第48話「群れ」
肩の傷は、七日ほどでようやく血を滲ませなくなった。
糸を引くような痛みが、腕を上げるたびに走る。宿の窓の下で右腕をゆっくり回しながら、僕はまたあの日の風のことを考えていた。
谷でのことは、誰にも言っていない。言えば、あの男のことに触れる。触れれば、去り際に見せた警戒の目を裏切ることになる気がした。ギルドの控えには「仕留めた」とだけ書いた。判を押すとき、グレイは僕の顔を少し長く見たが何も訊かなかった。潰れた眼から頭の奥まで貫かれた獣の死骸は、街道番が見て回ったはずだ。あんな殺し方をD級の剣ができるわけもない。それでもグレイは判を押した。訊かないことで何かを預かってくれているのだと思う。
夜、人気のない河原で、僕は掌に流れを集めてはそれを一方向へ送ろうとした。
あの男がやったように。空気を束ねて、一本の道を引くように。
できなかった。集めるところまではいく。だが束ねようとした途端、渦は緩んで四方へ散った。井戸から汲んだ水を、指のあいだから零すのに近い。何度やっても、同じところで零れる。男の風は道を引いて、その道だけを残して消えた。僕の風は道になる前にほどけてしまう。
読めることと、使えることは違う。もう何度も、この壁の前で膝をついてきた。それでも、あの背中を見たあとでは、壁の高さが前より少しだけはっきり見えるようになっていた。届かないと目で測れるぶん、たちが悪い。
その壁を金と実績に換える手立てだけは、増えていた。
翌朝、グレイが一枚の票をよこした。今度は赤い印はない。だが隅に、「継続・複数」と走り書きがある。
「東の峠道だ。荷馬車が二度、狼にやられた。ただの狼じゃねえ。群れで、頭のいいのが一匹まざってる。数がいるから、腕のあるやつでも二の足を踏む口でな」
「僕でいいのか」
「一匹を仕留めるのと、十匹に囲まれるのは別の仕事だ」グレイは茶を啜った。「群れは初めてだろ。……行くなら、地形を選べ。囲まれる場所で、まともにやり合うな」
囲まれるな、とあの男とは違う口が似たことを言っていた。忠告の中身は違う。だが退き際を間違えるなという芯だけは、この街で僕に物を教える者はみんな同じことを言う。
東の峠道は、両側から岩肌が迫る細い切り通しだった。
馬車が一台やっと通れるほどの幅で、道は緩く曲がりながら登っていく。曲がりの先が見通せない。荷を狙うなら、ここだ。見通しの悪い曲がり角で前を塞ぎ、後ろから囲む。狼の側に立って考えれば、それが一番うまいやり方だった。
僕は逆に、その狭さを借りることにした。
道の一番細いところ、片側が切り立った岩で片側が浅い崖になっている隘路を選ぶ。ここなら、横にも後ろにも回り込まれない。来られるのは、正面だけ。十匹いても、僕の前に立てるのはせいぜい二匹。数の利を道が削ってくれる。
荷を運ぶ隊の親方には、馬車を岩陰につけて動くなと頼んだ。若い御者が一人、槍を握って残りたがったが断った。守る相手が増えれば、それだけ手が塞がる。灰の村で、僕はそれをいやというほど学んだ。
狼が来たのは、陽が傾きはじめた頃だった。
最初は、匂いより先に音で気づいた。爪が岩を掻く、乾いた音がいくつも重なる。数えるより早く、切り通しの曲がりの向こうから、灰茶の影が湧き出してきた。
やはり多い。ざっと見て、八、九。先頭の二匹が牙を鳴らして駆けてくるが、その後ろの群れは妙に散らばって、道の左右の岩の裾へ寄っていく。頭のいいのが、いる。まっすぐ来る二匹は囮で、本命は横から回り込む腹だ。
だが、この道では回り込めない。岩の裾は登れるほど緩くない。狼たちが数歩迷った、その一瞬が、僕の欲しかった間だった。
先頭の一匹が跳んだ。喉笛を狙う、低い跳躍。僕は半歩だけ引いて、牙の軌道を鼻先でやり過ごし、着地際の首の付け根へ山刀を落とした。手応えは重い。骨まで届かないが、腱を裂いた。狼が横倒しになって、道を半ば塞ぐ。
塞がったのが、こちらには好都合だった。倒れた仲間を後続がまたぎ越すのに手間取る。
二匹目が倒れた一匹の上を越えて牙を剥いた刹那、僕は左手で火を灯した。小さく、頼りない火だ。だが狼の鼻先で焚けば、じゅうぶんだった。火の粉が黒い鼻づらに散り、獣が首をよじって怯む。その怯みへ、山刀の切っ先を目の下の柔らかいところへ突き入れる。
うまくいっている。うますぎるくらいに。
それを、頭のいい一匹はちゃんと見ていた。
群れの奥、岩の陰から、ひときわ体の大きな灰色が、こちらをじっと見据えていた。前へは出てこない。仲間が二匹つぶされたのを、勘定するように眺めている。そして低く、短く吼えた。
合図だ。散っていた狼たちが、いっせいに向きを変えた。正面からではない。崖側の、浅いほうへ。緩いと踏んでいた斜面を、四、五匹が這い登り、僕の頭より高い岩棚へ回り込もうとしている。上から来る気だ。
道が削ってくれた数の利が、崩れる。
考える間はない。上を取られたら、囲まれたのと同じだ。僕は右手を岩棚へ向けて、あの粗い風を起こした。丸ごと真似ただけの、方向も定まらない、暴れるだけの風。だが今は、それでよかった。狙って一点を撃つのでなく、斜面ぜんたいへ砂と小石を巻き上げて浴びせる。
目だ。獣の目を、砂で潰す。
風にあおられた砂利が、登りかけた狼たちの顔を叩いた。足場の悪い斜面で目をやられれば、爪は利かない。二匹が体勢を崩して、崖下の道へ転げ落ちてくる。落ちてきたところを、僕は待っていた。立ち上がる前の、いちばん無防備な首へ、山刀を振り下ろす。
だが、風は高くつく。
二度、三度と風を送るうちに、掌の芯がまた冷えはじめた。あの、器の底が見えてくる感覚。指先がかじかんで、火を灯そうとしても、種火が掌の上でくすぶって消える。
残りは、四匹。頭のいい一匹と、その周りに三匹。
魔法は、もう当てにできない。剣と、体だけだ。
僕は山刀を握り直した。柄が、汗と返り血で滑る。空になった体は重く、膝がわずかに笑っている。それでも、退けない。ここで背を見せれば、馬車の親方も御者も、まとめて追われる。
残った狼が、間合いを詰めてきた。今度は囮も本命もない。純粋に、数で押しつぶす気だ。
一匹目の牙を、いなす。半歩。二匹目が同時に脇へ食らいついてくるのを、山刀の腹で殴りつけて逸らす。三匹目の爪が、太ももを浅く裂いた。熱い。だが、浅い。骨は無事だ、と、あの男の声がなぜか耳の奥で言った。浅い。まだ動ける。
押し込まれながら、僕は一歩ずつ、切り通しのいちばん細いところへ退がった。壁を背にする。背後を断てば、残る三方だけを見ればいい。狭さを、最後まで使い切る。
壁に背がついた。もう退げない。だが、退げないぶん、こちらの目も三つに絞れる。
来た三匹を、いなし、逸らし、山刀で払った。一匹の首を、ようやく断つ。もう一匹の前肢を、根元から裂く。三匹目が僕の腕に食らいつこうとした牙を、肘で鼻づらを打ち上げて外し、その喉へ切っ先を突き通した。
残ったのは、頭のいい一匹だけになった。
そいつは、岩の陰から、まだ出てこない。仲間が全部片づけられるのを、最後まで見ていた。それから、ゆっくりと向きを変えた。牙も剥かず、吼えもせず、来た道を静かに戻っていく。
勝てないと踏んだら、退く。いちばん賢い判断だった。追う脚は、僕にも残っていない。
僕は壁にもたれたまま、そいつの灰色の背が、曲がりの向こうへ消えるのを見送った。峠の風が、血の匂いを薄く運んでいく。自分の荒い息だけが、やけに大きく聞こえた。
勝った。今度は、独りで。誰の風も借りずに。
そう思ったとたん、あの男の、道を引くような風がまた頭をかすめた。あれがあれば、この群れも、砂を浴びせるより早く、もっと静かに片づいたのだろう。僕の勝ちは、泥にまみれて、汗くさくて、綱渡りだった。それでも――借り物ではなかった。
岩陰から、御者の若者が、青い顔で出てきた。
僕が火を灯したのも、風を起こしたのも見ていたのだろう。彼は倒れた狼と、返り血だらけの僕を代わる代わる見て、それから、おそるおそる口をひらいた。
「あんた……無属性だって、聞いたけど」
「気のせいだ」
喉が渇いて、うまく声が出なかった。若者は、それ以上は訊かなかった。訊かないというより、訊いてはいけないものを見た、という顔だった。その目の色に、僕は覚えがあった。査定の裏庭でも、酒場でも、幾度か向けられた目。感心と、ほんの少しのこわがるような色が、混ざっている。
人前で使うな、とあの男は言った。目立つぞ、と。
いま、また一人、見た。この若者は街へ帰って、峠で見たことを話すだろう。無属性のD級が、火と風で狼の群れを退けた、と。話は、また塩気を足して、勝手に歩いていく。
わかっていて、使った。使わなければ、この馬車は喰われていた。名を作るとは、たぶん、こういうことなのだ。守るために目立ち、目立ったぶんだけ、囲われる場所へ近づいていく。セラの、あの目を逸らした声が、遠くでちらついた。
街へ戻ると、グレイは討伐の証をあらためて、いつもより長く唸った。
「群れを、独りでか」
「狭いところを選んだ。一匹ずつしか来られないように」
「……そういうのを、頭を使うっていうんだ」グレイは控えの帳面に、何かを書き足した。ペン先が紙を強く擦る音がした。「お前の名は、これで、ちっとは重くなる。良くも、悪くもな」
良くも、悪くも。
その二つが、僕の中では、もう分けられなくなりかけていた。
太ももの傷が、歩くたびにじくじくと熱を持つ。宿へ帰る道すがら、僕は掌をひらいて、また握った。あの道を引く風は、今日も、指の先で一度ほどけて消えた。
いつか、と思う。いつか、あの背中に追いつく日には、こんなふうに泥まみれで綱を渡らなくても、守りたいものを守れるようになるのだろうか。
それとも、追いつくころには、守るものが、また一つも残っていないのだろうか。
答えの出ない問いを、僕はいつもの隅へ押しやって、傷ついた脚を引きずりながら、灯りのともりはじめた街の中へ戻っていった。
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