第49話「発つ」
狼の一件から、街での僕の扱いが、また少し変わった。
市場を歩くと、魚屋の親父が「よう、狼殺し」と笑って寄越す。悪気はない。ないぶん、こたえた。屋台の隅で果実を選んでいた若い二人組が、僕に気づいて口をつぐんだ。それから顔を寄せて、何かをひそひそ言い合う。片方の目には憧れに似た熱があった。もう片方には値踏みがあった。あいつ、ほんとに無属性なのか。ほんとに独りで群れを。声にならない問いが、背中に貼りつく。
名は重くなっていた。グレイの言ったとおり、良くも、悪くも。
井戸で水を汲んでいると、ひとりの少年が寄ってきた。まだ十かそこらの、木の棒を腰に差した子供だ。冒険者に憧れる年ごろの、街の子だった。
「あの、狼を退治したって、ほんとですか」
僕がうなずくと、少年の顔がぱっと明るくなった。火はどうやって出すのか。剣はどこで習ったのか。矢継ぎ早に訊いてくる。悪気のない、まっすぐな憧れだった。そのまっすぐさが、なぜか、いちばんこたえた。
この子が思い描いている狼殺しは、たぶん別の誰かだ。返り血で滑る柄を握って、膝を笑わせながら、崖を背に泥まみれで踏みとどまった男とは、似ても似つかない。話はいつも、きれいなほうへ形を変えていく。
「棒は、腰で振れ」僕は少年の木刀の握りだけ、少し直してやった。「腕で振るな。……あとは、無理をするな。退けるうちに、退け」
それは、いろんな人が僕に言ってきたことだった。ボルツも、グレイも、あの火使いも。僕は一度も守れたためしがない。少年はわかったようなわからないような顔をして、それでも嬉しそうに駆けていった。その背中を見送りながら、自分がひどく、古い人間になった気がした。
名声には、裏もあった。
その日の午後、酒場の戸口で、古株の冒険者に肩をぶつけられた。わざとだ。酒の匂いをさせて、そいつは低く笑った。
「無属性が、いい気になってやがる。群れをやっただァ? どうせ、誰かに手伝ってもらったんだろ。それか、話を盛ったか」
僕は何も言い返さなかった。言えば、峠のことを、あの日の谷のことを、順に話すはめになる。谷のことだけは、口が裂けても言えない。黙っていると、相手はそれを図に乗ったと取ったらしい。もう一度、僕の肩を小突いて、舌打ちして去っていった。
群れは、独りでやった。だが、その前の谷では、独りではなかった。あの男の風のぶんだけ、僕はこの手柄を、まっすぐには誇れない。妬みの言葉のほうが、皮肉なことに、半分だけ当たっていた。憧れと、値踏みと、妬み。名前が重くなるとは、この重さをぜんぶ引き受けることらしかった。狙って手に入れたものだ。文句は、言えない。
ギルドの掲示板の前で、ミラに呼び止められた。
「あんた宛ての名指し、二つ来てる」ミラは紙を二枚、指にはさんで振ってみせた。「街道の護衛と、隣村の厄介ごとの相談。前は、誰もあんたの名前なんか書かなかったのにね」
名指しの依頼。ほんの何か月か前まで、僕は受付で最下位の無属性と侮られていた。依頼を一つ受けるだけで一悶着だった。それが、向こうから名前で呼ばれる。狙って積み上げてきたものが、こうして形になりはじめている。喜んでいいはずだった。なのに掲示板の紙を見ても、胸のあたりは妙に静かなままだった。名前が独り歩きするほど、ほんとうの僕からは遠ざかっていく。そんな気がした。
「割のいいのを、選んで受ける」
「ふうん」ミラは僕の顔をちょっと見た。「変わったね、ほんとに」それから思い出したように付け足した。「あと、あの子が探してたよ。火使いの、お嬢さん」
あの子は、宿の裏の井戸端にいた。
いつもの身軽な格好ではなかった。厚手の外套を羽織り、足元には革の旅行鞄がひとつ置いてある。遠くへ行く支度だ。僕を見つけると、あの火使いは片手を腰に当てて、尖った声を出した。
「遅い。何刻待たせるの」
「待てとは言われてない」
「言わなくても待つでしょ、ふつう」理屈になっていない。だが、こういうやりとりに、僕はいつのまにか慣れていた。慣れている自分に、少しだけ落ち着かなくなる。近づけば失う。そう決めて歩いてきたはずの足が、この井戸端では、なぜか止まるのを厭わない。
井戸の縁に腰かけようとして、僕は右脚をかばった。太ももの傷は、まだ引き攣れる。その動きを、あの子の目が目ざとく捉えた。
「……脚、どうしたの」
「かすり傷だ」
「かすり傷で、そんな座り方する?」声の尖りが一段低くなった。「狼の群れ、独りで受けたって聞いた。峠で。……ねえ、ばかじゃないの。死んで名前だけ残して、どうするのよ」
退き際を間違えるな、とグレイも言った。同じことだ。だが、あの子の言い方には、グレイの忠告のような乾きがなかった。もっと湿った、怒りに近い何かが混じっている。僕はそれを、どう受け取っていいのかわからなかった。だから、いつものように受け流すしかなかった。
「加減はしてる」
「してないでしょ。目を見ればわかる」
図星だった。だから、何も言えなかった。
あの子は、ふいと顔をそむけて、鞄の持ち手を爪先で直した。それから、井戸の水面へ話しかけるように、低く言った。
「あたし、発つの。王都へ。明日の朝」
水を汲む釣瓶が、かたん、と鳴った。
「学園の寮に入る前に、顔つなぎしておきたい家がいくつかあってね。家の都合。……あんたには、関係ない話」
関係ない、と言いながら、あの子は僕のほうを見なかった。しばらく、二人とも黙った。井戸のまわりだけ、街の喧騒が遠かった。
「前に言った約束、覚えてる? 学園の入り口を教えるって」
覚えていた。忘れられるはずもない。あの夜、冷めた粥の勘定を、この子は黙って払っていった。返せていない借りが、ずっと胸に引っかかっている。
「領都で、ひと月後に、催しがある」あの子は指を一本立てた。「学園の研究院が、何年かに一度、地方を回って下見をするの。腕でも、珍しい術でも、見たことのないものを持ってるやつを探しに来る。……無属性で、火と風。じゅうぶん、見たことのないものでしょ。目に留まれば、声がかかる。研究院の枠は、そこから繋がってる」
領都で、ひと月後。時と場所を、僕はいま手にした。
鉄格子の向こうの、そのまた奥。母の首飾りの、抜け落ちた四角い空白。あそこへ至る長い道の、いちばん最初の一歩の置き場所を、この子が教えてくれている。推薦状は書けないと、前に言っていた。書けないと断ったうえで、書けないなりに、道の入り口までは連れてこようとしている。
「なんで、そこまでする」訊いてから、また、変な問いだと思った。
「さあ」あの子は肩をすくめた。「あんたが火と風をどうやって出してるのか、まだ突き止めてないから。目を離すと、逃げられそうだから。……それに」
言いかけて、あの子は口をつぐんだ。それに、の続きは、とうとう出てこなかった。僕も、訊かなかった。訊けば、たぶん、その先の何かを、二人して認めることになる。それは、たがいに得のない話だった。
「借りは」僕は言った。「あの夜の勘定の借りは、どう返せばいい」
あの子は、はじめて、まっすぐ僕を見た。
「領都まで来て、催しで、ちゃんと目立ちなさい。死なずに。……それで、チャラにしてあげる」
目立て、とこの子は言う。使うな、とあの男は言った。人前で使えば囲われて消える者もいる、とも。相反する声のあいだで、僕はもう気づきはじめていた。どちらへ転んでも、同じ場所へ近づいていく。目立たなければ、門は開かない。目立てば、狙われる。渡らなければ、対岸には立てない。
「善処する」
「善処、って言うやつは、たいてい来ないのよ」あの子は鞄を持ち上げた。思ったより重そうに、肩が少し傾いだ。「まあ、いい。来なかったら、来なかったで。あたしは王都で、勝手にやってるから」
あの子は、井戸端から歩きだした。
夕方の光が、細い路地の先を赤く縁取っていた。その中へ、外套の背中がひとつ遠ざかっていく。振り返らない。振り返らないぶん、足の運びが、いつもより速い気がした。
行くな、と言いかけて、やめた。言う筋合いは、僕にはない。ここで呼び止めて、どうなるものでもない。
それでも、口が勝手に動きかけた。名前を。この子の名前を一度でも呼べば、たぶん、この足はもう独りには戻れなくなる。喉の奥まで、その二文字は来ていた。来ていて、そこで止まった。
僕が呼べたのは、名前ではなかった。
「……気をつけて」
あの子の足が、ほんの一瞬、止まった。振り向きはしなかった。片手だけが軽く挙がって、それから、また下りた。わかった、とも、うるさい、とも取れる、いつものそっけない挙げ方だった。
路地の赤い光の中へ、背中が消えた。
井戸端には、革の鞄が置かれていた窪みだけが、地面に薄く残っている。僕はしばらく、その空いた四角を見ていた。抜け落ちた首飾りの空白に、なぜだか、それは似ていた。
宿へ戻る道で、僕は掲示板の名指しの依頼を、もう一度考えた。
領都まで、歩いて幾日かかるだろう。ひと月あれば、着く。着くまでに割のいい依頼をいくつか片づけて、路銀と、控えの手柄を、もう少し重くしておける。明日、グレイに特例推薦のことを訊こう。この子がくれた時と場所を、グレイの言う横の戸に繋げるのは、僕の仕事だ。この子が先に発って、僕は後から、同じ場所を目指す。
独りだと思っていた道に、いつのまにか、二つも三つも、先を行く背中がついていた。あの谷の男の背中。この子の背中。追いつきたいのか、追いつかれたくないのか、僕にはまだ、うまく分けられない。
井戸端の窪みは、風がひと晩吹けば、じきに消えてしまうだろう。消える前に、僕は歩きださなければならなかった。
脚の傷が、また、じくりと熱を持った。痛むあいだは、まだ動ける。ボルツの受け売りだ。僕は右脚をかばいながら、灯りのともりはじめた街のほうへ、ゆっくりと歩きだした。
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