第47話「他人の風」
グレイに呼ばれたのは、朝いちばんだった。
帳場の奥の狭い部屋で、こないだと同じように、座れとは言われなかった。グレイは一枚の依頼票を卓に滑らせてよこす。隅に赤い印が捺してあった。危険度の高い口だ。
「北の谷で、家畜と人が続けて食われてる。狼のたぐいじゃねえ。もっとでかくて、賢い。本来ならC級に回す口だが、いま腕の立つのが出払っててな」
「僕はD級だ」
「わかってる。だから緊急で、下にも開ける。……断ってもいいんだぞ。無理にとは言わねえ」
断らなかった。危ない口ほど、控えに深く名が残る。名を作る。そのために、この何日も、誰もやりたがらない札ばかり選んできた。これは、その延長のいちばん先にある一枚だった。
グレイは僕の顔をしばらく見て、それから、いつもの調子で付け足した。
「退き際だけは間違えるな。死んで名を残しても、しょうがねえんだからな」
北の谷は、街道を半日ばかり外れた、痩せた土地だった。
斜面に張りついた小さな牧場は、柵が内側へ倒れていた。獣が外から押したのではない。中で暴れたものが、出るときに踏み倒したのだ。小屋の壁に、太い爪の痕が四本、僕の背丈より高いところに走っていた。地面の血は乾いて黒く、その上を蠅がのろのろと歩いている。
小屋の戸口に、片方だけの小さな革靴が転がっていた。子供のものだ。中を見ないようにして、またいで通った。見れば、足が止まる。足が止まれば、たぶん、帰りたくなる。ここまで来て帰るわけには、いかなかった。牧草を食む山羊も、洗濯物を取り込む女房も、もういない。生き物の気配のない静けさは、灰の村の朝に、少し似ていた。
足跡をたどった。前肢の指が四本、後肢が三本。爪は引っ込まない類だ。歩幅が広く、一歩のあいだに小走りの人が二歩は入る。ボルツに仕込まれた読み方で、それだけのことが読めた。読めたところで、勝てるかどうかは別の話だった。
谷の奥、崩れた岩のあいだに、それはいた。
熊に似ていた。だが熊よりずっと肩が高く、毛は硬い針のようで、鼻づらが長い。片方の眼が白く濁って潰れている。古い傷だ。潰れた眼のぶんだけ、残った眼が異様に据わっていた。人を二人、家畜を何頭も食って、まだ足りていない目だった。
風下から近づいたつもりが、鼻づらがこちらを向いた。匂いでなく、たぶん、空気の揺れで気づかれた。
考える間はなかった。向こうが先に地を蹴った。
その時、谷の入口の草が、獣の動きとは別に、かすかに揺れた。
気のせいだと思った。今は、目の前の爪だけで手いっぱいだった。
最初の一撃は、いなした。
半歩だけ横へずれて、前肢の薙ぎを受け流す。ボルツの半歩だ。爪が頬のすぐ横を通り、風が耳を殴った。返す刀で脇腹を薙いだが、硬い毛に阻まれて浅い。血の匂いに、獣の動きがかえって速くなった。
剣だけでは削り切れない。僕は左手に流れを集めた。掌のなかで渦がきつく締まる感じ――『集める』だ。刃に乗せて、二度目の突きを継ぎ目の浅いところへ叩き込む。今度は毛を割って、肉に届いた。獣が吼えた。谷が震えるような声だった。
だが、傷はまだ浅い。厄介なのは、この獣が痛がるより先に、僕の間合いを一度で覚えたことだった。次からは、僕が半歩ずれるほうへ、先回りして鼻づらを振ってくる。賢い、とグレイは言った。ほんとうだった。読む目を持つ相手は、こちらの手も読み返してくる。いなしが、一回ごとに際どくなっていった。
だが、それで魔力が半分近く飛んだ。なぞって覚えただけの粗い使い方は、いつも身の丈に合わない量を食う。わかっていても、ほかにやりようがなかった。
火を出した。小さな、頼りない炎を潰れていないほうの眼へ投げる。獣が首を振って厭がった一瞬に、風を――あの、丸ごと真似ただけの粗い風を起こして、火の粉を眼のふちへ送り込む。鼻の脇の毛が焦げ、獣がのけぞった。
そこまでだった。
器が、空になった。掌の芯がしびれて、次の流れが指のあいだから滑り落ちる。集めようとしても、掬うそばから零れていく。井戸の底が見えた、という感覚に近い。指先が氷のようにかじかんで、剣の柄がひどく遠く感じた。空になった体は、走ることも、まともに立つことも、もう億劫がっていた。
獣は、痛みで退くような賢さは持っていなかった。焦げた鼻づらのまま、まっすぐ突っ込んできた。
いなす。半歩。だが疲れた足がわずかに遅れ、肩を掠られた。皮が裂け、熱いものが腕を伝う。体勢が崩れる。崩れたところへ、二撃目の前肢が、上から来た。
もう一度いなす余力は、なかった。剣を盾のように立てたが、そんなものは薪より頼りない。爪の白さが、視野いっぱいに広がった。
ああ、これは死ぬな、と、妙に静かに思った。灰の村の柵の夜を、なぜか思い出した。
風が、来た。
僕の風ではなかった。
横ざまに吹きつけた強い風が、獣の巨体を半ば横へ流した。上から来るはずだった前肢が、僕の頭の脇の地面を叩いて、土が跳ねた。
僕は尻もちをついたまま、それを見ていた。ただの突風ではない。そう思った。
風が吹いた、というより、空気の中に一本、見えない道が引かれたみたいだった。獣の肩から腹へ、谷の壁へ抜けていく流れの跡が、ほんの一瞬だけ残っていた。
現代魔法の風なら、たぶん、こんなふうには見えない。風はただ、生まれて、荒れて、散る。少なくとも、僕がこれまで見てきた風はそうだった。けれど今の風は、散らなかった。集められ、束ねられ、狙った場所へ通されたあと、その道筋だけを残して消えた。
谷の入り口に、男が立っていた。
どこにでもいそうな男だった。旅慣れた外套に、荷を負って、手には何も持っていない。武器のたぐいは、何一つ。年のころは、ボルツより少し若いくらいか。顔立ちは地味で、すれ違っても翌日には忘れているような、そういう顔だった。
男は面倒くさそうに、片手を軽く振った。
それだけで、谷の空気が、男の掌の先へ従った。今度は下から巻き上げるように吹いて、体勢を崩した獣の腹の下へもぐり込み、四百斤はあろうかという巨体を、たたらを踏ませた。獣がよろけたところへ、男は歩きながら、もう一方の手を前へ差し出す。掌の先の空気が、ぎゅっと縮んだのが見えた。『集める』だ。だが、僕のみたいに散らばってはいない。針の先ほどに絞られている。
風が、その一点を後ろから押した。
絞られた空気の刃が、獣の潰れたほうの眼から入って、頭の奥で弾けた。
巨体が、糸の切れたように崩れた。
谷が、急に静かになった。自分の荒い息だけが、やけに大きく聞こえた。
男は倒れた獣をまたいで、僕のところまで来た。しゃがんで、僕の裂けた肩をのぞき込む。
「浅いな。骨は無事だ」
声も、地味だった。
「あんた」喉がひりついて、うまく声が出なかった。「いまの、あれ」
「風だよ」男はこともなげに言った。「見りゃわかるだろ」
「違う。ただの風じゃない。あれは、集めて、流して……あんた、それを、どうやって」
男の手が、止まった。
ほんの一瞬、地味な顔の奥で、何かがすっと冷えた。値踏みするような目だった。それから、その目は、僕の掌へ動いた。まだ焦げくさい、火と風を無理に絞り出したばかりの、僕の手のひらへ。
「……お前もか」
小さな声だった。問いではなく、確かめるような、ため息に近い声だった。
僕は答えられなかった。答えなくても、たぶん、もう遅かった。この人は、獣の前で僕が何をしたか、入り口からぜんぶ見ていたのだ。だから、来た。関わりたくもなさそうな顔で、それでも、来た。
男は、崩れた獣の頭のあたりを、爪先で軽く小突いた。息の根を確かめる、慣れた仕草だった。それから、牧場の小屋のほうへ、ちらと目をやる。あの、片方だけの革靴が転がっているあたりへ。何か言うのかと思ったが、男は口を結んだままだった。言っても仕方がない、という結び方だった。
男は立ち上がって、外套の裾についた土を払った。急に、興味をなくしたような顔になっていた。
「見なかったことにしろ。俺のことも、いまのも」
「なんで助けた」
訊いてから、自分でも変な問いだと思った。助けられておいて。
男は少しだけ、困ったような顔をした。それから、僕の頭ごしに、谷の外の稜線へ目をやった。誰かがそこにいないかを確かめるような、癖のついた目の動きだった。
「……放っときゃよかったんだがな。つい、な」独り言のようだった。「久しぶりに見たんでな。俺以外で、そういう不器用な火の出し方をするやつを」
不器用、という言葉が、妙に胸に残った。
「あんたも、無属性なのか」
訊いた途端、男の足が止まった。振り返りはしなかった。
「詮索はよせ」低い声だった。「知らずにいるのが、いちばん長生きするんだ。お前も、俺もな」
「一つだけ言っとく」男は背を向けながら言った。「その手を、あんまり人前で使うな。目立つぞ。……お前が思ってるより、ずっと、まずい形でな」
グレイと同じことを言う、と思った。オズとも、あの生意気な子とも。だが、この男の言い方は、ほかの誰とも違った。忠告というより、経験のある者の、乾いた事実のようだった。
「待ってくれ」
立ち上がろうとしたが、抜けた足に力が入らず、膝が笑った。その一瞬のあいだに、男はもう歩きだしていた。荷を負い直し、来たときと同じ、どこにでもいる旅人の背中で、谷の口の岩陰へ消えていく。
追えなかった。追う脚が、残っていなかった。
僕は、崩れた獣と、乾いた血と、自分の焦げた掌のあいだに、独り取り残された。
ずっと、独りだと思っていた。
あの底の流れに触れられるのは、あの遺跡の壁を読めるのは、この広い世界で、たぶん僕だけなのだと。だから隠して、だから昇るしかないのだと、そう決めて歩いてきた。
なのに、いま、あの男は、僕がどれだけ転がっても掴めなかった風を、片手間に、水を注ぐように流してみせた。同じ流れを。同じ、集めるを。僕よりずっと深いところで。
嬉しいのか、怖いのか、自分でもわからなかった。ただ、足の裏が、急に頼りなくなった。独りだと思っていた道の、ずっと先に、とっくに誰かの足跡がついていた。その足跡は、こちらを一度振り返って、それから、また前へ消えていった。
追いかければ、いつか追いつくのだろうか。それとも、あの背中は、追いつかれたくなくて、わざと前だけを向いていたのだろうか。答えの出ない問いが、また一つ、増えた。それでも――独りではなかった、という事実だけが、焦げた掌の奥で、小さく、消えずに残っていた。
肩の傷が、じくじくと熱を持ちはじめた。
僕は焦げた掌を握って、開いた。何度か、そうした。さっき見た絞られた空気の形を、指がまだ覚えている気がして、けれど握るたびに、それはもとの、擦り傷だらけの手に戻った。
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