第46話「借り」
その日の札は、街外れの涸れ谷に巣を張った中規模のゴブリン駆除だった。強さはたかが知れている。ただ、岩の隙間に潜っては石を投げ、踏み込めばまた別の穴へ逃げる。手間のわりに実入りが薄くて、掲示板の隅で半月も黄ばんでいた。ランクはD、誰もが面倒がって手を出さない口だ。僕はそれを剥がして受けた。
狭い岩場を這いずり回って、一匹ずつ穴から追い出しては、剣で片づけた。火も風も使わなかった。使えば早いのはわかっている。ただ、あの噂をこれ以上ふくらませたくなかった。膝と肘に擦り傷を増やして、討伐の証だけを提げて帰った。
ギルドの帳場で、ミラが証をあらためて、控えに判を押す。とん、と乾いた音がした。それが、このごろの僕の一日の締めくくりだった。
「あんた、変わったね」
判を押す手を止めずに、ミラが言う。
「前は手堅い口ばっかり選んでたのに。近ごろは、誰も受けたがらない厄介な札ばっかり剥がしてく。……なんだか急いてるふうで、見てて危なっかしいよ」
急いでいる、というのは当たっていた。理由までは言えないので、僕は「気が変わった」とだけ返した。ミラはそれ以上訊かなかった。この街の人は、こちらが黙っているものを無理にこじ開けようとはしない。そういうところが、少しありがたかった。
名を作る。グレイに言われたとおりだ。酒場でふくらむ噂ではなく、消えない記録のほうに名を刻む。討伐の判が一つ増えるたび、王都の学園へ続く階段の、最初の一段が、ほんの少しずつ形になっていく気がした。気がするだけかもしれない。それでも、ほかに道を知らなかった。
その日も、日が暮れてから、いつもの飯屋の隅に腰を下ろした。
安い麦の粥を頼んで、壁を背にしてすする。獣の血の匂いが、洗っても袖の縫い目に残っていた。木の匙は縁が欠けていて、口に当たるたび小さく引っかかる。店の奥では、酔った男たちが賽の目を振って騒いでいた。その喧噪の膜の内側で、僕は一人だった。一人でいるのは、もう長い。
向かいの椅子が、いきなり引かれた。木の脚が床石を擦る音。
「うわ、ひどい匂い」
顔を上げるまでもなかった。セラだ。断りもなく腰を下ろすと、僕の椀を上から覗き込んで、露骨に鼻の頭へ皺を寄せる。仕立てのいい上着が、煤けた壁と欠けた食器の店に、笑ってしまうくらい似合っていなかった。
「そんなの食べてるの。あんた、稼いでるんじゃなかったの」
「気のせいだ」
「粥が? そこにあるじゃない」
通りかかった店主に、セラは麦湯を頼んだ。店主は上着をちらと値踏みして、この娘に銅貨の持ち合わせがあるのかという顔をしてから、奥へ引っ込む。セラは慣れたもので、その視線を歯牙にもかけなかった。
突っかかってくる。僕がいなす。相手がむきになる。ここ数日、気の張る仕事ばかりだったから、その馬鹿らしいやりとりが、妙に肩の力を抜いた。認めるのは癪だけれど。
「わたしね、もうすぐ王都へ行くの」
麦湯の椀を両手で包んで、セラは頼まれてもいないのに切り出した。声に、隠しきれない得意がにじんでいる。
「王立学園。もう話はついてるのよ。家がうるさく言い出す前に、こっちで好きに暴れておこうと思っただけ。……だから、あんたの正体を暴くのも、そうのんびりはしていられないってわけ」
匙が止まった。
止めるつもりなんてなかった。粥をすくいかけた手が、勝手に宙で固まっていた。王立学園。その四文字が、内側から鳩尾を小突いた。
セラの目が、すっと細くなる。この子はこういうところだけ、猟犬みたいに鼻が利く。
「……いまの、なに。あんた、学園って聞いて、顔が動いた」
「気のせいだ」
「二回目。その手はもう、今日は効かないんだから」
しまった、と思ったが遅い。セラは麦湯を脇へ押しやって、卓に身を乗り出してきた。獲物を見つけた猫の顔だった。
「あんた、学園に用があるんでしょ」
「ない」
「嘘。いまの顔、思いきりある顔だった」
しばらく、セラは僕の顔を眺めていた。それから、わざとらしく背もたれに寄りかかって、腕を組む。
「教えてあげてもいいのよ。学園がどういう場所で、どうやって入るのか。こういうこと、あんたなんかよりわたしのほうがずっと詳しいんだから」
そのとおりだった。喉から手が出るほど、欲しい話だった。
「そのかわり」声が一段、得意げになる。「あんたの火と、風。あれがいったい何なのか、話しなさいよ。……取引」
取引、という言葉に、いくつもの顔が頭をよぎった。名前は記録に刻め、と言ったグレイ。写したものを誰にでも見せるな、と声を落としたオズ。読める、使える、とわかった途端に、まわりの目の色が変わる。僕の欲しいものは、いつも、いちばん隠しておきたいものと同じ場所にしまってあった。
話せるわけがない。火をどう出したのか。風をどうなぞったのか。その糸を一本引けば、遺跡の壁が、母の首飾りが、あの底で光った赤いものが、芋づるみたいに全部くっついてくる。思ったことがそのまま顔に出るこの子に、糸の端を握らせるなんて、できるはずもなかった。
「話すことなんて、ない」
「あるでしょ。無属性のくせに、火と風なのよ」
「見て、覚えただけだ」
セラがきょとんとした。それから、むっとした。
「はぐらかさないでよ。見て覚えたって、なに。属性はね、生まれつき決まってるものなの。火の子は火。水の子は水。見て覚えて増やせるなら、誰も苦労しないっての。……そりゃ、たまには二つ持って生まれる子もいるけど、そんなの、うんと稀。生まれた家じゅうが大騒ぎして、宮廷からわざわざ人が見に来るくらいの――」
そこで、セラは自分の言葉に足を取られたように黙った。
二つ持って生まれる子。その物差しが、僕の「無属性なのに火と風」に、すっと重なりかけて、届かなかった。当たり前だ。無属性は、二つどころかゼロなのだから。生まれつきの才を数える目盛りの、いちばん端の、そのもう一つ外側に、僕は立っている。セラの常識は、僕の手前で行き場をなくして、宙に浮いたままだった。
「……もういい」
ふてくされたように、セラは麦湯をあおった。
「どうせ、素直に話す気なんてないんでしょ。あんた、いっつもそう」
取引は流れた。僕がほっと息を抜きかけた、そのときだ。セラは椀を、かつ、と音を立てて置いた。
「でも、教えてあげる。学園のこと」
「……取引は」
「なし。気が変わったの」ぷい、と横を向く。「べつに、あんたのためじゃないわよ。あんたが学園に来れば、いやでも毎日、目の届くところにいるでしょ。火と風の正体は、時間をかけて、わたしが自分で暴く。それだけ。……あんたが勝手に王都まで来るぶんには、わたしの知ったことじゃないもの」
筋が通っているような、通っていないような理屈だった。要するにこの子は、脅して口を割らせるようなやり方が、性に合わないのだ。
育ちがいいんだな、とあらためて思った。まっすぐで、駆け引きが下手で、たぶん、欲しいものを我慢した経験があまりない。そんな子が王都の学園を目の前にして、どうしてこんな辺境の安飯屋で麦湯をおかわりしているのか。訊かなかった。人の事情を詮索すれば、そのぶん、こちらの事情も詮索される。
それから、セラは学園のことを話した。麦湯を二度もおかわりして、僕が口を挟む隙もないくらい、よく喋った。
王都のまんなかに、白い石を積んだ学舎が建っている。属性ごとに分かれた講堂。だだっ広い実技の演習場。正規の入学には、家柄と、金と、推薦がいる。そこまではミラやグレイに聞いた話と同じだった。だが、セラの話には続きがあった。
「推薦状なら、わたしには書けないわよ」先回りするように、セラは言う。「まだ入ってもいない小娘の口利きなんて、誰も本気にしない。……でも、きっかけなら、教えてあげられる」
きっかけ。
「学園はね、年に何度か、外へ人を出すの。地方で腕の立つ冒険者とか、変わった術を使う者とかを、じかに見て回るのよ。選抜の下見みたいなもの。腕自慢の集まる催しとか、地方の道場とかに、身分を隠して紛れ込んでね。その場で術を使わせて、見どころのある子には、講師のほうから声をかける。属性の派手さや家柄なんかより、"伸びしろ"を見るんだって。とくに研究畑の人たちは、勝ち負けなんてどうでもよくて、"見たことのないもの"を前にすると、目の色が変わるの。……無属性のくせに火も風も出す、なんて、じゅうぶん"見たことのないもの"でしょ。目に留まりさえすれば、そこから声がかかることも、ある」
得意げな調子が戻ってきていた。「その催しが、いつ、どこであるのか。わたしは知ってる。あんたは知らない」
それから、ふと麦湯の椀に目を落として、少しだけ声を低くした。
「……ただね。目立つのが、いいことばっかりじゃないのも、ほんとよ」
「?」
「変わった才を持った子がさ。学園の話が来るより先に、どこかの家とか、宮廷とかに、こう……"囲われて"、それっきり表から消えちゃった、なんて噂。ないわけじゃないの。おもちゃにされて、使いつぶされて。……まあ、あんたには関係のない話でしょうけど」
関係のない話でしょうけど、と言いながら、セラは僕の顔を見なかった。麦湯の水面の、細かく揺れているあたりを、じっと見ていた。
目に留まれば、声がかかる。目に留まるというのは、隠れない、ということだ。そして隠れないというのは、どうやら、物好きに絡まれるという程度の話では済まないらしかった。
囲われて、表から消える。おもちゃにされて、使いつぶされる。セラの言葉に、別の声が二つ重なった。力を測りたがるやつ、担ぎたがるやつ、目障りだから消したがるやつに気をつけろ――グレイの、あの低い声。読めるとわかった途端に話が変わる、ろくなことにはならん気がする――オズの、皺の寄った声。
欲しい戸の前に立つには、"珍しいもの"にならなくてはいけない。だが"珍しいもの"は、いい手にも悪い手にも、同じくらい掴まれやすい。目立つことは、扉を開ける鍵であると同時に、たぶん、誰かに首根っこを掴ませる合図でもあるのだ。隠れて生きるか、掴まれる覚悟で昇っていくか。その二択の重さが、今日はやけに、鳩尾のあたりへ冷たく居座った。
それでも、道が一本、細く見えた気がした。危ない橋だ。だが渡らなければ、向こう岸には一生立てない。あるのかどうかもわからなかった道の輪郭が、よりによってこの生意気な子の口から、思いがけずくっきりと差し出されていた。
「なんで」訊かずにいられなかった。「なんで、そこまで教える」
セラは一瞬、言葉に詰まった。それから、早口になった。
「言ったでしょ、自分で暴くためだって。……それに」椀の縁を指でなぞる。「あんた、放っておいたら、そのうち一人で、どっか遠くで野垂れ死にしそうな顔してるんだもの。寝覚めが悪いじゃない、そういうの。べ、べつに、心配とかじゃなくてよ」
最後のほうは、ほとんど聞き取れないくらい小さかった。
やがてセラは立ち上がって、卓に銅貨を数枚置いた。僕の粥の分まで、だ。止める間もなかった。
たいした額じゃない。安い麦の粥の、銅貨何枚か。それでも、借りは借りだった。
僕は、人に借りを作らないように生きてきた。借りは、いつか返さなくてはならない。返すには、その相手ともう一度、関わらなくてはならない。関われば、失う。関われば、死なせる。灰の村で、そう決めたはずだった。決めて、ずっと守ってきたはずだった。
なのに、いま、僕の手のなかには、この子が置いていった道の切れ端が、たしかにあった。一人ではどうしても拾えなかった切れ端だ。母の首飾りの空白へ、母の一族へ、あの底で光った赤いものの正体へ――そのいちばん遠い戸へ続く道の、最初の分かれ目に、よりによって、いちばん関わりたくなかった相手が立っていた。
「……おい」
呼び止めようとして、続く言葉が出てこなかった。名前だ。呼ぼうとして、初めて気づいた。僕はこの子の名を、一度も口にしたことがなかった。
セラは振り返らなかった。ひらひらと手の甲だけをこちらへ振って、暖簾を割って、夜のなかへ出ていった。その背中に、僕は結局、何も言えなかった。ありがとう、も。この借りは返す、も。
残された麦の粥は、すっかり冷めていた。冷めた粥は、塩気ばかりが、やけに舌に残った。
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