第57話「下りてくるもの」
依頼は、拍子抜けするほど地味なものだった。
城壁の外の街道で、荷を狙う小物の獣が増えている。その間引き。報酬は渋い。だが領都に着いた初日に、いきなり格上へ手を伸ばす気にはなれなかった。まずは体を、この土地に馴染ませる。そう決めて、僕は朝のうちに西の門を出た。
男の姿は、その朝も見なかった。
あの人は、こういう小さな仕事にはついてこない。どこかで勝手に、この町の裏側でも嗅ぎ回っているのだろう。ひとりで街道を歩くのは、久しぶりだった。
小物の獣は、すぐに見つかった。
犬ほどの、灰色の毛玉のような獣だ。名も知らない。荷馬の脚を狙って草むらから飛び出してくる、その程度の相手だった。ギルドの札にも、討伐というより追い払いに近い、と書いてあった。
ただ、数が妙に多かった。
一匹を追い払えば、草むらの奥からまた二匹。倒しても倒しても、湧いてくる。しかも、どいつもこいつも様子がおかしい。腹を空かせて荷を狙う獣の目ではなかった。何かに追われて、我を忘れて逃げている。そういう、上ずった目をしていた。
そのうちの一匹を、火で追い払いながら、僕は妙なことに気づいた。
獣たちが、みんな同じ方を向いて逃げてくる。東から西へ。山を背にして、城下のほうへ。山の奥に、こいつらより恐ろしい何かがいる。その逃げ方が、そう言っていた。
東の山。
城下で耳にした声が、頭の隅で小さく鳴った。東の山がまた荒れている。人手が足りん――。
昼過ぎ、街道の脇の小さな畑地で、僕は鍬を持った男に呼び止められた。
このあたりの畑を耕している、痩せた中年の百姓だ。獣を追い払ってくれるのはありがたい、と礼を言ったあと、彼は空を仰いで、うんざりした顔をした。
「今年は、山がひどくてなあ」
訊けば、東の山では毎年この時季に魔物が湧くが、今年はその出が例年になく多いのだという。山の獣が魔物に追われて麓へ下り、その獣がまた里の畑を荒らす。玉突きだ。僕がいま追い払っている毛玉の群れも、もとをたどれば山から押し出されてきたものらしい。
「領主さまも、討伐の札を出しなさってる。腕のいい冒険者を、うんと高く買ってな」男は鍬にもたれた。「けど、山が険しくて、なかなか片づかん。若い当主さまが、じきじきに山へ入られるって話も聞いたが……まあ、噂だな」
その話に、手が止まりかけた。
若い当主。カイル。あの人が、今、あの山にいるかもしれない。そう思っただけで、掌の火が、わけもなく揺らいだ。
「どうしたんだい。ずいぶん、じっと聞くねえ」
「……いや」僕はまた同じ嘘をついた。慣れたはずの嘘が、今日はなぜか、少し喉に引っかかった。
畑地を離れて、しばらく街道を東へ戻ったところで、それは出た。
草むらではなく、街道のまん中に、堂々と立っていた。毛玉の獣とは、桁が違う。牛ほどもある、赤黒い毛の猪だ。牙が湾曲して、鼻先の上まで反り返っている。麓まで下りてきた、山の魔物。逃げ惑う小物どもを追い立てていた張本人は、こいつだったのだろう。
厄介だ、と即座に思った。
札に書かれた小物の間引きとは、比べものにならない格の相手だ。本来なら、応援を呼んで引くべきだった。だが、猪の向こうには、荷を積んだ行商の一団がいた。逃げ遅れて、荷車の陰で固まっている。引けば、あれが踏み潰される。
僕は、山刀の柄を握り直した。
まず、詠唱を口の中で転がして、火を灯す。人目がある。ここでは、二属性の現代魔法使いのふりを崩せない。細く絞った火ではなく、わざと大ぶりに広げた火を、猪の顔先で弾けさせた。目くらましだ。猪が鼻面を振って怯んだ、その一瞬に、僕は脚へ力を通した。
数歩。あの、三日かけてやっと出せるようになった、数歩の速さ。
それが、初めて戦いのただ中で出た。地面を蹴った足が、いつもより深く食い込んで、体が矢のように横へ滑る。猪の突進を、紙一重で外へ流した。ボルツに叩き込まれた、いなしの半歩。それに、身体強化の速さが乗る。二つが噛み合った瞬間の、あの体の軽さ。息を呑むほど、鋭かった。
だが、続かなかった。
二度目の踏み込みで、右の膝が、がくりと抜けた。力を通しすぎたのだ。加減を、まだ体が覚えきっていない。たたらを踏んで、たたらを踏んだところへ、猪の反転がくる。とっさに横へ転がって、牙をかわす。地面を這うように逃げながら、僕は舌打ちした。掌の芯が、もう半分は空だった。身体強化は、いかにも燃費が悪い。使えば使うほど、体の芯から力が抜けていく。
結局、最後は泥臭かった。
抜けた膝をだましだまし、風で砂を巻き上げて猪の目を潰し、その隙に、絞った――つもりが、人目を気にして中途半端に広がった火を、牙の付け根へ叩き込む。一撃では、倒れない。二度、三度。猪が血を噴きながら暴れるのを、山刀でいなし、また火を入れる。その繰り返しだ。決まり手なんてものは、どこにもなかった。ただ、根競べに勝っただけだ。
猪がようやく前脚を折ったとき、僕は街道に尻をついて、しばらく立てなかった。
肩で息をしながら、頭の隅では、いつもの癖でその一戦を数えていた。よかったこと。悪かったこと。まず、身体強化の速さが、初めて命のかかった場面で役に立った。いなしの半歩に速さが乗ったあの瞬間の鋭さは、稽古では一度も出せなかったものだ。それは、確かな手応えだった。ただ、続かない。二歩目で膝が抜け、掌はあっという間に空になった。加減も、燃費も、まだ話にならない。落書き帳を出す気力はなかったが、忘れないように、その二つだけを胸の内で唱えた。使えた。だが、まだ数歩ぶんだ。それが、今日の正直なところだった。
行商の一団は、震えながら、それでも礼を言いに来た。
二属性の、若い冒険者さま。そう呼ばれた。詠唱を被せた火と、砂を巻いた風。彼らの目には、それしか映っていない。膝が抜けたことも、火がうまく絞れなかったことも、誰も気づかない。僕が本当は何と何を使って、どこで失敗したのか。見えている人間は、この街道に一人もいなかった。
いつものことだ。妙な気分にも、もう慣れた。
ただ、荷の礼にと押しつけられた干し肉の包みが、やけに重く感じられた。この猪一頭で、僕はまた少し、名を積んだ。二属性の若いのが、麓まで下りた山の魔物を独りで仕留めた。その話は、たぶん今日じゅうに、城下のギルドへ届く。届けば、査定が動く。名が、また一段、重くなる。
門へ引き返す道の途中で、僕は馬蹄の音に道の端へ寄った。
東の山のほうから、騎馬の一団が下りてくる。揃いの外套の胸に、三つ塔の紋。領主家の騎士だ。今朝、城下ですれ違ったのと同じ紋を、こんなところでまた見るとは思わなかった。十騎ほどが、疲れきった馬を歩ませている。先頭の一頭には、鞍に横たえられた男が一人。外套を頭からかけられて、身じろぎもしない。運ばれているのが何なのかは、訊くまでもなかった。
僕は俯いて、道の草に目を落とした。
見送るあいだ、こらえきれずに、また悪い癖が出た。耳へ、そっと力を通す。すれ違う騎士たちの、低い声が耳の奥へ滑り込んでくる。あと二人が戻らん。頂の岩場のやつは、もう手に負えん。カイルさまは、それでも山を下りぬとおっしゃっている――。そこまで拾って、僕は慌てて力を解いた。こめかみが、鈍く痛む。
カイルは、まだ山にいる。
部下を担いで下ろしてなお、自分は山を下りようとしない。名を売るためか、意地か、それとも、ほかの何かなのか。庭の隅から見送ったあの背中が、いつのまにか、死んだ部下を担いで山を下りる人になっていた。僕の知らないうちに。騎馬の列が土埃の向こうへ消えるまで、僕は道の端で、ただ突っ立っていた。何を思えばいいのか、自分でも、うまく掴めなかった。
その晩、僕はギルドの依頼板の前に、また立っていた。
昼間の猪のことを控えに書いて、報酬を受け取ったついでだ。板の隅で、青い縁の札が、昨日と同じ場所に留まっている。城の東の山の、魔物討伐。アークライトの、三つ塔の紋。
今日、僕が街道で片づけた猪も、たどっていけば、あの山から下りてきたものだった。
根を断つなら、山だ。麓でいくら毛玉を追い払っても、山が荒れているかぎり、獣はまた下りてくる。わかっている。わかっているし、あの札の報酬なら、ひと息にB級が見えてくる。催しまでの半月を思えば、これ以上の近道はない。
それでも、指は動かなかった。
あの紋の下へ、自分から名乗り出て、あの山へ登っていく。運が悪ければ、山のどこかで、兄と出くわす。カイル・アークライト。名の売れた、火の使い手。僕を庭の隅に置き去りにして、正面の門をくぐっていった人。
――似ている、と言われたら、どうする。
馬鹿げた心配だ、と自分でも思う。五年で顔つきも背丈も変わった。名だってレイだ。向こうが、追い出した弟の顔を、街道の冒険者の中に探すはずもない。それでも、その万に一つが、僕の指を凍らせる。
結局その晩も、僕は青い縁の札に、手を触れなかった。
板の左から、また地味なC級を一枚剥がした。城壁の外の、別の街道の、別の間引き。逃げているのは、たぶん自分でもわかっていた。ただ、もう少しだけ。もう少しだけ、山の下で、腕を馴らしておきたかった。
半月は、まだある。
そう思おうとして、宿へ帰る道すがら、それが自分への言い訳だということにも、うすうす気づいていた。山は待ってくれない。獣は明日もまた麓へ下りてくるし、あの札は、いつか誰かが剥がしていく。今日運ばれていった外套の下の男のことが、なぜか、なかなか頭を離れなかった。会ったこともない、名も知らない騎士だ。それでも、あの人を山へ送り出したのが兄なのだと思うと、干し肉の包みの重さとは別の何かが、胸の底に沈んだ。
城の塔が、今夜も屋根の向こうで、篝火に赤く滲んでいた。
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