第58話「脈」
その晩は、寝つけなかった。
昼の猪だ。勝ったには勝ったが、後味が悪い。膝の奥がまだ疼くし、掌に力が入らない。あの一戦で、身体強化は一度だけ、気持ちがいいくらい決まった。いなしの半歩に速さが乗って、体がすっと横へ滑った。あの感触は忘れられない。忘れられないぶん、そのあとがひどかった。二歩目で膝が抜けて、それきりだ。三歩も走らないうちに、掌の芯まで空になった。
燃費が悪い。男にさんざん言われてきたことだ。お前は無駄に食う、と。
言われるまでもない。ただ、どこがどう無駄なのか、それがわからない。わからないまま寝返りばかり打っていたら、余計に目が冴えてきた。
隣の部屋で、酔っぱらいが誰かと言い争っている声がする。壁が薄い。安宿だから仕方ない。天井の染みを見上げながら、僕は昼間の一戦を、頭のなかで何度も巻き戻していた。あの膝が抜ける寸前、何かがすっと抜けていく感じがあった。あれは、いったい何が抜けたんだ。血でもない、汗でもない。もっと、体の内側の何かだ。考えても、答えは出ない。ただ、目だけがどんどん冴えていく。
起きて、床にあぐらをかいた。
外はまだ暗い。誰も見ちゃいない。火くらいなら、灯してもいいだろう。
掌を上に向けて、いつもの渦を立てにかかる。ここに気を集めて、じわりと熱を絞り出す。火の作り方を覚えた日から、ずっとこうしてきた。火は掌から出るもんだと、疑ったこともなかった。
だが、その晩は出なかった。
疲れていたんだと思う。掌に気を集めるそばから、力が逃げていく。何度やっても、渦になる前に散る。焦れて、ぎゅっと力を込めた。力を込めたら、もっと逃げた。
力むな。乗せろ。
例の言葉を胸で唱えて、肩の力を抜く。それでも乗ってこない。というより、乗せるための元手が、掌のあたりには、もう残っていない気がした。
残っていない。――じゃあ、いつもの火は、どこから出ていたんだ。
考えたこともなかった。
火が掌から出る。だから力も掌にあると、なんとなく思い込んでいた。井戸のようなものが、掌のここに埋まっているんだと。でも、掌が空になったいまも、体の芯のほうは、まだ妙に温かい。冷えて空っぽになったのは掌だけで、奥のほうは、ちっとも尽きていない。
試しに、掌のことは忘れて、体の奥のほうへ気を向けてみた。
最初は、腕だと思った。火が指から出るなら、そこへ至る腕の筋のどこかに、通り道があるんじゃないか。肘のあたりに気を凝らしてみる。何も感じない。次は腹だ。飯を食えば力が出るんだから、力の元は腹にあるのかもしれない。臍のあたりを探ってみる。これも、空振りだった。暗い部屋で、掌を上に向けて、あちこちに気を向けては外している。傍から見たら、相当おかしな男だ。
そうやって、あてもなく体をまさぐっているうちに、胸に行き当たった。
昼間、身体強化を使いすぎて息が上がったとき、いちばん暴れていたところ。耳に力を通しすぎて、自分の心臓の音が頭の中で鳴りやまなくなった、あのときの。ここだ、という確信があったわけじゃない。ただ、ほかに探すところが、もう思いつかなかった。
目を閉じて、その鼓動に気を沈めていく。
どく、どく、と胸の奥が打っている。そこから何かが、体じゅうへ送り出されていくのが、なんとなくわかる。首、腕、指の先。血が流れていくのに合わせて、火の元になる力も、その同じ道を巡っていた。ずっとそこにあったのに、いままで一度も、目を向けたことがなかった。
その流れに、火を、そっと乗せてみた。
――出た。
うまく言えない。とにかく、掌でひねり出していたのとは、まるきり違った。奥から流れてくるものに、火をちょっと重ねてやるだけで、指の先まですうっと通る。掌のまん中に、小さな火がともった。昨日までのどれより小さい。そのくせ、灯すのに使った力は、笑ってしまうくらい少なかった。
しばらく、その火を見ていた。
なんだ。そういうことか。掌で作っていたんじゃない。奥から来るのを、掌まで運んでやればよかっただけだ。それを知らずに、出口のところで力ずくで搾り取ろうとしていたから、あんなにぼろぼろ漏れていた。
――決めつけるなよ。まだ一度だけだ。
いつもの、自分への釘だ。それでも胸は、勝手に高鳴っていた。さっきまでとは違う意味で、心臓がうるさかった。
だが、そのすぐあとで、僕は不安になった。
もう一度やってみたら、今度は出なかったのだ。さっきと同じように胸へ気を沈めたつもりが、火は掌の手前で頼りなく散った。次も、その次も駄目だった。焦りが顔を出す。まぐれだったんじゃないか。疲れた頭が、たまたま気持ちのいい錯覚を見せただけで、明日になれば元通りなんじゃないか。絞りのときも、そうだった。一度まぐれで出て、それきり、何日も掴めなかった。あの繰り返しだったら、たまらない。
それでも、夜が白むまで、飽きずにやった。
やっているうちに、だんだん、うまくいく時の感じが掴めてきた。力もうとするから駄目なのだ。胸が勝手に打っている、その拍子を邪魔しないで、火をそっと便乗させる。それくらいのつもりでいると、たまに、すっと通る。逆に、早く火を出したいと気が焦ると、決まって掌に力が入って、そこで全部がつっかえる。頭ではわかっても、体はすぐ元の癖に戻りたがる。うまくいくのは、結局、十のうち二つか三つだった。
それでも、その二つ三つは本物だった。同じ大きさの火が、半分よりずっと少ない力で灯る。何度出しても、掌の芯がなかなか空にならない。膝を抱えて壁にもたれたまま、僕は何度も、その小さな火をともしては消した。灯すたびに、指の先が、ぬるく温かい。
燃費が悪かったんじゃない。ただ、やり方が遠回りだっただけだ。
ふと、火を使う連中のことが頭をよぎった。兄も、街道の風使いも、ギルドで杯を凍らせていた男も、みんな詠唱ひとつで、平気な顔で魔法を出す。あの連中は、こんなふうに掌と胸のあいだで苦労したりはしないんだろう。詠唱が、勝手に全部やってくれるから。……まあ、いい。僕にはその詠唱がない。ないから、こうして手探りで元をたどるしかなかった。それだけの話だ。
外が白んできたころ、宿を出て、城壁ぎわの空き地へ行った。
男がいた。崩れた石垣に腰かけて、こっちを見ている。城下では別に動くと言っておいて、こういうときだけ、当たり前の顔でそこにいる。
「顔が変わったな」
「……元を、見つけた気がする。掌じゃなかった。もっと奥だ」
男はふん、と鼻を鳴らした。笑ったのか、呆れたのか、わからない。
「そこに気づくのに、ずいぶんかかったな」
「知ってたなら、言ってくれてもよかっただろ」
「教わったもんは、抜ける」男は腰を上げた。「自分で見つけたもんは、抜けねえ。それだけだ」
いつものことだった。答えは持っている。持っているくせに、渡さない。それがこの人なりの渡し方なんだと、近ごろようやくわかってきた。
「まだ、十のうち二つか三つだ」
「上等だろ。昨日まではゼロだったんだ」
それもそうだ、と思った。言い返す言葉が見つからなくて、僕は黙った。男はこちらの返事を待つでもなく、腰の後ろを軽く叩いて、凝りをほぐすような仕草をした。この人も、朝は体が固いらしい。そんな当たり前のことが、なぜか、少しおかしかった。
「飯は食ったのか」
急に、そんなことを訊かれた。まだだ、と答えると、男はふん、とまた鼻を鳴らした。
「根を詰めすぎるな。初日に張り切るやつぁ、たいてい三日でへばる」
それだけ言って、男はもやの向こうへ歩いていった。引き止めはしなかった。
空き地の隅で、もう一度、掌を上に向けた。
胸の脈に気を沈める。奥の流れに火を乗せて、掌まで運ぶ。今度は一度で、ちりっと火がついた。誰も見ていない、朝の光の中の、みみっちい火だ。名も上がらないし、噂にもならない。それでも、昨日までのどの火とも違った。
消して、次は脚だ。
猪のとき膝が抜けたのも、たぶん、これと同じことだったんだと思う。脚のところで力を無理にひねり出すから、通しすぎて抜けたし、すぐ息が切れた。今度は胸から、腿を下っていく流れに合わせて、力をそっと流してやる。
その場で、軽く地面を蹴った。
一度目は、加減を外した。流しすぎて、右足がつるっと滑って、危うく尻餅をつきかけた。誰も見ていなくてよかった、と本気で思った。二度目は、逆に足りなくて、いつもの脚と変わらなかった。三度目に、ようやく、それらしいのが出た。
膝は、抜けなかった。昨日よりずっと軽い力で、体が前へ出る。数歩が、五歩か六歩になったくらいだ。たいした距離じゃない。それでも、走ったあとの、あの芯まで抜ける感じが来ない。まだ、火の一つも灯せるだけ、残っている。
ひとりで、ちょっと笑ってしまった。同じ力で、こんなに違うのか。今までどれだけ、無駄に捨ててきたんだ。腹の底で、昨日の猪との一戦を思い出す。あのときこれを知っていたら、膝が抜けることも、根競べに持ち込まれることもなかったかもしれない。今さらだ。今さらだが、悔しさよりも、次はもう少しましに戦えるという手応えのほうが、勝った。
東の空を見た。
屋根の向こうの、そのまた向こうに、あの山がある。青縁の札も、兄のことも、何ひとつ片づいていない。指は、あいかわらずあの札に伸びない。
ただ、昨日よりは、ほんの少し遠くまで力が届く。今日わかったのは、それだけだ。半月で、この二つ三つを、どこまで増やせるか。
腹が減っていた。とりあえず、飯にしようと思った。
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