第55話「地力」
宿場町を出ると、街道はふいに人の声を失った。
領都へ向かう荷車の数はむしろ増えているのに、御者たちは口を閉ざし、黙って手綱を握っている。城下が近づくと、誰もが身なりや言葉づかいを気にしはじめるのかもしれない。僕のほうは身なりどころではなかった。頭を占めているのは、この道の先にある町のことばかりだ。領都。父の城のある町。近づくほどに、腹の底へ冷たい石を呑み込んだような重さが溜まっていく。考えまいとするほど、そればかりが胸に膨らんだ。
男は今朝も、当たり前のような顔で街道の端に立っていた。C級に上がったことを、僕はわざわざ告げなかった。告げるまでもなく、あの町での査定を、この人はどこかの物陰から眺めていたのだろう。僕の何もかもが、たいていこの男には見られている。
その日の昼、街道脇の平たい岩に腰を下ろして、僕は絞りの稽古をしていた。
休むたびに掌へ渦を立てる。この繰り返しのおかげで、火が出る日と出ない日の差は、少しずつ埋まってきた。肩の力を抜いてやれば、三度に二度は青白い火が立つ。それでもまだ、命のかかった場面で当てにできるほどではない。
男は岩の向こうから、そんな僕を眺めていた。
「火ばかりだな」
「……ほかに、何を稽古しろって言うんだ」
「お前は体がよく動くくせに、肝心なところで魔力を無駄に食う」男は足もとの小石をひとつ拾い上げた。「火だ風だと、いちいち外へ吐き出すからだ。外へ出せば目立つし、そのぶん食う。……力を内側に使うって手を、お前は知らねえだろう」
内側。言葉の意味が、すぐには掴めなかった。
男は、その小石を無造作に前へ放った。
退屈しのぎに石を投げる、老いた旅人。傍目にはそれだけの、気の抜けた動きだった。ところが小石は、街道のはるか先で立ち枯れた木の幹に、こつん、と乾いた音を残して埋まった。届いた、のではない。食い込んだのだ。あんな緩い手つきから放たれた石が、あの距離を越えて、あの深さまで。
僕は目を疑って、男の手を見た。
「詠唱、してない」
「するもんか。外へは何ひとつ出しちゃいねえ」男は掌をこちらへ開いてみせた。焦げも、火花も、光の名残もない。ただの皺だらけの手だ。「体の中を巡る力を、逃がさずに腕の一本へ束ねて通しただけさ。筋へ、骨へ、指の先へな。人の体ってのは、うまく力を通してやりゃ、こんなもんじゃ済まねえ」
外へ撃つのではなく、その力を、そっくり自分の体の中へ流し込む。
言葉にすればそれだけのことだった。けれど、その〈それだけ〉が、僕の頭の中で静かに膨らんでいった。
「これのいいところはな」男はめずらしく、自分から先を続けた。「傍から見て、何をしてるのかさっぱりわからねえってことだ」
わからない――その一語が、じわりと効いてきた。
火を出せば二属性かと騒がれる。風を起こせば、目の利く者が僕の手元を睨む。だが、これはどうだ。詠唱もない。光もない。ただ足が速い。腕が強い。目や耳がいい。外からは、それだけにしか見えない。
「地力のある剣士。人前じゃ、せいぜいそう思われるだけだ。誰もそれ以上は詮索しねえ」男は石を拾いに歩きだした。「お前の抱えてる隠しごとと、いちばん折り合いがいい力さ」
その言葉は、思っていたよりずっと深いところへ落ちた。
これまで原初式は、使えば使うほど正体へ近づいてしまう、諸刃の力だった。だから人前では詠唱を上から被せ、火と風の二枚までと自分を縛ってきた。それが――これひとつだけは、誰の目の前でも、堂々と使える。素性を隠したまま、強くなれる。そんな抜け道が、あったのか。
「力だけじゃねえぞ」男が付け足した。「速さにも、目や耳にも同じように使える。要は、束ねた力をどこへ通すか、それだけの違いだ」
目にも、耳にも。僕は思わず自分の掌を見つめた。初めて火を作れたと気づいた、あの夜の感覚がよみがえる。足の裏がむずむずして、じっとしていられない。まだ開けていない扉が、また一枚、目の前に立っている。
その日から、僕は身体のほうを練りはじめた。
言うは易しとは、まさにこのことだった。
まず、踏み込む足へ力を集めてみる。掌に火の渦を立てるのと同じ要領のはずが、まったく勝手が違った。外へ放つ火なら、多少形が乱れても勝手に飛んでいってくれる。だが体の内側は、そうはいかない。力を送り込みすぎると、支えるはずの膝がかえってがくりと抜けて、前へつんのめった。加減をひとつ間違えるだけで、強くしたはずの脚が、自分の重さにすら耐えられなくなる。
試しに右腕へ力を集めて、道端の太い枯れ枝を殴ってみたこともある。枝は握り飯でも潰すようにあっけなく折れて、その手応えに思わず声が漏れた。だが次の瞬間、肩の奥で骨がみしりと軋んだ。腕へ一気に通した力が、行き場を失って、そのまま自分の関節へ跳ね返ってきたのだ。しばらくのあいだ、右腕は痺れて上がらなかった。強くしたはずの体そのものが、その強さにまだ追いついていない。
目と耳は、もっと厄介だった。ためしに耳へ力を流してみると、それまで遠かった音がいちどきに雪崩れ込んできた。草むらの虫の羽音、坂の下の荷車の軋み、隣で焚き火を突く男の息づかい、しまいには自分の心臓の脈打つ音まで。あたり一帯の物音に頭をまるごと鷲掴みにされて、こめかみの奥がずきずきと痛んだ。慌てて力を解くと、あたりは何事もなかったように、いつもの静けさへ戻る。強くするだけなら、拍子抜けするほど易しい。難しいのは、どこで止めるか、そのさじ加減のほうだった。
「加減を覚えろ」男はまた、腕を組んで見ているだけだ。「力むな。乗せるんだよ。火のときと、なんも変わらねえ」
力むな。乗せろ。
落書き帳の隅に書きつけた、あの一行が、こんなところで戻ってくるとは思わなかった。外へ吐く火も、内へ通す力も、根っこはひとつらしい。握ろうとすれば逃げ、力を込めれば壊れる。ふっと力を抜いて、掌へそっと乗せてやる。魔法も、剣も、この体も、突きつめれば同じひとつのことを、僕に言い聞かせてくる気がした。
三日、かかった。
朝と、昼の休みと、夜の焚き火の前。手が空くたびに、体のどこかへ力を通しては加減を探った。腿へ集めて跳ぶ。肩へ集めて打つ。足首へ薄く流して、着地の衝撃を殺す。うまくいく回数など、片手で数え終わるほどしかない。たいていは力を込めすぎて筋を痛めるか、足りずに何も起きないかの、どちらかだ。体の内側は外へ放つ火よりもずっと繊細で、ほんの少しの狂いが、そっくりそのまま自分へ返ってくる。
それでも三日目の夕方、ほんの一瞬だけ、脚に力をうまく乗せて走ることができた。せいぜい数歩。いつもの倍の速さで地面を蹴ったと思ったら、もう息が切れて、掌の芯が芯まで空っぽになる。燃費は絞りよりもよほど悪い。理解が浅いぶん、通した力の大半が、道の途中でぽろぽろ漏れて消えていく。そんな手応えだった。
それでも、その数歩の速さだけは、本物だった。
その速さが役に立ったのは、翌日の街道でのことだ。荷を積みすぎた馬車が下り坂で御しきれず、ぐらりと傾いで横倒しになりかけた。荷台の真下には、投げ出された御者の子供がいる。いつもの脚では、とても間に合う距離ではなかった。それでも、あの数歩が出た。子供の襟首を掴んで後ろへ引き倒した直後、積み荷が、たった今まで子供のいた場所へ地響きを立てて崩れ落ちた。
助け起こすと、子供はまだ何が起きたのかわからない顔で、きょとんとしていた。ただ、お兄ちゃん足が速いんだね、とだけ言った。荷を積み直しながら、御者の親父も命拾いの礼のついでに「若えのは足があっていいや」と笑っただけだ。それで終わりだった。誰も火のことも風のことも口にしない。口にしようがない。何ひとつ、見えていないのだから。
足が速い。
ただ、それだけ。誰ひとり、僕が本当は何をしたのか気づかない。気づかれないまま、僕は確かに一人、人を助けた。妙な気分だった。誇らしいような、拍子抜けしたような。人を守って火を見られ、その噂に追い立てられた北の谷とは、何もかもが裏返しだ。仮面を被ったまま、初めて素顔の力を使えた気がした。この力なら、誰かを守っても、囲われて消される場所へは近づかずに済むのかもしれない。
その晩、焚き火を挟んで、僕は男に訊いてみた。
「あんたは、これをどこで覚えたんだ」
訊いた端から、しまった、と思った。この人は、こういう問いには答えない。
男はしばらく、燃える枝を見つめたまま黙っていた。
「……昔は、こんなもの、誰にでも使えたんだとよ」
誰にでも。
その言い方に、僕は火から目を上げた。昔は、誰にでも。ということは、今は違う。人はどこかで、この〈当たり前〉をまるごと落としてきたのかもしれない。誰も使えなくなり、だから、誰もそれを知らない。――そこまで考えて、僕は口をつぐんだ。決めつけるな。まだ確かめてなどいない。いつもの、自分への言い聞かせだ。それでも胸の奥では、答えの出ない問いがまた一つ、静かに列へ並んだ。落書き帳の、白いままの頁が、また少し先まで増えていく。
男はそれきり、何も言わなかった。誰から聞いた話なのかも、どれほど昔のことなのかも。この人の来し方は、いつもこうして、半分だけ火の向こうの闇に置かれている。
翌朝、街道が長い丘を越えた。
登りきった先の、下り坂の果てに、それはあった。
白い城壁が、朝靄の底へ長々と横たわっている。その上へ、いくつもの塔が灰色の空を突いて伸びていた。宿場町からはるか遠くに霞んで見えた白い塔は、これだったのだ。
領都。
覚悟していたよりずっと近くに、それはあった。もう後戻りのきかない近さで。
催しまでは、まだ半月ほどある。それまでにこの城下で仕事を拾い、腕を磨き、そのうえで研究院の目に留まらなければならない。目立つために、よりによって、あの家のある町へ、自分の足で舞い戻ってきた。皮肉にも、ほどがある。
僕はしばらく、その白い壁を見つめていた。あの壁の内のどこかに、父の城がある。兄が育った屋敷がある。無属性と告げられた、あの広間がある。レオンだった僕を、置き去りにしていった場所だ。
足が、動かなかった。身体強化を覚えたばかりの脚が、こんなときにかぎって、鉛を詰めたように重い。
「行かねえのか」先を歩く男が、振り返った。
「……行くよ」
行くしかない。母のことも、この首飾りに空いた四角い空白も、糸をたぐっていけば、あの壁の内から始まっている。逃げ出すために出ていった場所へ、僕はいま、誰よりも強くなりたい理由を抱えて帰っていく。
その理由は、名を上げることでも、あの家を見返すことでもない。ただ、母が何者だったのかを知りたい。この首飾りの空白が何を隠しているのか、この目で確かめたい。突きつめれば、それだけのことだ。落書き帳に最初の一行を書きつけた、幼いあの頃から、ずっと変わらない。
上着の内側で、銀の首飾りがひやりと胸を刺した。
男はもう振り返らず、先へ歩いていく。この人は、こういうとき、決して立ち止まって待ってはくれない。追いつくのは、いつだって僕のほうだ。
僕は鉛のような脚に、そっと力を乗せた。ほんの少し、体が軽くなる。その軽さだけを頼りに、僕は領都へ続く下り坂へ、一歩を踏み出した。
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