第41話「風をなぞる」
その朝も僕は独り、風に手こずっていた。
街道脇の草地で掌に魔力を集め、ほどき、思う先へ束ねようとする。だが風は昨日と同じだった。起きはする。けれどどこへも向かわない。方向を定めるあの一手がどうしても掴めなかった。
部品は揃っているはずなんだ。集める。ほどく。あとは束ねる向きを足すだけ。頭ではわかっている。なのにその最後の一片だけが指の間から零れ落ちていく。
火のときはこうじゃなかった。セラの炎を間近で見て塗るべき色を盗んで、真似たら灯った。真似た――。
ふと指が止まった。
火は彼女のやり方を丸ごと真似たからできたのだ。なのに風は一から自分で組み立てようとしている。集める、ほどく、束ねる、と部品を一つずつ。順番が逆なのかもしれない。火だって理屈から入ったわけじゃない。目の前の炎をただ夢中で真似て、理屈は後からついてきた。なら風も同じでいい。誰かが風を操るそのやってのける様を、丸ごと。
そこまで考えて、けれど先は形にならなかった。真似ようにも風を使う者が目の前にいない。手本のない模倣などできるはずもなかった。
それでも歩みは進んでいる。火を覚え、風の入り口も見えかけている。焦る必要はない。あの鉄格子の向こう――母の首飾りに刻まれた読めない一文字へ、確かに近づいてはいるのだから。
僕は掌の埃を払って街道へ戻った。答えはいつも土壇場から来る。歩けばいい。
そしてその土壇場は、坂の下で待っていた。
街道の先で悲鳴が上がっていた。
緩い下り坂の底に荷馬車が数台。横倒しになった一台から人が這い出そうともがいている。それを茶褐色の巨躯が蹂躙していた。山のように肥え太った猪だ。背丈は馬をしのぎ、湾曲した太い牙は槍のように突き出している。荒く鼻を鳴らすたび地面が震えた。
グレートボア。冒険者のあいだでそう呼ばれる魔物だ。岩のような剛毛の鎧と、あの巨体で繰り出す突進。生半可な等級では束になっても手に負えない。
そのグレートボアに、たった独りで挑む男がいた。
外套を翻し腰を落とした、僕より二回りは年嵩の魔法使いだ。腕を薙ぐたび鋭い風の刃が奔り、猪の突進を横から削いで逸らす。逃げ遅れた者を護衛たちが運ぶ時間を、独りで稼いでいた。速い。無駄がない。明らかに格上の腕だった。
あれが本物の冒険者か。ギルドの木札を一つ二つ上げて事足れりとしている僕の、はるか先。属性も詠唱も体の一部のように操る領域だ。見惚れるより先に、僕は己の未熟を突きつけられていた。上にはいつだって上がいる。
だが一対一の消耗戦だった。風の刃は剛毛の鎧を割るには至らず、男の息は目に見えて上がっている。魔力にも限りがある。彼が倒れれば逃げ遅れた者ごと終わる。
荷車の陰では母親らしき女が幼子をかき抱いてうずくまっていた。逃げ場もなくただ震えている。その光景があの灰の村の朝と重なった。崩れた壁のそばに投げ出された、覚えたての字を書いたあの小さな手が。
気づけば僕は坂を駆け下りていた。
関わるな。独りでいろ。理性が誓いを叫ぶ。だが体はそれを振り切っていた。目の前で人が死ぬ。それだけはあの村の夜から、どうしても許せなくなっている。
「そこの荷車の下、まだ人がいる! 引き出すのは僕がやる、獣はあんたが頼む!」
叫びながら横倒しの荷車へ走る。魔法使いが一瞬こちらを見て状況を呑み込み、再び猪へ向き直った。挟まれた御者を引きずり出し、護衛のほうへ突き飛ばす。間に合った。
だがそのぶん、グレートボアの狙いは風使いへ集中した。
牙が下がる。地を蹴る。突進。風使いの放った刃は勢いに押し切られ、逸らしきれない。避けきれない。その顔に初めて死の色がよぎった。
その瞬間だった。
頭の芯がしんと冴えた。いつもの、流れを見る目だ。
その目で僕は、風使いが最後に放った刃の流れを間近に見た。彼の内から指先へ魔力が集まり、ほどけ、一本の帯へ束ねられていく。ずっと掴めなかったあの、向きを定める一手。彼はそれを詠唱の一言とともに迷いなくやってのけていた。
そして今、その一連が切れ目のないひとつの生きた形として僕の目に映っていた。集めてほどいて束ねる。頭で区切ってきたそれは、本当は一本の途切れない筆の運びなのだと腑に落ちた。
部品を組むんじゃない。
朝の草地で形にならなかった思いが、火花になって弾けた。彼のこの動きを丸ごとなぞればいい。分解などせず、この目に映る一筆書きをそのまま指でなぞるように。火をそうしたのと、同じだ。
僕は掌へ魔力を注ぎ、頭で組むのをやめた。今見たばかりの彼の流れを、はじめから終わりまで一息になぞる。
指先が灼けるように熱い。魔力が堰を切って流れ出ていく。崩れる。ほどける。その前に、今見たあの一筆を最後の一画まで。
ぶわり、と。
僕の掌から風が生まれた。昨日までの、四方へ散る間抜けな塊じゃない。細く頼りなくはあったが、確かに前へ、一方向へ走る風だった。掴めないと思っていた風が、手本を丸ごとなぞっただけでその向きを束ねられていた。
だが生まれたての風はあまりに弱い。あの巨躯を押し止める力などあるはずもない。
でも人ひとりの背中を横から押すだけなら。
僕はその風を、突進の正面で力尽き棒立ちになった風使いの脇腹へ叩きつけた。猪は微動だにしない。だが避ける気力すら残っていなかった男の体が、風に押されてたたらを踏むように真横へ泳いだ。
その半歩が生死を分けた。串刺しにするはずだった牙の先が逸れて、彼の肩を浅く掠める。血が舞う。だが――生きている。
勢い余ったグレートボアが坂を駆け上がり、大きく身を翻して再びこちらへ向き直った。
「ちょっと、無属性! 無事なの!?」
坂の上から聞き慣れた声が降ってきた。セラだ。息を切らし頬を朱に染めて駆けてくる。このところ街のどこにいても、振り返ればあの仕立てのいいローブが少し離れて見えていた。今日も僕をつけてきていたらしい。おかげで頭数が一つ増えた。
「あの鎧を裂けるのはあんたの刃だけだ! ひと薙ぎでいい、急所へ! 足は僕らが止める!」
肩を押さえて膝をつく風使いへ、僕は叫んだ。血の滴る腕で、男が構え直す。満身創痍の、それでも揺るぎない構えだった。格が違う。
グレートボアが地を蹴った。
「そっちは両目だ! ありったけを叩き込め!」
「言われなくてもよ!」
セラの炎が猪の顔面で炸裂した。剛毛を焦がす程度ではこの巨躯はびくともしない。だが剥き出しの両眼を灼かれてはたまらず、獣が頭を高く振り上げた。地を蹴る足がたたらを踏む。
その一瞬へ風使いが飛び込んだ。渾身の風の刃が、剛毛に覆われぬ喉笛を深く裂く。岩のような巨躯に初めて、赤い裂け目が奔った。
「もう一度、その傷口へ!」
セラが残る力を振り絞って火を放つ。だが荒れ狂う巨躯に炎はかすめて散りかけた。
――今だ。
僕は生まれたての風を、その傷口めがけて吹き送った。獣を打ち倒すための風じゃない。散りかけた炎を裂け目の奥へ押し込むための、たった一息の風だ。鞴と同じ。細い風が炎を攫い、傷の奥深くへ吹き込んだ。
肉の内側で火が爆ぜた。
逃げ場を失った熱がグレートボアを内から灼く。獣が天を裂くような絶叫を上げた。もはや突進でも威嚇でもない。ただ内を焼く熱から逃れようと半狂乱で身をよじり――そのまま街道脇の巨岩へ、猛然と自らを叩きつけた。
地を揺るがす鈍い音。土煙。
やがてその巨躯は脚を痙攣させたきり、動かなくなった。
静寂がじわりと戻ってきた。
僕は膝をつき荒い息を吐いた。掌が空だ。たった一度風をなぞっただけで、魔力は根こそぎ持っていかれていた。ひどい燃費だった。真似ただけで中身をわかってはいない。だからこんなに食う。それでも――昨日までどこへも向かわなかった風が、初めて思う先へ流れた。
部品から組むんじゃない。流れの形を丸ごとなぞる。
その一点に気づいた瞬間、目の前が少し開けた気がした。手本さえあればいい。誰かが魔法を振るうその流れをこの目に映せれば、僕はそれをなぞれる。火も風も。だとしたらこの先も。
剣も雷も、傷を癒す術さえ、いつか。
その考えはあまりに眩しかった。だが僕はすぐに手綱を締めた。決めつけるな。今日はたった一つ、粗い風をなぞれただけだ。あの人ほど鋭くも速くもない。上にはまだいくらでも上がいる。焦らず確かめてからだ。
それに――もし世界じゅうの魔法が、こうしてなぞれる流れの形にすぎないのだとしたら。その先にある結論はあまりに大きすぎて、今の僕にはまだ触れる資格がない気がした。喉元まで出かかった問いを、そっと呑み込む。答え合わせは、この目で見てきたものだけでは到底足りない。あの鉄格子の向こうへ辿り着くまでは。
「……おい、坊主」
風使いが肩の傷を押さえて立ち、僕を見下ろしていた。その目には感謝とは別の、隠しきれない当惑があった。「お前、今――風を使ったな。無属性だと名乗ったように聞こえたが」
「気のせいだろ」
「気のせいで風は吹かねえよ」男は乾いた声で笑った。「妙な坊主だ。だが命は拾った。恩に着る」
僕は答えず、討伐の証は譲ると告げて背を向けた。目立ちたくない。だが見られてしまった。無属性が火に続いて風を使ったと、この話もきっと勝手に歩き出す。名を隠すほど、やったことが僕を裏切っていく。
それでも、と思う。隠し通すのはもう無理なのかもしれない。ならば目立つのを恐れて足を止めるより、この目で一つでも多く魔法をなぞり、強くなって、あの鉄格子まで一気に駆け上がるほうがいっそ早い。凍った胸の底で、そんな不敵な熱が頭をもたげた。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
セラが追いすがってきた。まだ火照りの残る顔で。
「風って何よ! あんた火属性だったんじゃないの!? ……いえ違う、無属性、なのよね。なのに火も風も、いったいいくつ使えるの!?」
僕は答えなかった。説明する言葉を持っていない。ただ他人のやり方を盗んでなぞった。それだけだ。だが生まれつき一つの属性を天から授かった彼女には、きっといちばん信じ難いのだろう。
「ねえ聞いてるの? まさかあの風使いのを、見ただけで真似たなんて言わないでしょうね」図星を突かれて、僕は思わず足を速めた。セラが目を丸くして追ってくる。「嘘。嘘でしょ。そんなのできるわけ……」声がだんだん小さくなる。信じたくないのに、たった今この目で見てしまったのだ。彼女のまっとうな常識がまた一つ、音を立てて軋んでいた。
「言っておくけど」セラは僕の半歩後ろを歩きながら拗ねたように言った。「今日のあれ、最後のとどめはわたしの火なんだから。ちゃんと覚えときなさいよ」
好きにすればいい、と思った。
けれど隣を歩く足音を、今日も追い払う気にはなれなかった。
二度と誰も近くに置かないと誓ったはずだった。なのにこの火みたいにまっすぐな少女は、どれだけ突き放しても平気な顔で隣へ戻ってくる。厄介だと心底思う。そう思うのに、その足音を無下にできない自分が確かにいた。
夕暮れの街道を二つの影が並んで下っていく。掌にはなぞった風の痺れがまだ残っている。あの鉄格子の向こう、母の首飾りの空白も力の正体も、まだ遠い。けれど道の歩き方が今日ひとつ変わった。
一から組む必要はない。世界じゅうの魔法が僕の手本だ。一つずつこの目でなぞって、盗んでいけばいい。
その先にどんな景色があるのか。今の僕には、まだわからなかった。
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