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【第二章完結・第三章開幕】無属性の落ちこぼれ追放令息は、失われた魔法《原初式》を読み解く ~世界の魔法は、最初から間違っていた~  作者: 刈谷るあ
冒険者編

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第44話「写し」

 明るいうちの蔵は、夜とは匂いが違った。


 閉じた鎧戸の隙間から昼の光が細く入って、床に埃の帯を作っている。夜に来たときは、この埃も暗がりに溶けて見えなかった。人の少ない刻に、と言われた通り、閲覧の卓には誰もいない。奥で羽根ペンを走らせる音もしない。革表紙の黴の匂いだけが、いつもより濃く立っていた。


 なぜ来たのか、道々うまく言葉にならなかった。見せたいものがある、と言われたから――それだけではない気もした。あの晩、包みを下へ戻したときの手つきが、指の先に残って離れない。値の張るものを扱う手つき。あれが何を包んでいたのか確かめないと、次の依頼の貼り紙も上滑りして頭に入らない。関わらないと決めた相手のところへ、足のほうが先に来ている。理屈は、あとから探した。


 記録官は帳場の奥から顔を出して、僕を見た。それから戸口の外へ目をやった。誰もいない。もう一度、窓の隙間の明るさを確かめてから閂を下ろす。昼間に戸を閉める理由は、暑さ避けでも眠気覚ましでもないらしかった。

 「来たか」

 来た、と言われても――その返しは、もう置いておいた。


 帳場の下から、この前の布包みが出てきた。今日は途中でやめなかった。結び目を、指がもう順番を覚えているみたいにほどいていく。中身は一枚の紙だった。紙、というより薄く漉いた皮に近い。端が焦げて、片隅が欠けている。古い。落書き帳の奥にしまってある母の首飾りの写しよりも、もっと古い手触りだと触れる前からわかった。指を近づけると、縁から薄い破片が一枚、ひとりでに剥がれて落ちた。オズが小さく息を止めたのが、横目でわかった。


 その一面に、字が詰まっていた。


 息が、一度、浅くなった。


 知っている形だった。集める、の芯にある小さな結び。ほどく、の、外へ払う一画。遺跡の壁で、首飾りで、ドランの刃で、何度も見てきた形。それが、この一枚に途切れず並んでいる。落書き帳に写し集めてきた切れ端とは、量が違った。切れ端をいくら並べても文にはならなかったのに、これははじめから文の形をしている。ばらばらの単語ではなく、続いている。どこかからどこかへ、向きを持って流れている。


 真ん中に、大きな螺旋が一つあった。飾りだと、前なら思った。今日は違って見えた。目を近づけると、その渦は細い字を隙間なくきつく巻き込んで出来ていた。小さな結びと払いを、糸を撚るように寄り集めて、一つの塊に押し込んである。ほどけば、たぶん何十字ぶんもの長さになる。一つの形に畳んであるから、短く見えるだけだ。集める、を刃に乗せるとき、自分の手のなかで渦が締まっていく、あの感じと同じだった。


 指が、勝手に字を追っていた。声に出すつもりはなかったのに、追っているうちに口のなかで音になった。

 「……集める。ここは、集める、だ」

 オズの手が止まった。

 「留める……この巻き方は、留める、だと思う。その、次は――」

 次が、読めなかった。見たことのない結び方が二つ三つと続いて、途中でまた知っている形に戻る。読める字と読めない字が、代わる代わる出てくる。読めるところだけ拾っても、あいだが抜けて繋がらない。穴の空いた文を、無理に声にするのはやめた。わかる、と、わからない、が、一行のなかで何度も入れ替わる。それが、いちばんこたえた。もう少しで届くのに、届かない。


 オズは、しばらく何も言わなかった。老眼鏡の奥で、目が僕の指先を追っている。それから乾いた咳をひとつして、椅子を引いて座った。座る場所を探すみたいに、一度立って、また座り直した。

 「……三十年だ」

 声が、いつもの皮肉屋の調子から少しずれていた。

 「三十年、この字には意味があると言い続けて、莫迦にされてきた。無属性の落書きに一生を捧げる耄碌爺だと。誰も、一文字も、読めやしなかった。わし自身、読めた気になっていただけで、実のところは、形を眺めていただけだ」

 そこで言葉を切って、僕の指のほうへ顎を小さくしゃくった。

 「お前は、今、読んだな。集める、と。留める、と。……その二つが対だということも、たぶんわかっている」

 答えなかった。答えなくても、この人の前ではたいして変わらない。以前そう思ったのと同じことを、もう一度思った。


 「これがどこから来たか、話しておく」オズは、包みの布の皺を指で無意味に伸ばした。「若いころ、わしは学会のいちばん下っ端にいた。書庫の整理係だ。読めない古い綴りを、片端から仕分けする。使えるものは残し、使えないものは燃やすか、上へ送るか」

 燃やす、のところで、布を押す指に力が入った。

 「読めないものは、たいてい"使えない"に入る。わけのわからん模様のついた紙なんぞ、棚の場所を食うだけの厄介だからな。ところが、ある年、上から触れが回った。その厄介を一枚残らず集めて寄越せ、と。燃やすな、と。急に、だ」

 「集めて、どこへ」

 「王都の、王城の奥さ」オズは鼻を鳴らした。「王家が召し上げた。読めもしない紙を、わざわざ鍵のかかる蔵へ運んでいった。……おかしな話だろう。ごみなら燃やせばいい。燃やさずに、人の目から遠ざけて後生大事に仕舞い込む。ごみを、だぞ」

 笑おうとして、笑いは続かなかった。埃を吸ったのか、また咳をした。

 「王城の奥に、古いものばかりを集めた蔵がある。王立封印庫、と呼ぶ者もいる。王家の禁書庫、と言う者も。表向きは、危ないものを封じておく蔵だ。あぶない魔道具だの、昔の災いの記録だの。だが本当のところは――読めるべきでないものを、読める者から遠ざけておくための蔵さ。わしは、そう思っている」


 この一枚を、なぜ持っているのか。訊く前に、オズが先に言った。

 「これは、上へ送りそこねた一枚だ。仕分けの箱から、一枚だけ袖に入れた。……盗んだ、と言えば盗んだ。三十年、それを一度も後悔しなかったのは、わしの人生でこれくらいのものだ」

 布の上に置かれた一枚を、オズはまた少し撫でた。撫でる、というより、まだそこにあるかを確かめる手つきだった。


 「前に、お前が探していただろう」オズは言った。「北の海の向こうの、境を守る民。世界の裂け目に蓋をして回ったという、あの一族の話だ。あれのまともな記録は、ここにはもうない。紀行文の、噂話の切れ端があるだけだ。本物は」

 顎で、内地のほうを指した。

 「あの蔵にある。あるはずだ。守る民の言葉も、印も、あの一族が何を閉じて回ったのかも。……読める者が一人でも、あの戸の内側に立てればな」


 母の首飾りの、真ん中の空白。集めて、□、閉じる。ずっと埋まらないひと文字。それを埋める答えが、もしどこかにあるなら、この一枚の紙にでもなく、この蔵の棚にでもなく、鍵のかかった王城の奥にある。鉄格子の禁書棚が終点だと思っていた。終点の、そのまた向こうに、もう一枚、戸があった。

 「入れるのは」訊いてしまってから、答えの見当はもうついていた。

 「王族。宮廷の魔導師。あとは、せいぜい王立学園の上の研究生くらいのものだ」オズは、僕の身なりを上から下まで、一度だけ見た。侮ったのではない。値踏みして、黙った。無名のD級が、という言葉を、口に出さずに済ませてくれた。


 「写していいか」

 そう言うと、オズは少し驚いた顔をした。それから、初めて見る、ばつの悪い笑い方をした。

 「……好きにしろ。ただし、写したものを誰にでも見せるな」急に声が低くなった。グレイの、消したがるやつ、という言い方と、どこか似ていた。「読めない模様のうちは、誰も気に留めん。読める、とわかった途端に、話が変わる。三十年前、わしは"読める"と言い張っただけで追われた。実際には読めていなかったのにな。……本当に読める者が、これから先どう扱われるか、わしは知らん。知らんが、良いようにはならん気がする」


 落書き帳を開いて、写しはじめた。読める字は、意味の見当がつくぶん線が迷わない。読めない字は、形をそっくりなぞるしかない。なぞる、というやり方には、このところすっかり慣れてしまった。手本を見て、そのままなぞって、盗む。自分のやっていることの名前が、こういう古い紙の上にも載っている気がした。

 字が細かくて、写しているうちに指の付け根がこわばってきた。何度か手を止めて、握り直す。オズは僕の手もとを覗き込みかけて、途中でやめた。見て確かめたいのと、見てはいけない気がするのとで、迷っているらしかった。

 手を動かしていると、上から声が降ってきた。

 「オズ、という」

 「え」

 「わしの名だ。番人だの、記録官だのと呼ばれるのにも飽きた。……お前がその字を写しているあいだくらいは、名で呼ばれても罰は当たるまい」

 言い訳がましい理屈だった。うまく返せなくて、僕は「……レイだ」とだけ答えた。ほんとうの名でないことは、言わずにおいた。オズも、そこは訊かなかった。


 写し終える頃には、鎧戸の隙間の光が床の別の板まで移っていた。思っていたより、長くいたらしい。落書き帳を閉じると、なかで、写したばかりの頁が母の首飾りの写しの隣に来た。頁を繰らなくても、その二つが背中合わせに並んでいるのはわかっていた。

 オズが閂を上げて、戸を細く開けた。外の明るさが、埃の帯を一瞬で白く飛ばした。

 「明るいうちに帰れ」

 同じ言葉を、来るときにも聞いた。帰りに言われると、少し違って聞こえた。


 通りに出ると、昼の人いきれがまだ残っていた。どこかの卓で、僕の名についた話が回っているのかもしれない。火だの風だの。あれを大きくして、目立って、格を上げて、鍵のかかった戸の前まで行く。そこまで行って、ようやく、戸が開くかどうかの話になる。行かなければ、開くも閉じるもない。

 隠れていたい、という声は、胸の同じ場所にまだいた。けさより、少し隅のほうへ寄っていた気もする。気のせいかもしれない。襟の内で、首飾りは今日もただの冷たい金属だった。空白のところを、指で押してみる。ほかより、少しへこんで感じた。そんなはずはないのに、指のほうが、そう言っていた。

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