第42話「牙」
猪の死骸は、朝になっても片づかなかった。
夜のあいだに冷えて、腹が張って、剛毛の隙間に血が黒く乾いている。近くで嗅ぐと、獣というより鉄と脂の混じったにおいがした。掌をこすっても落ちない。革袋の水を少し使って洗ったが、爪の間に残った。あとで川に寄ろうと考えて、この街道の近くに川があったかを思い出せなかった。来る時は井戸で水を汲んだ。井戸だ。川じゃない。どうでもいいことを、二度考えた。
護衛の一人が、鉈で牙の付け根を削っている。太い牙だった。抜くのに二人がかりで、片方が足で頭を押さえていた。討伐の証はそれでいいと、昨日のうちに言ってある。証は譲る、と。あの時は早くその場を離れたかった。今になって、譲ったものが目の前で削られていくのを、手持ち無沙汰に眺めている。譲ると言った手前、要るとは言えない。要るわけでもない。
「兄ちゃん、ほんとに要らねえのか」
牙を削っていた護衛が振り返った。悪い人間ではない。昨日の礼と、これは別の話らしかった。「片方でもいい値になる。ギルドの買い取り、知ってんだろ」
「要らない」
「そうか」
手がすぐ牙に戻った。無理に押しつけない代わりに、二度は勧めない。それでいい。押し問答は疲れる。
横倒しの荷車は、車輪が一つ折れていた。荷を積み直すのに、隊商の連中は朝からそればかりやっている。命が助かったという顔をしている者は、思ったより少ない。潰れた樽が二つあって、そっちの損を勘定している男がいた。指を折って数えて、舌打ちして、また数え直している。助かった者の一日は、助かったところから、普通に続くらしい。人がひとり死にかけたのに、今はもう、樽の数が合わないことのほうを気にしている。
荷車の下から引きずり出した御者は、隅で毛布にくるまっていた。腰を打ったらしい。こちらを見て、口を開きかけて、閉じた。礼の言葉を探しているのだと思う。探されても困る。目を逸らして、山刀を拭くふりをした。刃はとうに乾いていて、拭くところなどなかった。それでも布を当てていれば、手が何かをしている格好にはなる。
幼い子を連れた母親が、少し離れて立っていた。昨日、荷車の陰で震えていた親子だ。子供のほうがこちらをじっと見ている。母親が礼を言いに来ようとして、途中で足を止めた。子供の手を握り直して、結局、来なかった。会釈だけして、荷のほうへ戻っていく。それも助かった。近くで礼を言われるのは、どうにも据わりが悪い。
護衛の頭らしい男が、干し肉を二切れ、掌に押しつけてきた。礼のつもりらしい。牙は要らないと言ったのに、これは断りそこねた。受け取ってしまうと、断る理由のほうが探しにくい。硬い肉だった。歩きながら齧るにはちょうどいい。懐に入れて、それきりにした。
首の後ろの汗を拭くと、襟の内側で首飾りが冷たかった。昨日から一度も外していない。冷たいだけだ。手拭いを襟に戻して、それきりにした。
風使いは、崩れた石積みに背をあずけて座っていた。
肩の傷を布で縛っている。血は止まっているが、動かすと痛むらしく、右腕を体の前に置いたままにしている。昨日、牙の先が掠めた。あと半歩ずれていたら、掠めるでは済まなかった。その半歩を作ったのが僕の風だと、この男は知っている。知っているから、目が合うと逸れる。
水を飲むかと訊かれて、いらないと答えると、男は自分の分を飲んでから口を開いた。
「坊主。お前、無属性だと言ったな」
「言った」
「なら、あれは何だ」
牙の削れる音が、削り、止まり、また削る、と続いていた。答えなかった。答えの代わりに、右の掌を開いて、閉じた。昨日から、掌の芯にしびれのようなものが残っている。風をなぞった時の名残だと思う。思うだけだ。確かめようがない。
「気のせいだろ」
「気のせいで人の体は吹っ飛ばねえよ」
男は笑わなかった。怒ってもいない。見たものと、自分の知っていることが、どうやってもつながらない、という顔をしていた。
「詠唱がなかった。型も、おれのとは違う。だが……似てた。おれの風に、どこか似てた気がする」そこで言葉を切って、肩の布を巻き直した。痛むところを庇う手つきだった。「分からん。おれには分からん」
分からん、を二回言った。二回目のほうが、声が軽かった。それきり、肩の布ばかり巻き直していた。
牙のことも、たぶん同じだ。証を譲ると言った時、男は一度だけ、いいのか、と訊いた。いいと答えたら、それ以上は訊かなかった。証があれば、この猪を仕留めたのは男だという話になる。実際に喉を裂いたのは男だから、嘘ではない。嘘ではないが、全部でもない。全部を言わずに済むなら、そのほうが互いに面倒がない。言わないままで、二人とも得心した。
「言っとくが」男は声を落とした。「あんまり、人前でやらねえほうがいい。妙なものを見たがる連中は、どこにでもいる」
忠告のつもりらしかった。それきり、こちらを見なかった。命は拾った、風のことは自分の仕事じゃない。背中がそう言っていた。それで済ませられる人間もいる。
牙が、ようやく抜けた。護衛が二人がかりで持ち上げ、布に包む。見た目より重そうだった。
死骸そのものは、どうにもならなかった。荷馬車で運べる重さではないし、運んだところで肉は誰も食わない。獣に近すぎる肉は腹を壊すと相場が決まっている。放っておけば、夜のうちに別の獣が寄ってきて、骨だけになる。牙を取ったら、あとは道の端の邪魔な塊だ。ひと晩かけて仕留めた相手が、朝には片づけようのないごみになっている。誰もそれを惨いとは思っていない。僕も思わない。思わないのに、街道を折れる前に、一度だけ振り返った。
街道を戻り始めたのは、陽が高くなってからだ。隊商は反対の方角へ行く。別れ際に御者がもう一度こちらを見たが、今度は何も言わなかった。それでよかった。礼を最後まで言わせずに済んだ。
半歩後ろに、足音がついてくる。
昨日からずっとだ。追い払っても平気な顔で戻ってくる。今朝も、猪の死骸のそばにいた。眠っていないのか、髪が少し乱れて、目の下がうっすら暗い。仕立てのいい身なりのくせに、こんな街道の泥の上を、宿にも帰らずについて回っている。
「ねえ」
返事をしないでいると、前に回り込んできた。道の真ん中で立ち止まられると、止まるしかない。
「昨日の、あれ」
「どれ」
「とぼけないで」セラは腕を組んで、こちらを見上げてくる。「風。あんた、風を出した。あの人を助けたやつ。あれ、あんたの手から出たでしょ」
「風使いが風を出しただけだろ」
「違う。あの人のじゃない。位置が違ったもの。あんたの手のあたりから起きた。わたし、見てたのよ、ちゃんと」
見ていたのだろう。この娘は、火のことも見ている。否定しても遠回りになる。だから何も言わなかった。何も言わないのが、いちばん角が立たない。
セラは、しばらくこちらの顔を睨んでいた。それから、声が少し小さくなった。
「……この前は、火だったわよね」
「さあ」
「さあ、じゃないでしょ。あんたの手から火が出たの、この目で見たの。あの時は、まぐれかと思った。無属性でも、何かの拍子に一回くらいなら、って自分に言い聞かせた。でも」指を一本立てて、それから、もう一本足した。「火と、風。二回目よ。まぐれが二回続くわけ、ないでしょ」
言いながら、自分の言葉に自分で納得できていない顔をしていた。立てた二本の指を、眉を寄せて見ている。火は火、土は土。生まれた時に一つ渡されて、それを一生使う。この娘の中では、それが動かない。だから、二本立てた指を、どこにも片づけられずにいる。
説明はしない。したところで通じない。他人のやり方を盗んで、なぞった。それだけのことだ。
セラの指先は、少し荒れていた。火を扱う者の手だ。楽をして火が出るわけではないらしい。何年かけて、その一つを手に入れたのか。その手の前で、盗んだ火をひょいと出してみせたのだから、腹も立つのだと思う。そこまで考えても、悪いことをした気にはならなかった。盗んだのは知らない男の型で、この娘の火を取ったわけではない。ないはずだ。理屈ではそうなる。
「あんた、何なの」
「ただの冒険者だ」
「D級のただの冒険者が、火と風を出すわけないでしょ!」
声が裏返った。近くの梢から鳥が飛んだ。セラは自分の声に驚いたらしく、口をつぐんで、ばつが悪そうに髪を耳にかけた。頬が少し赤い。怒っているのか、恥ずかしいのか、どちらもか。
しばらく、二人とも黙って歩いた。気まずくはあったが、耐えられないほどではなかった。宿の方角はとうに過ぎているのに、帰るとは言い出さない。
懐の干し肉を齧った。硬くて、味は薄い。半分を、なんとなく差し出した。セラは一瞬それを見て、いらない、と言った。言ってから、少し物欲しそうな顔をした。もう一度は勧めなかった。残りは自分で齧った。
「言っておくけど」
やがて、前を向いたまま言った。
「わたしは諦めないから。あんたが何なのか、絶対に突き止める」
脅しのつもりらしいが、言い方が下手だった。突き止めてどうするんだ、とは訊かなかった。訊けば、また長くなる。
街の門が見えてきた頃、右の掌のしびれが、やっと薄れてきた。しびれが引くと、昨日なぞった風の感触も、指の記憶から少し遠のいた。忘れる前に書いておくかと落書き帳を思って、やめた。今日は書く気になれない。書けば、なぞっただけの粗い風を、覚えたことのように残してしまう。まだ、覚えたわけじゃない。
門をくぐる時、セラはまだ半歩後ろにいた。追い払わなかった。追い払う理由が、その時は思いつかなかった。たぶん、そういうことにしておく。
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