第53話「手本」
岩喰いの町を出て、二日が過ぎた。
街道は少しずつ登りになって、両脇の林が瘦せてきた。領都は高いところにあるらしい。すれ違う荷馬車の数は、むしろ増えた。人の集まる場所が近い証だ。男は、翌朝には何食わぬ顔で街道に立っていた。どこで夜を明かしたのかは、やっぱり訊かなかった。並んで歩く。それだけのことに、もう慣れてしまった。
歩きながら、僕はずっと同じことを考えていた。
絞りの火が、なぜ出る日と出ない日があるのか。
岩喰いのときは、三回に一回は通った。だがその晩、宿の暗がりで試したときは、一度も出なかった。翌朝も出ない。昼も出ない。同じ手のはずなのに、知らない誰かの手を借りているようだった。まぐれと呼ぶには、通るときは確かに通る。狙って出せるかと言われれば、出せない。その、あいだのどこかに、僕はいる。
領都の催しまで、あとひと月もない。そこで研究院の誰かに拾ってもらう。目立って、名を見せる。そのために実績を積みながら歩いている。だが肝心の絞りが、この調子では見せ物にもならなかった。まぐれで通った火を、催しの場で狙って出せるわけがない。
落書き帳を開いて、出た回と出なかった回を、思い出せるだけ書き並べてみた。
書いているうちに、ひとつ、妙なことに気づいた。
通ったのは、たいてい、切羽詰まったときだった。爪が来て、跳んで、着地して、考える暇もなく掌を突き出した、あの手。逆に、出なかったのは、じっくり構えて、さあ出せ、と体じゅうに力を込めたときだ。
力を込めたときに、出ない。
妙な話だった。ふつうは逆だろう。強く念じるほど、うまくいきそうなものだ。
その晩の野営で、確かめてみた。
焚き火から少し離れて、掌に流れを集める。細く、細く。針の先まで。——今までは、ここで奥歯を噛んで、肩から腕まで力を張っていた。逃げるな、と念じながら、渦を無理やり押さえ込もうとして。
今度は、逆をやった。集めるだけ集めて、力を張らない。肩も、腕も、ふっと抜く。掌の上のものを、こぼさないように、そっと乗せておくだけ。押さえ込むのでなく、置く。
渦が、ふっと立った。
慌てて詠唱を被せると、青白い火が、ひと筋。焚き火の枝を一本、焦がして落とした。
もう一度。今度は最初から、力を抜いて構える。立った。
三度目。立った。四度目は、逃げた。
それでも、さっきまでの三回に一回よりは、ずっとましだった。力を張らないほうが、出る。力めば、逃げる。
——なんだ、そんなことか。
拍子抜けした。同時に、少し腹も立った。
力めば力むほど遠ざかるなんて、教わってもいないのに、体だけが先に知っていた。頭が、いちばん最後に追いついてくる。いつもそうだ。
落書き帳に、その一行を書いた。『力むな。乗せろ』。ボルツが剣で言っていたことと、たぶん同じだ。あの人も、力むと刃が死ぬ、と言っていた。逸らすときは、抜け、と。魔法も剣も、こういうところは似ているのかもしれない。似ているというより——僕がまだ、同じ手つきでしか物を扱えないだけなのかもしれないが。
男は、焚き火の向こうで見ていた。何も言わない。だが、僕が枝を焦がすたびに、鼻から短く息を吐いた。笑ったのだと、途中で気づいた。
「気づくのが遅えな」
「……教えてくれてもよかっただろ」
「言葉で言われて、できるようになるもんか」男は火の中の枝を、棒でつついた。「手が覚えねえと、意味がねえ。手が覚えたことしか、いざってときには出てこねえ」
それは、そうかもしれなかった。岩喰いのとき、僕の手は、頭より先に力を抜いていた。あの一発だけは、体が勝手にやった。
*
その夜明け前、目が覚めると、男がいなかった。
毛布は畳まれ、荷もない。ふらりと消えるのは、いつものことだ。厠か、水汲みか。僕は水袋を持って、川のほうへ下りていった。
林の切れ間に、細い流れがある。その河原に、男がいた。
声をかけようとして、足が止まった。
男は僕に背を向けて、川べりに立っていた。片手をゆっくりと上げる。すると水面が、糸のように立ち上がった。細い水の筋が指に絡んで、宙で輪を描く。詠唱は、ない。口も動いていない。男はそれを、あくびでもするような気だるさで、もてあそんでいた。
水の輪が、ほどけて川へ落ちる。今度は、風だった。足元の砂が、ふっと巻き上がって、掌の上で小さな渦になる。それをまた、ほどく。地面に手をつくと、乾いた土が、みるみる湿って、こねられる粘土に変わった。
火だけでは、なかった。
この人は水も風も土も、同じ手つきで、息をするように使っていた。力みも気負いも、どこにもない。僕が焚き火の前であんなに苦労して立てていた、あの絞りの渦。それを男は片手間に、いくつも川べりに咲かせては消していた。
背筋が、ざわりとした。
これが、先だ。僕が歩いていく道の、ずっと先の景色だ。上には、まだこんなにも上がある。恐ろしくもあり、それ以上に——欲しかった。あそこまで、行きたい。
同時に、頭の隅で、別の声がした。
観ればいい。
男は、中身を教えてくれない。正体も、力の名も、「知らねえほうが長生きする」と言って、ぜんぶ伏せる。だが、教わる必要なんて、初めからなかったのかもしれない。僕は、ずっとそうやって生きてきた。兄の火を観た。付与師の刃の刻印を観た。風使いの魔法を、丸ごとなぞった。観て、盗んで、自分の手で組み直す。それが、僕の唯一のやり方だった。
目の前に、これ以上ない手本がいる。歩いて、飯を食って、隣で寝ている手本が。
男の手が、止まった。
肩越しに、ゆっくりと、こちらを振り向く。
僕は、とっさに木の陰へ身を引いた。心臓が、痛いくらいに鳴っている。見られたか。しばらく、息を殺した。河原からは、もう何の音もしない。
やがて、そっと覗くと、男はまた川のほうを向いて、水袋を沈めていた。何も起きなかった、という顔で。
見られていたのか、いなかったのか。わからない。この人のことだ。とっくに気づいていて、素知らぬふりをしているだけ、という気もした。僕は水を汲むのをやめて、先に野営地へ戻った。汲みに来た、とは、言えなかった。
その日から、僕は火のあいまに、風もこっそり練りはじめた。
風は、前に一度、風使いの流れをなぞって覚えたことがある。だがあれきり、火ばかり触っていた。久しぶりに集めてほどくと、案の定、方向が定まらない。掌から離れた途端、四方へ散る。男のように、輪にして手元へ留めておくなど、とても無理だった。読めるのと、使えるのは、やっぱり別だ。
それでも、川べりで見た、あの水の糸が、目に焼きついて離れなかった。誰もいない木立の奥で、湿った地面に手をついてみる。土の中の、じっとりした冷たさ。あれを、集められはしないか。指先に神経を集めて、しばらくそうしていると、掌が、ほんの少しだけ、湿った気がした。気のせいかもしれない。何も起きない。だが、何も起きないなかに、たしかに、手がかりの尻尾のようなものが、ちらついた。
欲張るな、と男に言われたばかりだった。歩けもしないのに走るな、と。わかっている。わかっているのに、手が、勝手に土を探っていた。
*
翌日、街道沿いの村で、一枚の札を受けた。
畑を掘り返す獣が出る、という。岩喰いのような大物ではない。穴熊のような、数がしつこいだけの害獣だ。村の男たちが罠を仕掛けても、翌朝には土を盛り返されている。ギルドの札ですらない、村の寄合が貼った、ただの張り紙だった。報酬は、鶏が二羽と、一晩の宿。
僕には、都合がよかった。人前で、二属性の顔を使う稽古になる。
畑で、僕は火と風を、両方使ってみせた。
まず口の中で詠唱を転がす。それから、後付けで手を動かす。村人が見ているのは口だ。手元じゃない。人は、声のするほうを見る。手は二の次だ。男に、そう仕込まれていた。
風で、畝のあいだの土埃を巻き上げて、獣の目をくらませる。這い出してきたところへ、火を面で被せて追い立てる。狭い針の火では当たらない。広く舐める火のほうが、こういうときは向いていた。村の男たちが歓声を上げた。二属性の若いのが、火だけでなく風まで、と。
風は、相変わらず暴れた。土埃が、狙いより広く舞って、手前の男に砂を浴びせてしまった。だが村人は、それすら「豪気な風だ」と笑ってくれた。しくじりが、しくじりに見えない。二属性の顔は、こういうとき、こちらの粗を隠してくれる。楽なものだと思う。楽すぎて、少し、後ろめたくもあった。
一度だけ、絞った針の火で、逃げる一匹を貫いてやろうとした。畝の向こうで、獣が土に潜りかけていた。あそこを、と念じた瞬間、体に力が入った。渦は、立ちかけて、消えた。火は、出なかった。獣は、するりと穴へ逃げた。人前で欲を出すと、体はまだ、元の力み方に戻ってしまう。野営で何度うまくいっても、いざとなると根づいていない。結局その一匹は、鍬を持った村の男が、穴の口で叩いて仕留めた。ただの力仕事だ。少し、決まりが悪かった。
村の年寄りが、鶏を締めながら、ぽつりと言った。
「二つ持ちってのは、ありがてえなあ。うちの孫は、ひとつも出せねえで、畑を継いだよ」
悪気は、なかった。ただの世間話だ。
僕は、火を灯した手を、そっと後ろに回した。ひとつも出せない孫。無属性、という言葉を、この村では使わないのかもしれない。ここでは、僕は"二つ持ちの、ありがたい子"だった。ほんの少し前まで、火を出すだけで固まられていたのが、遠い昔のことのようだ。
嬉しくは、なかった。かといって、居心地が悪いわけでもない。ただ、自分の顔の上に、もう一枚、別の顔が貼りついている。その厚みだけを、妙にはっきりと感じた。
*
村を出る朝、男が珍しく、先に口を開いた。
「領都じゃ、今のやり方は通らねえぞ」
「……どういう意味だ」
「田舎の村と違う。人の目が肥えてる。魔導師くずれも、宮廷帰りも、うろついてる。手元を見るやつが、必ずいる」男は、街道の先の、霞んだ山並みを見ていた。「二枚までだ。忘れるな。火と風。三つ目を出したくなる場面が、きっと来る。そこで我慢できるかどうかだ」
三つ目。心臓が、小さく跳ねた。あの水のことを、言われた気がした。だが男の目は、山のほうを向いたままだ。
「催しで目立て、と言われてる」つい、そう返した。「隠れながら目立つなんて、無茶な話だ」
「無茶だな」男はあっさり認めた。「だが、目立たなきゃ拾われねえ。拾われなきゃ、お前の欲しいものには近づけねえんだろう」
欲しいもの。首飾りのことも、母のことも、この人には話していない。それでも見透かしたような言い方をする。僕は黙っていた。「見せる火と、見せない火を、分けるんだ」男は続けた。「全部さらけ出すやつは、じきに全部持っていかれる。見に来る側は、そういう作法を心得てる」
見に来る側、という言い方が、耳に残った。研究院の人間のことか、それとも別の何かか。訊いても、答えは返らないだろう。
男が遠くの山際をうかがうのは、この道中で、もう何度も見ていた。何を見張っているのかは、訊かない。訊いても、はぐらかされるだけだ。
「あんたは」僕は、つい訊いてしまった。「昔、誰かに、そういうことを言われたのか」
男の足が、一瞬だけ、止まった。
「……さあな」
それきりだった。だが、その"さあな"には、いつもより少しだけ、間があった。この人にも、絞りを教えてくれた誰かがいたのかもしれない。今はもう、いない誰かが。そんな気が、なんとなくした。訊けば、たぶん、その先はない。だから、訊かなかった。
領都は、まだ遠い。だが、道が登りきったところで、遠くの山の上に、白い塔のようなものが、ひとつ見えた気がした。目を凝らすと、霞に紛れて、もうわからない。
男は、それには何も言わず、先に歩き出していた。
僕は落書き帳の背を、上着の上から一度だけ押さえて、そのあとを追った。掌に残る、あの湿った冷たさと、川べりで見た水の糸。火の、その先。歩きながら、ずっとそのことを考えていた。
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