第59話「山の裾」
領都に来て、四日が過ぎた。
その間、僕は毎日、地味なC級の依頼を選んでは城壁の外へ出た。獣の間引き、荷の護衛、迷い牛の捜索。どれも実入りは渋い。だが、稼ぎのためだけにやっていたわけじゃない。人目のない街道の途中や休みの合間に、僕はあの循環のやり方をしつこく体に馴染ませていた。
少しずつ、通る回数は増えていた。
夜に掴んだときは十のうち二つか三つだったのが、いまは三つか四つになった。たいした差じゃない。それでも、火を灯すのも脚に力を乗せるのも、以前よりずっと長く続くようになった。掌の芯が空になるまでの時間が、目に見えて延びている。体の使い方ひとつで、こんなに変わるとは思わなかった。
あの猪と根競べをしていたころの自分が、遠く感じられた。
男とは、あれきり会っていなかった。三日でへばるぞと言い残して、あの人はまた、どこかへ消えてしまった。城下のどこかにはいるのだろう。だが、探す気も起きなかった。井戸は自分で掘れと言ったのはあの人だ。掘っている最中に覗きに来られるのも、なんだか癪だった。だから僕は、ただ独りで、掌と胸のあいだの道を、地道に踏み固めていた。
その日、依頼を探しにギルドへ寄ると、見知った顔があった。
鉄輪だ。宿場町で崖トロルを一緒に狩った、あの四人組。まさか領都で会うとは思わなかった。剣士のダーグが、僕に気づいて片手を上げた。
「よう。生きてたか」
「……あんたたちも、こっちに」
「催しだよ」ダーグは依頼板を顎で示した。「珍しい才を、上の連中が見に来るって話だろ。うちのクレイを、どこぞの研究院に売り込む好機だ。田舎で燻ってる手はねえ」
治し手のシェナが、横から笑った。売り込むだなんて、と口では言いながら、満更でもない顔だ。あんたも来てたのね、催しに、と当たり前のように言われて、僕は曖昧に頷いた。ちがう、と訂正するのも面倒だった。大盾のグランは相変わらず無口で、僕に向かって、ちいさく顎を引いただけだった。あの崖トロルの時、半歩のいなしに目を見張った男だ。無口なりに、こちらを覚えていてくれるのは、悪い気はしなかった。
雷使いのクレイだけが、腕を組んで、僕をじっと見ていた。
「あんた、なんか変わったな」
「そうか」
「前に会ったときより、動きの芯が据わってる。……あの妙に細い火も、まだ使ってんのか」
どきりとした。顔には出さない。クレイは、二属性の火のことを、まだ引っかけている。目の利く男だ。こういう相手が、いちばん厄介だった。
「火は火だ」僕は肩をすくめた。「細いのは、生まれつきさ」
クレイは、ふん、と鼻を鳴らして、それ以上は追わなかった。追う義理も、いまはないんだろう。だが、催しの場で、こいつとまた顔を合わせるのかと思うと、少し気が重かった。目の肥えた同業ほど、僕の仮面には障る。
鉄輪は、東の山の依頼を狙っているらしかった。
ダーグいわく、いま領都で割のいい仕事は、たいてい東の山がらみだという。山が荒れて、麓へ魔物が下りてくる。その掃討に、ギルドがいくつも札を出している。報酬も、ふだんより張っている。
「お前も来るか」ダーグが言った。「腕は確かだ。頭数は多いほうがいい」
誘いだった。悪くない誘いだ。あの四人と組めば、一人でやるより、ずっと楽に、ずっと稼げる。
それでも、僕は首を横に振った。
「悪いが、独りのほうが性に合う」
嘘ではなかった。ただ、それだけが理由でもない。誰かと組めば、力の使い方を、いやでも近くで見られる。あの細い火の、その裏まで。クレイのような目の前で、循環のやり方なんて試せない。独りでいるのは、いまの僕には、隠れるための必要でもあった。
ダーグは、そうかい、とあっさり引いた。無理に誘うでも、見下すでもない。この男の、こういうところは、嫌いじゃなかった。
僕が選んだのも、結局、東の山の札だった。
といっても、鉄輪が狙う奥のほうではない。山の裾、麓にいちばん近い斜面で、下りてきた魔物が畑や炭焼き小屋を荒らしている。その掃討。C級の中でも、下のほうの仕事だ。それでも、山へ足を踏み入れるのは、これが初めてだった。
東の山。
あの青縁の札に描かれた、アークライトの狩り場。兄が、部下を失いながら登っているという、あの山。その、いちばん下の裾を、僕はいま、自分の依頼で踏んでいる。妙な気分だった。近づいてはいけないと思っている場所へ、仕事のたびに、少しずつ吸い寄せられていく。
魔物は、じきに見つかった。
牙のある、痩せた山犬の群れだ。麓の獣とは目つきが違う。飢えて、気が立っている。数は六、七匹。囲まれれば、ひとりでは面倒な数だった。
僕は、炭焼き小屋の壁を背にとった。三方から来られないように。ここまでは、いつもの知恵だ。
問題は、その先だった。
群れの一匹が地を蹴って飛びかかってくる。僕は脚に、力を乗せた。掌でひねり出すのではなく、胸の奥から、腿を伝って流れてくるものに、ただ乗せる。半歩、体が滑って、牙が空を切った。そのまま山刀の柄で首の付け根を打つ。一匹。息は、ほとんど乱れていない。以前なら、この一手で、もう脚の力が尽きかけていたはずだ。
続けて二匹目、三匹目。
いなして、打つ。またいなして、打つ。流れに乗せた脚は、思ったより長く保った。踏み込むたびに、いつもの倍の速さで間合いが詰まる。相手の牙が届く前に、こちらの一撃が入る。剣で受けるのでも、力でねじ伏せるのでもない。速さで、先に触る。ボルツに叩き込まれた柔の間合いに、身体強化の速さが素直に乗っている。四匹目までは、危なげなかった。
これはいけるかもしれない。
そう思った、まさにその瞬間だった。
五匹目が、横合いから来た。慌てて避けようとした拍子に、脚に乗せていた力が、ふっと逃げた。気が急いたのだ。速く動こうと欲を出したとたん、意識が掌のほうへ戻ってしまった。ここぞという場面で、いちばんやってはいけない癖が出た。踏ん張りがきかず、体が泳ぐ。かわしきれず、牙が左の二の腕をかすめた。血が滲む。浅い。浅いが、じんと痛い。
――ほら、これだ。
頭の隅で、自分を嗤う声がした。四つ、と数えていたぶんが、こういう肝心なところで、するりと手からこぼれる。
落ち着け。力むな。
壁に背を戻して、息を整える。胸の脈に、もう一度、気を沈める。焦れば焦るほど、逃げる。それは、この四日で、嫌というほど体に教え込まれたことだった。ゆっくり、拍子に乗せる。脚に、じわりと力が戻ってくる。
残りの三匹は、火で片づけることにした。
人目はない。ここでなら、絞った火も使える。二の腕の痛みを奥へ押しやって、僕は胸の脈に気を沈めた。焦るな。数えるな。ただ、巡っているものを、掌まで運ぶ。細く、鋭く。青白い火が、指の先に立った。それを、飛びかかってくる山犬の眉間へ、まっすぐ放つ。
以前の半分も魔力を食わなかった。
同じ火だ。同じ大きさの、同じ鋭さの火。それが、こんなに軽い。掌でひねり出していたころは、二発も撃てば頭の芯が痺れたのに、いまは三発目を撃ってもまだ余りがある。山犬が一匹、また一匹と、斜面に転がった。最後の一匹は、勝てないと見たのか、尾を巻いて斜面の上へ駆け去っていった。
追わなかった。
僕は壁にもたれて、二の腕の傷を押さえながら、しばらく荒い息を吐いていた。勝った。四日前より、ずっとましに戦えた。それは確かだ。だが、五匹目で崩れた。あそこで気を抜かなければ、腕を裂かれることもなかった。まだ、四つだ。十のうち、四つ。残りの六つは、いつ足をすくうかわからない。
傷を布で縛って、斜面を下りかけたとき、僕はそれに気づいた。
炭焼き小屋の裏手の、木の根方に、小さな土の盛り上がりがあった。誰かが、急ごしらえで土を被せた跡だ。その上に、折れた槍が一本、墓標のように突き立てられている。槍の柄には、色褪せた布切れが結ばれていた。
三つ塔の、紋だった。
領主家の騎士だ。ここまで下りてきて、力尽きたのか。それとも、山の上で死んで、下ろされる途中で、ここに埋められたのか。仲間が、せめてもと土を被せていったのだろう。ボルツを、村のみんなを埋めた、あの日のことが、否応なく重なった。
僕は、その土の前に、しばらく立っていた。
名も知らない騎士だ。顔も知らない。ただ、この人は、兄の下で戦って、ここで死んだ。土を被せた仲間も、きっと泣く暇もなく、山を下りていったのだろう。あの日の僕らと、同じだ。埋めて、それから、生きているほうが歩き出す。それしか、できることがない。
東の山の上では、まだ、こういうことが続いている。兄が、部下を、一人また一人と失いながら、山を下りずにいる。その札を片づける力が、いまの僕に、まったくないわけじゃない。四日前より、確かに、僕は強くなった。循環のやり方も、少しずつ手に馴染んできている。
それでも、指はやっぱり、あの青縁の札には伸びないのだ。
強くなる速さより、あの山の上で人が死んでいく速さのほうが、たぶん、ずっと速い。そう思っても、僕はまだ、あの紋の下へ名乗り出る覚悟を、決められずにいた。
折れた槍の布切れが、山からの風に、ぱたぱたと鳴っていた。
日が傾く前に、僕は山を下りた。二の腕の傷が、じくじくと痛んだ。宿へ帰ったら、まず、これを洗って、飯を食って、それから今日の分を落書き帳に書きつけよう。四つのうち、一つを肝心なところで落とした。次はそこだ。そんな、目の前のことばかりを、僕はわざと考えていた。山の上のことも、青縁の札のことも、いまは考えたくなかった。
裾の道を、僕はひとりで歩いた。山の上を、振り返りはしなかった。
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