第50話「まぎれ方」
領都までは、まだ遠かった。
街道を数日、宿場で割のいい依頼を拾いながら進む。路銀と、控えの手柄を少しずつ重ねていく。ひと月あれば着く。着いて催しで目に留まれば、門の前まであと一歩だ。頭のなかでその道筋を何度も引き直しながら、僕は歩いていた。
三日目の夕。街道を外れた雑木林で野営の支度をしていた。枯れ枝を集めて焚き火の跡へ戻ると、そこに先客がいた。
旅慣れた外套。背に負った荷。手には何も持っていない。
谷の男だった。
「よう」男は僕が積んでおいた枯れ枝を一本折って、火の跡へくべた。慣れた手つきで火花を起こす。「派手にやってるらしいな。峠で、狼の群れを、火と風で。……御者に見られたって?」
なぜ、それを知っている。この人とは、谷で別れたきりのはずだ。
「言ったろ。人前で使うなって」男は炎を見たまま言った。「一度助けたやつが、次に会ったときには街道じゅうの噂になってる。俺の忠告を、鼻をかんだ紙のように丸めて捨てたわけだ」
「使わなきゃ、あの馬車は喰われてた」
「だろうな」
「それに、僕は目立たなきゃならない」隠す気はもうなかった。この人には、たぶん隠せない。「領都で、学園の下見の催しがある。そこで目に留まれば、王都へ行く道がひらく。……行きたい場所があるんだ。目立たなきゃ、その道は開かない」
男はしばらく黙って火を見ていた。細い煙が地味な顔の前を、まっすぐ昇っていく。
「……救えねえな」やがて男は、ため息とも笑いともつかない息を吐いた。「目立ちたがりの原初式使いなんてのは、いちばん早く消える。蝋燭を提げて油の蔵へ入っていくようなものだ」
「じゃあ、どうしろって」
「お前のそれは」男は僕の手のひらを顎で示した。「世間の物差しじゃ測れねえ。測れねえものを、人はこわがる。こわがったものは、囲うか消すか、どっちかだ。峠でお前が見せたのは、そういう類のものだよ」
囲うか、消すか。あの子が目を逸らして言ったことと、同じだった。
「隠して生きるか、掴まれる覚悟で昇るか。僕は、昇るほうを選んだ」
「威勢がいいな。だが選び方が下手くそだ」男は鼻を鳴らした。「隠すか目立つか、二つに一つだと思ってるだろう。……その二つのあいだに、道がある。目立ちながら、正体だけは隠す道が」
男が口にしたのは、複属性、という言葉だった。
ごく稀に、生まれつき二つの属性を持つ魔法使いがいる。数は少ない。少ないから珍しがられる。宮廷から人が見に来ることさえある。けれど――殺されはしない。世間の知っている箱のなかに、ちゃんと居場所があるからだ。
「無属性のくせに火が出る、はありえねえ話だ。ありえねえ話は、人を落ち着かなくさせる。落ち着かねえと、人は手を出す。……だが"珍しい二属性の若いの"なら、ただの珍品だ。研究畑の連中は目の色を変えて欲しがる。だが、命までは狙わねえ」
僕は自分の掌を見た。ここから出るのは、二つの属性なんかじゃない。もっと底の、名前もわからない流れだ。それを、世間が安心して眺められる箱に詰め替えろと、この人は言っている。嘘の札を貼れと。
「箱に入れ」男は繰り返した。「ほんとうのお前が何なのか。それはいちばん奥にしまって、鍵をかけとけ。表に出すのは、無害な珍品の顔だけだ」
男が右手をゆるく持ち上げた。
低い声で、二言、三言。聞き取れない、意味のありそうな言葉を並べる。そのてのひらの上に、ぽっ、と小さな炎が灯った。
僕は息を止めて、それを見た。
わからなかった。あの日、谷で僕を救った、空気に一本の道を引くような、あの底光りする流れが――どこにも見えない。どこにでもいる魔法使いが、詠唱して、火を灯した。それだけにしか見えなかった。
「同じ手が出してる」男は炎をふっと消した。「谷で見せたのと、いま見せたのは、中身は同じものだ。だが、見えるものがまるきり違うだろう。……これが、化けるってことだ」
中身は同じで、見えるものが違う。谷の男は、ほんとうの顔と旅人の顔を、火の出し方ひとつでも、こんなふうに貼り分けている。僕の火は、誰の目にも底を見せてしまう、剥き出しのものだった。いまさら、それに気づいた。
男が教えたのは、魔法ではなかった。
化け方だった。
「まず、口を動かせ。意味なんかなくていい。人は、詠唱のない魔法をいちばん薄気味悪がるからな」
僕が火を出すとき、いつも何も唱えない。掌のなかで流れを集めて、そこに火を思い描くだけだ。それを、わざわざ口の動きで飾れという。
やってみた。ぎこちなかった。適当な言葉を並べようとすると、そちらに気を取られて、肝心の流れが指のあいだで揺らぐ。火がいつもより小さくしぼんだ。
「下手くそだな」男に容赦はなかった。「本物の魔法使いは、詠唱で術を組み上げる。お前は術をこしらえてから、詠唱を後から被せてるんだ。順が逆だから、ちぐはぐになる。……体が勝手に口を動かすまで、何度もやれ」
もう一度。今度は言葉のほうを先に流して、火をその尻にくっつけるようにした。少しだけましになった。火が、詠唱の終わりに合わせてふっと立つ。
「まだ、目が正直すぎる」男が言った。「火を出す前に、お前は必ず掌の一点を睨む。あそこに流れを集めてるのが、見る者にはわかっちまう。……睨むな。よそを見ろ。手元なんかどうでもいいって顔でやれ」
化け方は、詠唱だけではなかった。
火と風、二つまで。三つ目を見せた瞬間に、"二属性"の箱は壊れる。だから、どれだけ追い詰められても、人前で三つ目を出すな。使う前には少し勿体ぶれ。ためらえ。本物の魔法使いは、魔力を惜しむものだ。素性を訊かれたら、遠い、確かめようのない土地の流派の名を出せ。師の名は、もう死んだ誰か。訊き返す相手のいない名を。
どれも、魔法とは関係のない、生き延びるための細工だった。独りで火や風の出し方をなぞってきたのとは、まるきり別の技術だ。この人はそれを、息をするように使いこなしている。二属性しか見せるな、という枷は、正直こたえた。せっかく増やしてきた手札を、人前では半分も切れないということだ。
「けどな」男は付け足した。「切れる札が二枚きりでも、切り方さえ選べば、たいていの相手には足りる。足りねえと感じるのは、腕でなく、頭のほうが足りてねえときだ。……峠で、狭い道を選んだんだってな。あれは、悪くなかった」
けなす以外の言葉を、この人から聞いたのは、初めてだった。どこかで、似た響きの声を聞いた気がした。頭は使えるみてえだな、と、あの荒れた手が、昔、僕の肩を叩いた。僕はなんと返していいかわからず、火に、また意味のない言葉を並べた。
言われるまま、僕は火に向かって、意味のない言葉を並べつづけた。
レオンという名を、僕は捨てた。捨ててレイになった。そのレイの上へ、いままた、"珍しい二属性の若いの"というもう一枚の顔を貼りつけようとしている。ほんとうの僕は、いちばん下へまた一段、埋まっていく。掘り出すために昇るはずが、昇るために、僕は自分をまた埋めている。
「あんたも」気づいたら、訊いていた。「あんたも、ずっと、こうやって?」
男の手が止まった。
「……ずっとだ」短い答えだった。それきり、何も言わない。焚き火の向こうの地味な顔は、何ひとつ表に出さない。出さないことに慣れきった顔だった。この人はきっと、何十年も、"どこにでもいる旅人"の顔の下で生きてきた。ほんとうの顔を最後に誰かへ見せたのが、いつだったのか。もう、覚えてもいないのかもしれない。
その横顔を見ていたら、追いつきたいと思っていたはずの背中が、急にひどく寂しいものに見えた。追いついた先に待っているのが、この孤独なのだとしたら。僕は、いったい何のために昇るのだろう。
「一つ、訊いていいか」僕は言った。「あんたのその力も、僕のと同じものなのか。……それは、いったい何なんだ」
男は火に枝をくべた。
「言ったろ。知らねえほうが、長生きする」
「化け方は、教えてくれたじゃないか」
「化け方は、生きるための術だ。中身は、死ぬための鍵だよ」男は初めて、まっすぐ僕を見た。「順番を間違えるな。まず生き延びろ。中身を知るのは、それからだ。……その中身が置いてある場所まで、お前が生きて辿り着けたなら、な」
その場所。鉄格子の、そのまた向こう。この人は、それがどこにあるかも知っているのかもしれなかった。だが、訊いても答えはしない。知らせないことが、この人なりの、僕を生かすやり方なのだ。もどかしさが、喉の奥で小さく焦げた。
夜が更けて、男は腰を上げた。
「明日も、この道を行くのか」
「領都まで」
「なら、しばらくは道連れだ」男は外套の襟を立てた。「気に入ったわけじゃねえ。お前が独りで下手を打って、妙な連中の目を引くと、俺まで焙り出される。それが迷惑なだけだ」
そう言って、男は林の暗がりへ、自分の寝床をこしらえに消えていった。迷惑だと言いながら、去らずに、すぐそこにいる。谷のときと同じだった。放っておけばいいものを、つい、と言って、この人はいつも留まる。
僕は焚き火に向き直って、もう一度、意味のない言葉を口のなかで転がした。火が掌の上で小さく揺れる。まだ、ぎこちない。それでも、さっきよりほんの少しだけ、口の動きと火の呼吸が合ってきた気がした。
この顔さえ被れれば、僕は火も風も、人前で堂々と出せる。堂々と出せれば、もっと上の依頼を受けられる。手柄が積めれば、催しで研究院の目に留まる。掘り出すために、また一枚、埋める。おかしな順番だと思う。それでも、いまの僕に引ける道筋は、これしかなかった。
ほんとうの僕は、また一枚下に埋まった。埋めたぶんだけ、僕はあの鉄格子に近づいていく。埋めた顔を、いつか、ぜんぶ掘り返せる日まで。それまでは――僕は、化けつづけるしかなかった。
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