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【第二章完結・第三章開幕】無属性の落ちこぼれ追放令息は、失われた魔法《原初式》を読み解く ~世界の魔法は、最初から間違っていた~  作者: 刈谷るあ
冒険者編

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第38話「流れに、名を」

 鎌翼の鉤爪を証に差し出すと、ミラは長いことそれを見ていた。

 「……本当に、独りで」

 「依頼票の通りだ」僕は言った。「報酬を」

 彼女は札の裏を検め、討伐の証を確かめ、それでもどこか信じきれない顔で銅貨を数えた。約束の額に、いくらか色をつけて。危険度の高い依頼だ。生きて帰ってきた分の色なのだろう。

 銅貨を布の袋へ滑らせると、ずしりと重い。鉄格子の向こうへ、また半歩。だが顔を上げて、僕は気づいた。酒場のざわめきが、いつもと違う。

 視線だ。あちこちから、遠慮のない目がこちらへ向いている。

 カウンターの端で麦酒をあおっていた革鎧の男が、僕を見ていた。ひと月前、岩喰いの依頼を取った僕を「無属性の最下位」と鼻で笑った男の一人だ。今はもう笑っていない。値踏みするような、腑に落ちないような、そんな目をしている。

 「おい」男がぼそりと言った。「あの北街道の飛び物、お前がやったってのは本当か。四人食われて、腕利きが匙を投げた、あれを」

 「依頼票の通りだ」僕は繰り返した。

 男は何か言いかけて、やめた。代わりに仲間と顔を見合わせ、低く何かを囁き合う。言葉は聞こえない。だが囁きが酒場のあちこちへ、水の輪のように広がっていくのはわかった。最下位が赤印を単独で仕留めた。その一報が、今この場で名前を持ちはじめている。

 厄介だ。僕は袋の口を締めた。目立ちたくない。ここへは金を稼ぎに来ただけだ。稼いだ金で、鉄格子の向こうの言葉へ手を伸ばすために。

 その時、奥の帳場から軋む足音が降りてきた。


 ギルドマスターだった。潰れた片耳を掻きながら、階段の途中で立ち止まり、僕を見下ろす。

 「レイ。上がってこい。話がある」

 帳場の奥の狭い部屋には、依頼票の束と、埃をかぶった等級簿が積まれていた。ギルマスは椅子を軋ませて腰を下ろし、僕には座れとも言わず、しばらく古傷だらけの腕を組んでいた。

 「緊急依頼の始末書だ、まずは」しゃがれた声で、一枚の紙を寄越す。「飛び物を仕留めた顛末を書け。字は書けるな。……ふん、書けるどころじゃねえな、その手つきは」

 僕はできるだけ短く、事実だけを記した。倒木の狭間へ追い込んで羽を封じ、動けなくして討った、と。原初式のことは書かない。剣と、地形と、辛抱で仕留めた。そう読めるように。

 ギルマスは紙に目を落とし、それから顔を上げた。

 「等級を上げる。お前をF級のままにしとくのは、規定のほうが間違ってる」

 「いらない」

 言葉が勝手に出た。ギルマスの眉が、片方だけ持ち上がる。

 「ほう」

 「今の等級で困っていない。目立ちたくもない」

 「困ってねえ、か」老いた冒険者は鼻を鳴らした。「F級が受けられる依頼は、割の悪い掃除仕事ばかりだ。今度みてえに赤印を取るにゃ、毎度誓約書に判を押して、死んでも文句言えねえ橋を渡ることになる。等級が上がりゃ、その橋が減る。実入りのいい仕事に手が届く。街を出て別の街のギルドを使うにも、下位ってだけで足元を見られずに済む」

 実入り。その一語が、袋の重さと結びついた。

 銅貨は、貯まる速さより、閲覧と書写に消える速さのほうが速い。鉄格子の向こうの古文書に手を伸ばすには、まるで足りない。稼ぎの効率が上がるなら――それは、あそこへ届く日が早まるということだ。

 「ただし」僕は言った。「試すなら、剣でだ。魔法は、使わない」

 ギルマスの目が、ほんの一瞬、細くなった。あの夜、山刀の差し方をひと目で見抜いた歴戦の目。剣に何か乗せていたな、と問うてきた目だ。

 「……ああ」やがて彼は言った。詮索はしねえ約束だ、とでも言うように。「剣で見せろ。それで十分だ」


 査定は、その日の午後、ギルドの裏庭で行われた。

 相手はギルマスが呼んだ古株の一人だった。D級の、槍を得手とする無口な男。木を削った模擬槍を構え、僕の木剣と向き合う。まわりには、いつのまにか冒険者が幾人か集まっていた。あの革鎧の男たちもいる。査定を見物する目、というより、噂の真偽を確かめに来た目だ。

 「殺す気で来い、とは言わねえ」ギルマスが縁台から声をかけた。「だが、手加減はいらん。捌けなきゃ、そこまでのやつだ」

 槍が来た。速い。突きの伸びは、鎌翼の落下ほどではない。

 僕は半歩、身をずらした。穂先が肩の横を通り過ぎる。受けない。逸らす。ボルツに数えきれないほど転がされて、体に刻んだ動き。相手の力に逆らわず、その勢いに半歩だけ寄り添って、線の外へ流してやる。

 男の目が、わずかに見開かれた。二撃目、三撃目。薙ぎ、引き戻し、下段からの跳ね上げ。僕はそのどれにも正面から当たらなかった。当たれば負ける。力も、体格も、向こうが上だ。だから、当たらない場所へ半歩ずつ動く。渦の向きに寄り添うように。

 やがて槍の穂先が空を切りすぎて、男の体がわずかに流れた。その崩れた線へ、僕は木剣を差し込んだ。喉のすぐ手前で、止める。

 裏庭が、静かになっていた。

 「……参った」槍の男が息をつき、模擬槍を下ろした。「無属性だと聞いたが。属性がどうとか、そういう問題じゃねえな、こりゃ。どこでこの捌きを拾った」

 「森で。独りで」

 それ以上は言わなかった。あの半歩を教えた人のことも、その人が守れなかったもののことも。

 縁台のギルマスが、古株の男へ目で問うた。男は肩をすくめた。

 「文句なしだ。F級は冗談が過ぎる。俺と同じD、いや――」

 「D級にする」ギルマスが遮った。「Eを飛ばすのは異例だが、赤印の実績と、今の捌きだ。規定に文句を言う奴がいたら、俺のところへ寄越せ」

 見物の冒険者たちの間に、どよめきが走った。一足飛びの昇級。歓迎の色ばかりではない。値踏み、警戒、面白くなさそうな顔。最下位から来た新入りが、いきなり自分たちの隣へ並んだのだ。無理もない。

 僕はその視線の束を、背中で受け止めた。

 欲しかったものが手に入ったのに、胸は少しも躍らなかった。ただ、面倒事の匂いが一つ増えた。そんな感覚だけがあった。


 その夜、宿の狭い部屋で、僕は落書き帳を開いた。

 昇級の高揚は、とうになかった。代わりに、林で仕留めそこねかけたあの感触が、まだ指の先に残っている。

 止まっていてくれさえすれば断てるのに、あれは止まらなかった。宙で羽をひとひねりして、僕の一撃を、ふわりと逸らした。

 逸らした。

 その言葉を、僕は帳面の上でなぞった。鎌翼は、自分の勢いの向きを、あの一瞬で変えてみせた。僕にはできないことを。『集める』は流れを一点に集めるだけ。『ほどく』は結びをほどくだけ。どちらも、動いているものの向きそのものには触れられない。

 ――でも、本当にそうだろうか。

 ふと、手が止まった。

 向きを変える。逸らす。流す。……僕は、それを知らないわけじゃない。

 今日の裏庭で、僕は槍を何度も逸らした。相手の突きに逆らわず、半歩ずれて、その力を線の外へ流してやった。ボルツが「受けるな、流せ」と、棒きれで叩き込んだあの動き。あれは、力の向きを、こちらの都合のいいほうへ導く技だ。

 体は、とっくにそれを知っている。ただ、名前がなかっただけだ。

 背筋が、ぞくりとした。

 いつだったか気づいたはずだ。ボルツの「いなす」と、遺跡で覚えた「流れに逆らわず導く」感覚は、根のところで同じものだと。物理と魔法の、境の上に架かった同じ一本の橋。なら――剣で幾千回とやってきたあの逸らしに、遺跡の言葉のほうでも、きっと形があるはずだ。

 僕は螺旋の写しを引き寄せた。遺跡の壁から書き取った、まだ読めない無数の形。それを、体の記憶と突き合わせる。集めるでも、ほどくでもない。半歩ずれて、力の向きに沿って、外へ滑らせる――あの感触に、応える形を探す。

 夜が更けるのも忘れて、指でなぞり続けた。

 そして、見つけた。

 集めるの渦と、ほどくの逆巻き。その二つの芯には、同じ小さな結びがある。前に気づいた通りだ。だがその結びのすぐ隣に、ずっと見落としていた払いがあった。結びから外へ、すっと逃がすように伸びる一画。集めるように巻き込むのでも、ほどくように散らすのでもなく、ただ流れを一方へ沿わせ、送り出す形。

 息を詰めて、体の感覚と重ねる。

 ――合う。裏庭の半歩と、この払いが、合う。

 これが、逸らす言葉だ。流す、と胸の内で呼んでみる。そしてその向かいに、もう一つ。流れを送り出すのではなく、その場に押し留める形。集めると散らすが対だったように、これもまた対をなしている。留める。

 二つの言葉が、写しの上で静かに輪郭を結んだ。


 読めた、と思った。

 だが、そこから先が、いつも通り遠い。

 読むことと、使えることは、別だ。何度思い知っても、また同じ壁の前に立たされる。

 僕は手のひらの上に、拳大の流れを起こした。集めるでもなく、散らすでもなく、覚えたばかりのあの払いの形を、そっと重ねてやる。流れを、一方へ沿わせて、送り出す――。

 渦は、あっけなくほどけて散った。

 もう一度。今度は慎重に。集める型で流れをまとめ、その向きに、払いを添える。だが力を送り出そうとした途端、渦は行き場を失ってばらけ、指の間から霧のように消えた。魔力だけが、ごっそり減っている。

 うまくいかない。集めるは、ただ握り込めばよかった。ほどくは、握った手を開けばよかった。だが流すは違う。握りもせず、開きもせず、力に向きだけを与えて、その流れに乗せて運ぶ。舵取りの中の、さらに細い舵取りだ。少しでも力めば散り、少しでも緩めば止まる。その間の、ひどく狭い道を通さなければならない。

 何度も失敗した。魔力が心もとなくなってきた頃、ようやく一度だけ、渦の縁が、ほんの髪一筋ぶん、僕の望んだほうへ傾いた。ほどけもせず、止まりもせず、確かに向きを変えて――そして、すぐに崩れた。

 それだけだ。たったそれだけ。

 けれど僕は、しばらく手のひらを見つめたまま動けなかった。

 止まっていた壁が、また一枚、動いた。宙の鎌翼を、あの狭間に押し込まなくても、いつか正面から流れごと逸らせる日が来るのかもしれない。今はまだ、髪一筋の向きさえ、たどたどしくしか変えられない。実戦で振るえる代物には、程遠い。だが、始まりはいつも読むことからで、その次はいつも、こうして無様に失敗することからだった。

 ふと、別の考えがよぎった。

 自分の流れの向きを、こうして少しずつ導けるのなら――他人の流れは、どうだろう。裏庭の槍の勢いを逸らしたように、誰かが振るう力の向きにも、いつか沿ってやれる日が来るのだろうか。

 ばかな考えだ、とすぐに打ち消した。他人の流れを読むどころか、自分の流れ一つ、満足に運べていないくせに。それに――誰かの隣に立って力を合わせるだなんて、僕にいちばん似合わない。

 窓の外で、街の灯りが一つ、また一つと消えていく。

 遺跡から遠く離れたこの街では、流れに触れても、あの底の胸騒ぎはもう起きない。かつて力を使うたびに感じた、目覚めを早めているという冷たい確信。それが、ここでは遠い。けれど、忘れたわけじゃない。力には、いつだって代償がある。それだけは、灰の村が教えてくれた。

 僕は落書き帳を閉じ、覚えたばかりの二つの言葉の隣に、小さく印をつけた。読めた。まだ、使えない。

 その二行の間に横たわる距離を、僕はこれから、一段ずつ埋めていく。


 朝、ギルドの掲示板の前に立つと、また視線を感じた。

 昨日までとは、明らかに空気が違う。掲示板の前の冒険者たちが、さりげなく僕の分の場所を空ける。受付のミラが、こちらへ来いと目で合図する。

 「昇級、おめでとう。……って言っていいのかどうか」彼女はD級の依頼票を数枚、カウンターに並べながら、声を落とした。「言っとくけど、良いことばかりじゃないよ。名前が売れるってことは、面倒も一緒に寄ってくるってことだ。厄介な依頼を名指しで押しつけられたり、力を測りに絡んでくる馬鹿がいたり。……あんた、深入りされるのが嫌いだろ。だったらなおさら、気をつけな」

 深入り。その一語に、僕は少しだけ手を止めた。

 「忠告は、受け取っておく」

 目立ちたくはなかった。だが、鉄格子の向こうへ届くには、高い格が要る。高い格は、否応なく人の目を集める。静かに生きることと、あそこへ手を伸ばすことは、たぶん両立しない。それを今、思い知りはじめている。

 僕は一番割のいい依頼票を一枚選び、袋の紐を締め直した。

 名前が、勝手に歩きはじめている。僕の望みとは無関係に。その足音が、いつか誰を呼び寄せるのか――今の僕には、まだ、わからなかった。

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