第43話「口の端」
三日も経つと、街の風向きが変わっていた。
朝いちばんに掲示板を見るのは、いつもの癖だ。割のいい依頼は早い者に取られる。壁の前で貼り紙の端をめくり、報酬と場所を見比べていると、後ろで話し声が途切れた。振り返るほどのことでもない。だが途切れ方が普段と違った。僕のいるあたりだけ、声がすっと引いて、少し置いて、また戻る。今度は低くなっている。
依頼を一つ選んで受付へ持っていくと、ミラが帳面から顔を上げずに手招きした。
「あんた、しばらく大人しくしてたら」
「何かあったのか」
「何かも何も」ミラは判を押す手を止めずに、声だけ低くした。「あんたの話。もう酒場の隅から隅まで回ってるわよ。無属性のD級が、火も風も出すって」
心当たりはあった。街道の隊商だ。牙を売りにきた護衛が、いい値をつけさせようと討伐の一部始終を喋ったのだろう。話は口を渡るたびに膨らむ。討伐証は風使いに譲ったから、猪を仕留めたのはあの男ということになっている。だが「妙な小僧が火と風を使った」の部分だけは、誰の手柄でもないぶん、面白がられて独り歩きしやすい。
「牙を持ち込んだのは、風使いのほうだけどね」ミラは帳面をめくった。「そっちの手柄は取り上げられてる。あんたは、火と風の話だけ持っていかれた。損な役よ」
損も得も、どうでもよかった。困るのは、話が僕に貼りついたことだ。
受け取った依頼票を懐にしまいながら、酒場のほうへ目をやった。まだ朝で客はまばらだ。それでも、革鎧の男が二人、こちらを見ていた。目が合うと、片方が仲間に何か言って、二人して笑った。悪意のある笑い方ではない。珍しいものを見つけた、という顔だ。見世物と、たいして変わらない。
外へ出ると、路地の日向で干し物をしていた女房が、僕を見て手を止めた。前は素通りだった。今日は、井戸のほうまで目で追ってくる。無属性と鑑定された日のことを、久しぶりに思い出した。あのときは、誰の目にも留まらないのが罰だった。今度は逆に、留まるほうが厄介ときた。無属性も、火と風の噂も、こちらの都合とは関わりなく貼りついてくる。
井戸で水を汲んでいると、声をかけられた。
「あんたが、例の」
振り向くと、三十がらみの男が立っていた。革の胸当てに剣、身なりはそこそこ整っている。どこかの隊のまとめ役だろう。
「火と風の兄さんだろ。噂はよく聞くよ」
「人違いだ」
「またまた」男は愛想よく笑った。「隠すことないって。うちの隊、いま数が足りなくてね。あんたみたいなのが一人いると、依頼の格が上がる。名前が要るんだよ、名前が。悪い話じゃないぜ。取り分もはずむ」
名前が要る、と男は言った。僕を、ではなく。僕の名前についた話を、看板に使いたいだけだ。断ると、男は「もったいねえなあ」と首を振って、それきり未練もなく去っていった。惜しんでいるのは僕ではなく、上がりそこねた依頼の格のほうだ。それがわかるぶん、腹も立たなかった。
その日は二人にそういう誘いを受け、一人にすれ違いざま「いんちきだろ」と吐き捨てられた。誘う者も嗤う者も、見ているのは同じ噂だ。中身は誰も見ていない。火をどうやって出したのか、なぜ無属性で風が吹くのか、そこを訊く者は一人もいなかった。効くから使う、というドランの言葉を思い出した。皆、話が効くから使う。仕組みには用がない。
昼を過ぎて腹が減り、酒場の隅で安い麦粥をとった。壁を背にして、顔を伏せて食う。それでも話は耳に入ってくる。少し離れた卓で、僕を肴にした噂が回っていた。
「素手だってよ。詠唱もなしで、猪を風で吹っ飛ばしたんだと」
「まさか。炎も三つ四つ、いっぺんに出したって聞いたぞ」
「無属性のくせに? どこぞの貴族の隠し子が、素性を隠してるって話もある」
匙を口へ運びながら、聞いていた。あの日、僕は生まれたての風ひとつでよろけ、一度なぞっただけで空になって膝をついた。炎など出していない。隠し子でもない。粥は塩気が足りなかった。話のほうは、塩気を足しすぎている。訂正して回るわけにもいかない。訂正すれば、僕が中身のある何かだと認めることになる。
粥を半分ほど残したところで、奥の帳場から声が飛んだ。
「レイ。ちょっと来い」
ギルドマスターのグレイだった。奥の狭い部屋へ顎で促される。卓には苦情の控えらしい紙が数枚重なっていた。いんちきを取り締まれ、査定をやり直せ――そういう類のものだろう。グレイはそれを片づけもせず、椅子の背にもたれた。座れとは言われなかった。
「噂は耳に入ってるな」
「嫌でも」
「消えやしねえぞ、ああいうのは」グレイは太い指で卓を一度叩いた。「一度歩き出した名前は、こっちの都合じゃ止まらねえ。黙ってりゃ勝手に育つ。育ちきってから振り回されるくらいなら、育て方をこっちで決めちまうほうがいい」
言っていることは、けさから自分で転がしていた考えと、そう遠くなかった。
「あんたが上を目指すなら、の話だがな」グレイは声を落とした。「噂なんざ当てにならん。明日にゃ別の誰かに移ってる。……去年もいたよ。ひと夏だけ持て囃されて、消えたのが。名前ばっかり先に膨らんで、中身が追いつかねえと、ああなる」そこで一度、話が逸れて止まった。指先で卓の木目をなぞってから、戻ってきた。「残るのは、記録のほうだ。討伐の控えは消えねえ。名を通すってのは、酒場の口じゃなく、そっちに名前を刻むことだ」
「上、というと」
「そのうち話す」グレイは手を振った。それ以上は言わない口ぶりだった。「今は、面倒を呼ぶ連中に気をつけろ。力を測りたがるやつ、担ぎたがるやつ、目障りだから消したがるやつ。噂が太るほど、寄ってくる」
消したがるやつ、のところで、声が少し低くなった。冗談ではないらしかった。部屋を出るとき、グレイは苦情の紙の束を屑籠へ払い落とした。片手間の仕草だった。あの紙の何枚が僕のことだったのか、訊く気にはならなかった。
帳場を離れると、酒場の視線がまた集まった。数が増えた気もしたが、気のせいかもしれない。消したがるやつ、という言葉が、背中の真ん中に貼りついて剥がれない。誰かがこちらを見るたび、その一人ひとりを値踏みし返している自分に気づいた。前は、こんなふうに人の顔を数えたりしなかった。人混みが、急に一人ずつの顔に分かれて見える。実際には、粥を頼み直した客が僕の脇を抜けて卓へ戻っただけだった。それだけのことに、肩が強張っていた。
夕方、宿へ戻る道で、蔵のほうへ足が向いた。書庫のある教会裏だ。用があったわけではない。人の目の少ないところで、少し頭を冷やしたかった。
路地の角で、見覚えのある髪が動いた。
仕立てのいい上着の背中が、酒場の裏口から出てきた男に何か訊いている。切れ端が耳に届いた。無属性の、火と、それから――そこで男が首を振り、女は食い下がる。あの調子で、この三日、街じゅうを歩き回っているらしかった。噂の脚の何本かは、たぶんあの足だ。
「精が出るな」
声をかけると、セラは振り返って、一瞬ばつの悪い顔をした。それからすぐ立て直した。
「あんたが何も話さないからでしょ。自分で調べるしかないじゃない」
「調べて、どうする」
「言ったでしょ。突き止めるって」
突き止めた先に、何があるのか。この娘の中でも、たぶん決まっていない。火は火、風は風、一人にひとつ――その勘定の合わない相手を、放っておけないのだと思う。いや、そう決めつけるのも違う気がした。他人の頭の中のことだ。僕にわかるわけがない。わかるのは、あの足がこの三日、宿へも帰らず街を歩き回っていた、それくらいだった。
「僕のことを訊いて回ると、話が余計に太る」
「じゃあ、あんたが話せばいいのよ」
話せるものなら、とうに話している。何も言わずに背を向けると、後ろで舌打ちが聞こえた。追ってはこなかった。今日は蔵に用があるのだろうと思ったのかもしれない。僕にも、そんな用はなかったのだけれど。
蔵の戸は半分開いていた。記録官は帳場の奥で、黴くさい綴じ本に鼻を近づけていた。顔を上げて、僕を見て、老眼鏡を押し上げる。
「来たか」
来た、と言われても、来るとは言っていない。
「近ごろ、お前の名をよく聞く」記録官は本を閉じた。埃が薄く舞った。「火だの風だの、無属性がどうの。街の噂は当てにならん。当てにならんが、火のないところに煙は立たん、とも言う」
僕は黙っていた。肯定も否定も、この人の前ではあまり意味を持たない。以前、誰も読めない文字を読む目を、一目で見抜いた人だ。
「まあいい。噂の真偽はどうでも」記録官は帳場の下から、布に包んだ何かを取り出しかけて、途中でやめた。手が止まったのは、外の物音を気にしたからだ。誰か来たかと戸のほうを窺い、誰もいないと見ると、また僕に向き直った。「お前に、見せておきたいものがある。だが、ここでは話が長くなる。……日を改めろ。明るいうちに、人の少ない刻に来い」
布の包みは、また下へ戻された。何なのかは訊かなかった。訊いても、この様子では今日は出てこない。ただ、包みを戻すときの手つきが、値の張るものを扱うそれだった。牙を削っていた護衛の手つきとは、まるで違った。
外はもう暮れかけていた。
宿への道は、遠回りして帰った。人通りの多い表を避けたのは、目立ちたくないからだ。目立ちたくない。それなのに、隠れて縮こまっているうちは、鉄格子の向こうへ梯子を掛けてくれる者もいない。無名のD級のままでは、母の首飾りの空白を読める場所にも近づけやしない。襟の内で、首飾りが肌に馴染んでいる。今日は、冷たくなかった。
隠れていたい。上へは行きたい。その二つが、けさから胸の中で場所を取り合っている。前は取り合いにもならなかった。隠れる、それだけだった。いつのまに、もう半分が口をきくようになったのか、順序は思い出せない。
宿の階段を上がりながら、記録官の止まった手を思い返していた。何を見せる気だったのか。布の下のかたちを指でなぞるように思い出そうとしたが、輪郭は結ばなかった。値の張るものを扱う手つきだった。それだけが、指の先に妙に残っていた。
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