第40話「掴めない風」
朝靄の残る、街外れの空き地だった。
僕は掌を、目の前の枯れ草へ向けていた。
次は、風。灰狼の林でそう自分に言い聞かせてから、三日が過ぎていた。依頼の合間を見つけては、こうして独り、風を作ろうとしていた。
やり方は、火の時と同じはずだった。まず魔力を集める。掌のなかへ、色のない流れの塊をこしらえる。ここまでは、いい。問題はその先だった。
火の時は、セラの炎を間近で見た。だから塗るべき色を——熱という性質を、この目で盗めた。
だが風には、塗る色がない。
熱でも、水気でもない。風とはそもそも、空気が"動く"ことそのものだ。塗る性質があるのではなく、流れがある。それだけだ。
だったら、と僕は掌の塊をほどいた。集めた空気を一息に散らせば、風は起こるはずだ。
ぶわ、と生ぬるい塊が弾けた。
枯れ草が四方八方へ倒れ、足元の土埃がめちゃくちゃに舞い上がった。前にも、横にも、僕自身の顔にも。目に砂が入って、僕は思わず顔を背けた。
風は、起きた。確かに起きた。だが、どこへも向かっていない。
当てたい方へ飛ばせない。ただ膨らんで、そこらじゅうへ散っただけだ。魔力は火の時と同じだけ持っていかれて、残ったのは、間抜けに舞う埃と、じゃりつく口の中の砂だけだった。
……そういう、ことか。
僕は袖で口を拭い、空になりかけた掌を見た。
火は、性質を塗れば形になった。だが風は違う。空気を集めてほどくだけなら、こうして起こせる。けれどそれを"どこへ、どう向けるか"——その一手が、僕には決定的に欠けていた。
方向を、定める。流れに舵を切って、思う先へ導く。
それは、あの言葉だ。宿で読んだきり、まだ髪の毛一筋ぶんしか使えていない、あの——『流す』。
皮肉なものだと思った。火は縁もゆかりもない他人の色だったのに、盗んで再現できた。なのに風は、僕がいちばん最初に触れた"流れ"の身内のはずなのに、その舵を握れないというだけで、こんなにも遠い。
いちばん近いものが、いちばん掴めない。
僕は舞い落ちる埃のなかで、ひとつ息を吐いた。焦るな、といつもの自分に言い聞かせる。火だって、いきなり撃てたわけじゃない。順番があるだけだ。まずは『流す』を、たどたどしくてもいい、この手で握れるところまで。そうすれば、風はきっと、その先で待っている。
一つずつ、解いていけばいい。焦らずに、けれど止まらずに。
そう思い直して、僕はもう一度、掌へ魔力を集めようとした。
「——さっきから、何をやってるの?」
背後の声に、指先の流れが霧散した。
振り返るまでもなかった。凛とした、少し高い、あの声だ。
セラが、空き地の入り口に立っていた。腕を組み、片眉を上げ、僕の一挙一動を検分するみたいに眺めている。
「なんで、あんたがここに」
「街で見かけたから、ついてきただけよ。ずいぶん人目を避けて、こそこそ何をしてるのかと思えば」セラは埃の舞う空き地を見回した。「……土いじり? 無属性は、畑でも耕すの?」
「関係ないだろ」
僕は掌の埃を払って、背を向けた。
あの林の一件から、この少女は妙に僕にまとわりついていた。ギルドの掲示板の前。素材屋の店先。飯屋の隅。振り向けば、たいてい少し離れたところに、あの仕立てのいいローブがある。話しかけてはこない。ただ、じっと見ている。
なぜ、と問うまでもない。彼女は、あの夜のことが、どうしても呑み込めないのだ。無属性が火を灯した。詠唱も術式もなしに。その一点が、生まれつき火を手にしてきた彼女の"当たり前"に、罅を入れたまま塞がらずにいる。
「ねえ」セラが早足で回り込み、僕の正面へ立ち塞がった。「あの火、どうやったの。教えなさいよ」
「気のせいだろ」
「気のせいで、狼が焼けるわけないでしょ!」
声が裏返った。図星を突かれた子供みたいに、みるみる頬が赤くなる。
「わたし、火属性なのよ。生まれた時から火と一緒に育ってきたの。なのにあんたは……属性もないくせに、いとも簡単に……っ」拳を握りしめ、セラは僕を睨みつけた。「気になって、夜も眠れないじゃない。責任、取りなさいよ」
妙な理屈だ、と思った。けれど、その目に、侮りも計算もないことだけは、わかった。ただ、わからないものを前にして、まっすぐに焦れている。それだけだ。
うまく説明する気はなかった。仕組みを見て、真似た。ただそれだけのことが、この子にはきっと、いちばん信じられない。
「悪いけど」僕は彼女の脇を通り抜けた。「僕は、独りでいい」
セラが何か言い返そうと口を開いた、その時だった。
「よう。そこの、無属性の坊主」
空き地の入り口を、三つの影が塞いでいた。
革鎧に、使い込んだ得物。目つきと立ち方で、それなりに場数を踏んだ連中だとわかる。先頭の、顎髭を生やした男が、へらへらと笑いながら近づいてきた。
「聞いたぜ。最下位から一足飛びでD級になった、噂の坊主だってな。しかも無属性のくせに、火を出すとか出さねえとか」
「探してたんだ、あんたをよ」髭の男の後ろで、痩せた男が指先をひらひらと遊ばせた。その指先で、風がひゅう、と鳴っている。「俺たちみてえに、真面目に何年もかけて上がってきた者からすりゃあ、目障りなんだよ。無属性の子供が、いんちきで名を上げてるってのはな」
いんちき、か。
その言葉には、覚えがあった。読めもしない古い文字を無価値と嗤った書物。属性のない子供を落ちこぼれと決めつけた、あの水晶球の日。世界はいつも、自分の物差しで測れないものを、こう呼ぶ。まやかしだ、いんちきだ、と。
「人違いだ」僕は静かに言った。「僕は、名を上げたいわけじゃない」
「そりゃあ結構」髭の男が、僕の肩を小突いた。「なら、ちょいと試させてもらうぜ。その"火"とやらが本物か、な。安心しろ、殺しゃしねえ。恥をかかせるだけだ」
痩せた男が、片手を持ち上げた。
指先で遊んでいた風が、渦を巻いて膨らむ。次の刹那、それは鋭い一陣となって、僕の足元めがけて薙ぎ払われた。石ころが飛び、砂が舞う。僕を転ばせて、無様に這わせるつもりの一撃だ。
だが、その風が来る半瞬。僕の頭の芯が、しんと冴えた。
男の掌から放たれた風の、その走る道筋が——流れが、はっきりと見えた。
周囲の空気が引き寄せられ、乱れた流れがほどかれ、一本の線へと束ねられていく。
束ねる。方向を、定める。
そうして生まれた風の槍が、僕へと差し向けられていた。
今朝、僕にできなかった、まさにその一手だ。彼はそれを、意味も知らず、指先ひとつで無造作にやってのけている。
これが、僕に欠けている舵か。
目に焼きつけながら、体は半歩だけ横へ滑っていた。ボルツに叩き込まれた、いなす。逆らわず、受けず、半歩ずれて力を逃がす。束ねられた風は、僕のいた場所を空しく薙いで、後ろの土塀に砂を叩きつけた。
「——へえ?」
痩せた男の笑みが、少し固くなった。二陣、三陣と、風の刃が続けて飛んでくる。僕はそのことごとくを、半歩、また半歩と、いなしていった。当てたければ、束ねればいい。だが束ねた流れは、まっすぐで、読みやすい。読めれば、避けられる。
試しに、僕も右手へ空気を集めてみた。集めて、ほどく。ぶわ、と手の中で風が膨らむ。
だが——やはり、そこまでだった。束ねられない。方向が、定まらない。せっかく起こした風は、男へ届く前に、あらぬ方へ散っていく。今朝の空き地と、何も変わらない。
わかっている。今の僕には、まだ届かない。『流す』を、握れていないから。
だったら、今できるやり方でいい。
僕は散りかけた風を、いなしの半歩に重ねた。飛んできた四陣目を、その拙い突風で"ほんの少しだけ"斜めに逸らす。狙って当てるほどの制御はない。だが、逸らすだけなら——流れに、流れを添えるだけなら、僕にもできた。刃の芯が外れ、風は僕の頬をかすめて抜けた。
その勢いのまま、僕は間合いを詰めていた。
髭の男が慌てて剣を抜き、上段から振り下ろしてくる。腰に佩いた山刀へ、僕は手をやらなかった。人を斬るための刃じゃない。振り下ろしきる前に半歩踏み込み、外から男の腕を押さえて、崩れた線へ体を入れる。手首を軽く払うと、剣はあっけなく地面へ落ちた。抜き際の悪い、雑な太刀筋だった。魔物と違って、人は、驚くほど隙が多い。
「な——」
僕は落ちた剣を踏み、痩せた男へ向き直った。三人が、思わず半歩、下がる。
殺す気は、微塵もなかった。人を殺めるのは、二度と御免だ。ただ、これで終いにしたかった。それだけだった。
「言ったはずだ」僕は静かに繰り返した。「僕は、名を上げたいわけじゃない。だから、放っておいてくれ」
張り詰めた沈黙を破ったのは、思いがけない声だった。
「ちょっと、あんたたち!」
いつの間にか、セラが僕の横へ進み出ていた。掌の先で、火がごうと音を立てて渦を巻いている。あの豪炎だ。頬を朱に染め、彼女は三人を睨みつけていた。
「三人がかりで一人を囲んで、それで冒険者のつもり? 恥を知りなさいよ! この人が本物かどうかなんて、わたしが一番よく知ってるんだから!」
まずい、と思った。ここで彼女が火を放てば、路地ごと燃える。相手にも、火傷では済まない怪我を負わせかねない。
「よせ」
僕は、火を握った彼女の手首を、上からそっと押さえた。
「もう終わってる。誰も、死なせるな」
セラが、はっとしたように僕を見上げた。その手の中で、渦巻いていた炎が、ふ、と小さくしぼんでいく。
髭の男が、剣を拾うのも忘れて、僕とセラを交互に見比べた。無属性の、いんちきのはずの坊主。それを庇う、火属性の令嬢。何がどうなっているのか、頭が追いつかないという顔だった。
「……いこう」痩せた男が、仲間の袖を引いた。「なんか、割に合わねえ」
三つの影は、それだけ言い残して、逃げるように空き地を去っていった。
残されたのは、僕と、まだ息を弾ませているセラだけだった。
「なんで、止めるのよ」彼女は握っていた手を振りほどき、拗ねたように唇を尖らせた。「あんなの、少し痛い目を見せてやればよかったのに」
「痛い目を見せて、その先どうする」僕は落ちた砂を払った。「恨まれて、次はもっと大勢で来る。きりがない。誰かを傷つければ、いつか自分か、そばの誰かに返ってくる」
言ってから、少しだけ、口をつぐんだ。それは知識じゃない。灰の村で、身をもって学んだことだった。
セラは、僕の横顔を、じっと見ていた。さっきまでの、わからないものを前にした焦れた目とは、少し違う色だった。
「あんた、変よ」ぽつりと、彼女は言った。「無属性で、最下位あがりで、独りで格上を狩って。なのに、名も上げたくない、目立ちたくもないって。……何がしたいの?」
答えなかった。
答えられるはずもない。母の首飾りに刻まれた、読めない一文字の答え。あの鉄格子の向こうにしかない、古い記録。それを掴むためだけに、僕は静かに、確実に、昇ろうとしている。目立つことは、その邪魔にしかならない。
だが、そんなことを、この子に話す気はなかった。
「気のせいだろ」
僕はそう言って、背を向けた。
「また、それ!」背中で、セラが地団駄を踏むのがわかった。「いい? わたし、絶対にあんたの正体を暴いてやるんだから! 覚えてなさいよ!」
勝手にすればいい。僕は片手を上げて、それに応えた。振り返りはしなかった。
その日の夜。宿の硬い寝台で、僕は掌を天井へかざしていた。
目を閉じれば、あの痩せた男の風が、まだ見える。束ねられ、一方向へ差し向けられた、あの流れ。あれさえ握れれば、僕の風も、当てたい先へ飛ぶのだ。火に続く、二つ目の"作り方"。その入り口は、もう見えている。
届かないのは、いつだって、あと半歩だ。
僕は宿の隅で、螺旋の写しを広げた。芯の結びの、その隣にある一画——『流す』。今朝から数えて、何度目かもわからない。掌に拳大の流れを集め、その渦に、そっと舵を切る。ほんの、髪の毛一筋ぶん。渦がぐらりと傾いで——次の瞬間、あっけなく崩れて霧散した。魔力が、どっと持っていかれる。
まだだ。まだ、届かない。
それでも、と思う。三日前は、風がどこへも向かわない理由すらわからなかった。今は、わかる。欠けている一手の名前を、僕はもう知っている。ならば、あとは埋めるだけだ。
消えた渦の余韻を、僕はしばらく掌の上で見つめていた。
名は、また勝手に歩いているらしい。今日みたいな連中をこれからも呼び寄せるのだろう。そして——あの、火みたいにまっすぐな少女も。
厄介だ、と思う。心底そう思う。
なのに、庇われた時のあの手の温もりが、なぜだか、まだ掌の端に残っていた。凍らせたはずの胸の隅で、それがちろりと、消えずにいた。
僕は寝返りを打って目を閉じた。
明日も依頼がある。昇るための、一段が。掴めない風のことは、また明日考えればいい。
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