第54話「鉄輪」
その町は、これまで通ってきたどの町より大きかった。
石畳の目抜き通りを荷車が行き交い、鍛冶の音と飯屋の匂いと客引きの声が入り混じっている。領都まで、あと二日か三日。ここは、その手前の最後の宿場町らしかった。人も物も、領都へ向かうものが一度ここに溜まる。だから賑わうのだと、宿の親父が言っていた。
冒険者ギルドの支所も、村の張り紙とは格が違った。石造りの二階建てで、依頼票の壁は一面が札で埋まっている。赤い印のものも、何枚かあった。
男は、町に入ると同時に姿を消した。人の多い場所では連れのふりをしない。いつものことだ。どこかの安宿の、出口に近い部屋にでもいるのだろう。
支所の受付で、僕は岩喰いの爪を出した。
あの町の控えに書かれた討伐の記録は、こういう大きな支所には、先に届いているものらしい。受付の女は爪をひっくり返して眺め、帳面の何かと突き合わせて「へえ」と短く言った。
「これ、独りで?」
「ああ」
「岩喰いの主は、C級だよ。D級が独りで獲るもんじゃない」女は僕の顔と帳面を見比べた。「あんた、査定を受けな。ここの支所なら、通す権限がある」
昇級。ずっと欲しかった言葉のはずだった。ランクが上がれば、割のいい依頼に手が届く。領都の催しでも、格は看板になる。なのに、いざ言われると足の裏がむずむずした。目立つ、ということだ。それは望んだことでもあり、いちばん避けたいことでもあった。
「査定は、三日後だ。腕を見せる依頼に一枚、名を出しな。それで判じる」
受付が、壁の一枚を指した。赤い印の札だった。
その札の前に、先客がいた。四人組だった。
ひとりは見上げるほどの大男。背中に、僕の胴ほどもある大盾を担いでいる。ひとりは革鎧の剣士。三十がらみで目つきが鋭い。頭らしかった。ひとりは白っぽい外套の女で、腰に薬包と水の入った革袋を提げている。そしてもうひとり、若い男が退屈そうに壁に寄りかかっていた。
「また崖トロルかよ」若い男が、札を顎でしゃくった。「三度目だぜ。しつこいったら」
「三度目だから、片がつく」剣士が短く言った。「行くぞ」
女が、僕のほうをちらと見た。僕が同じ札を見上げているのに気づいたのだ。
「あんたも、これ?」
「……査定で、名を出せと言われた」
四人が、顔を見合わせた。剣士が、僕の腰の山刀と、それから僕の身体つきを値踏みするように見た。細身だが、肩と前腕には、剣を振る者の筋が乗っている。その目の色が、ほんの少しだけ変わった。だが口では、
「独りか」
「ああ」
「崖トロルは、独りで獲る相手じゃねえ」剣士は突き放すでも嗤うでもなく、ただ事実として言った。「再生する。斬っても潰しても、傷がその場で塞がる。数で押さえて、焼くか灼くかしねえと止まらねえ」
焼くか、灼くか。その言葉に、僕は少しだけ、耳をそばだてた。
結局、僕はその四人と、同じ札で組むことになった。
組んだ、というより、受付が「ちょうどいい、査定官も兼ねて連中に見てもらいな」と勝手に話をまとめてしまったのだ。四人組の名は「鉄輪」。この界隈では、そこそこ名の通ったC級のパーティだという。
剣士がダーグ。大盾の大男がグラン。白い外套の女がシェナ。壁に寄りかかっていた若い男が、クレイ。道々、シェナが名前だけ教えてくれた。あとの三人は、僕にほとんど関心を示さなかった。査定のお荷物を一人、抱えさせられた。そういう顔だった。
崖トロルは、町はずれの涸れ川の、崩れた岩の下に巣くっていた。
牛より大きい。灰色の、岩肌のような皮膚。腕が長く、指の先に木の根のような爪がある。濁った眼が僕らを順に見て、のっそりと立ち上がった。
鉄輪の動きは、水が流れるようだった。
言葉は、ほとんどなかった。グランが前へ出て、大盾でトロルの一撃を受け止める。地面が鳴るほどの打撃を、膝で沈んで受け流す。その隙にダーグが横へ回り込んで、腱を断つように斬りつける。トロルがそちらへ気を取られると、今度はグランがまた盾で殴って注意を引き戻す。二人で獣の首を、綱で引くように右へ左へ振り回している。
後ろでは、シェナが、傷を負ったグランの肩へ、そっと手をかざしていた。低い詠唱とともに、その手のひらから淡い光がこぼれる。触れも、塗りもしない。ただ光を当てるだけで、グランの切り傷が、みるみる塞がっていった。
回復。あれが、そうか。
僕は戦いの端で山刀を抜いたまま、つい見入ってしまった。傷が閉じていく、その光を。よく効いていた。裂けた肉が、瞬く間に元へ戻る。現代の回復は、大したものだと思った。
だが、それを見ながら、僕はぼんやり考えていた。あの光は、いま開いたばかりの傷にしか、届いていない気がする。塞がりかけの浅手は治せても、こじれた古傷や、失くした指先までは、たぶん戻せない。もし——もっと奥まで、もっと少ない力で治せる術があるとしたら。あるとしたら、それはこの光とは、別のものだ。根拠は、なかった。ただ、そんな気がしただけだ。
むろん、じっくり見ている暇はなかった。
トロルが、吼えた。
ダーグが断った腱が、もう塞がりかけている。斬っても、斬っても、間に合わない。剣士の言ったとおりだった。
「クレイ!」ダーグが叫んだ。
壁に寄りかかっていた、あの退屈そうな若い男が、前へ出た。
両手を胸の前で合わせる。指のあいだに、青白い光がぱちぱちと弾けた。空気がぴりっと鳴って、髪の毛が逆立つような感じがした。
雷だった。
僕は雷を使う人間を、初めて見た。クレイの手のなかで、光の筋が蛇のようにのたうって太くなっていく。詠唱は短い。ほとんど掛け声のようなものだった。次の瞬間、青白い光がまっすぐトロルの胸へ突き刺さった。
獣が痙攣した。焦げた匂いが風に乗って流れてくる。
だが、それきりだった。トロルは、煙を上げながら、まだ立っていた。
「一発じゃ、止まんねえよ」クレイが、荒い息で言った。顔が、紙のように白い。あれだけの雷を、一息で叩き込んだのだ。魔力を、根こそぎ持っていかれたのだろう。「もう、続けて撃てねえ。当分、空だ。……焦がしただけか」
雷でも、一撃では倒れない。それに、あれほどの魔力を食う。一発撃てば、しばらくは打ち止めだ。上には上、その上にも、まだ壁がある。僕は妙なところで、少しだけ、ほっとした。誰にとっても、魔法はただではないのだ。
だが、頭の隅で、別のことも考えていた。あの雷を、もし絞りの要領で束ねられたら。あんなに撒き散らさず、一点へ、もっと少ない魔力で。……そこまで考えて、やめた。今は、そんな暇はない。
トロルの、焦げた胸。
そこだけ、再生が遅れていた。雷に灼かれた肉は、すぐには塞がらないらしい。
——焼くか、灼くか。
剣士の言葉が、頭のなかで繋がった。
「そこ、押さえていられるか」僕は、思わず口を出していた。「あと、少しだけ」
ダーグが、ちらとこちらを見た。よそ者に指図されて、気を悪くしたかもしれない。だが、剣士は何も言わず、グランへ顎で合図した。大盾が、トロルの横腹へ体当たりして、獣の体を、涸れ川の岩へ押しつける。動きが、一瞬止まった。
僕は前へ踏み込んだ。細い火は、近づかなければ届かない。押さえられたトロルの、自由なほうの腕が、横薙ぎに落ちてくる。来る、とわかっていた。ボルツに、嫌というほど体へ刻み込まれた、あの半歩。踏み込みの足を紙一重ずらして、爪の風を肩先で流す。掠りもしなかった。逸らした勢いのまま、獣の懐へ滑り込む。
グランが、盾の陰で、おや、という目をした。よそ者の坊主が、C級の獣の一撃を、こともなげにいなしたのだ。
僕は、口の中で詠唱を転がした。それから、掌に流れを集める。細く。針の先まで。
力むな。乗せろ。
渦が、立った。逃げなかった。今日は、来てくれた。
青白い火が、ひと筋。トロルの、焦げた胸の、その傷口の奥へ、まっすぐ吸い込まれていく。肉の、灼ける音がした。獣が、これまでとは違う声で、絶叫した。傷が、塞がらない。灼かれた奥から、白い煙が上がって、トロルは、ゆっくりと、後ろへ倒れていった。
しばらく、誰も口をきかなかった。
トロルの巨体が、二度、痙攣して、動かなくなる。涸れ川に、焦げた匂いだけが、重く残った。
「……今の、火」クレイが、まだ青い顔のまま、僕を見ていた。「妙に、細かったな。俺の雷より、よっぽど、的が小さい」
「二属性、なんだと」ダーグが、受付で聞いたのだろう、そう言った。「火と、風」
「珍しいね」シェナが言った。含みは、なかった。ただの世間話の顔だった。「宮廷が、放っておかないよ」
僕は、曖昧に頷いた。細い火のことを、掘り下げられたくはなかった。だが四人は、それ以上、詮索してこなかった。C級の連中には、変わった才の一人や二人、いちいち珍しくもないのかもしれない。あるいは、疲れていて、どうでもよかったのかもしれない。
査定は、通った。
鉄輪のダーグが、支所で一言、「使える。頭も回る」と言ったらしい。岩喰いの記録と、鉄輪の証言。その二つが揃えば、支所としても通さない理由はないらしい。僕のランクは、DからCへ上がった。爪を出したときの受付の女が、帳面に太く書きつけて、「C級だ。これで、赤印の大半が、独りでも受けられる」と言った。
嬉しいはずだった。領都の催しへ、また一歩近づいた。なのに胸の底は、妙に静かだった。あの火を細いと言われたことが、まだ耳に残っていた。
宿へ戻る途中、路地の暗がりで男とすれ違った。人前では他人のふりのくせに、こういうときだけ、ふっと現れる。
「派手にやったな」
見ていたのか。僕が言葉に詰まると、男は前を向いたまま低く続けた。
「あの雷の坊主、お前の火をじっと見てたぞ。ああいう目のいいのがいる場所で、細い火は出すな。……まあ、済んだことだがな」
それだけ言って、男はまた人混みのほうへ紛れていった。見せる火と、見せない火。分けろと言われたばかりだった。今日の火は、どっちだったのか。自分でも、うまく答えが出せなかった。
その晩、鉄輪が、飯屋で一杯おごると言ってくれた。
断る理由も、受ける理由も、うまく思いつかなかった。結局、隅の席に、少しだけ座った。四人は、よく笑い、よく食い、次にどこの迷宮へ行くかで言い合っていた。グランは無口だが、シェナにだけは軽口を叩いた。クレイは、まだ魔力が戻りきらないのか、だるそうに椀を傾けながら、それでもトロルの愚痴を言い続けていた。
役割が、あるのだ。この四人には。誰かの盾になり、誰かの傷を塞ぎ、誰かの届かないところへ雷を届ける。噛み合った歯車のように、四人でひとつだった。
僕は、その輪の、外側にいた。今日はたまたま、欠けた歯の隙間に、はまっただけだ。明日には、また独りで歩く。それが、僕の選んだやり方だった。誰も死なせないための。
悪くない眺めだと思った。それだけ思って、僕は、酒には口をつけずに、先に宿へ戻った。
部屋で、落書き帳を開いた。
雷。青白い光が、蛇のようにのたうって、まっすぐ突き刺さる。あの、指のあいだで弾ける前の、ぱちりとした空気の張り。あれは、何を、どう集めていたのか。回復の、水が光って傷を縫う、あの手つきは。
いつか、盗む。今日見たものを、忘れないうちに、書けるだけ書いておく。誰にも見せない頁に、下手な絵と、下手な言葉で。
書きながら、僕は、少しだけ可笑しくなった。C級になった夜に、やっていることが、これだ。輪の外で、独り、他人の魔法の絵を描いている。
窓の外で、町の灯りが、まだ賑やかに揺れていた。この賑わいの、二日か三日先に、領都がある。
領都、と胸の内で呟くたびに、僕はいつも、その先を考えないようにしてきた。
あそこは、僕が生まれた土地だ。父の城があり、兄が育ち、僕が"いないもの"にされた家がある。レオンだったころの僕を、置き去りにした場所。催しのために、僕はそこへ、自分から戻ろうとしている。よりによって。
鉄格子の向こうへ行くには、あの城下の門を、一度くぐるしかない。母のことも、この首飾りの空白も、たどっていけば、たぶん、あそこから始まっている。わかっている。逃げるために森を出たのに、結局、いちばん逃げたい場所へ、自分の足で帰っていく。
上着の内で、母の首飾りが、ひやりと胸に触れた。
灯りを消して、目を閉じた。町の喧騒が、壁越しに、まだ続いていた。眠りは、なかなか来なかった。
評価・ブックマーク・リアクションありがとうございます。
数字として反応をいただけると、本当に励みになります。
続きも楽しんでいただけるよう更新していきます。




