訊いた。「昔、何から逃げてたんだ」

 男の足が、一瞬だけ止まった。

 「……よけいなことを訊くな」

 振り返りもせず、それだけ言って、男はまた歩きだした。いつもそうだ。肝心なところで、この人は、必ず扉を閉める。だが、その一瞬の間が、答えの代わりのように、僕の胸に残った。この人も、何かから逃げて、逃げた末に、こんな山の中で、独りで化け物を薙いでいる。


 男は、それきり山を下りていった。

 僕は、倒れた獣のそばに、ひとり残された。近づいて、その巨体を見上げる。こんなものを、あの人は片手であしらった。そして、この同じ山の上では、兄が、部下を死なせながら、これと戦い続けている。

 僕には、まだ、これは倒せない。

 循環のやり方を掴んだくらいで届く高さじゃない。それは、はっきりした。だが、届かないと知ったことと諦めることは違う。あの人だって、はじめからあんなふうだったわけがない。どこかで僕と同じように、掌の火に手こずっていた時期が、あったはずなのだ。あの高みは、たどり着けないものではなく、ただ、ひどく遠いだけだ。そう思い直すことにした。そうでも思わなければ、膝から力が抜けそうだった。

 日が、山の向こうへ落ちていく。

 僕は倒れた獣のそばを離れて、斜面を下りはじめた。牙の一本でも折って持ち帰ろうかと思ったが、やめた。倒したのは僕じゃない。他人の手柄を懐に入れるのは、性に合わなかった。ただ、この山の上に何がいるのかを、この目で見た。それだけで、今日はもう十分だった。

 冷えた風が、斜面を吹き下ろしてくる。

 僕は、山の上のほうを今日はまっすぐ見上げた。あそこに兄がいる。あそこに、こんな化け物が、まだ何匹もいる。そのどちらからも、僕はまだ逃げ回っている。それを、認めるしかなかった。

 いつまでも裾で山犬を追っているわけには、いかないのかもしれない。

 そう思いながらも、じゃあ明日あの青縁の札に手を伸ばせるかと問われれば、答えは出なかった。結局その日も、僕はただ、山を下りた。

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