第37話「宙の刃」
付与師の工房で青石を銭に換えた翌日、僕はまたギルドの掲示板の前にいた。
銅貨は少し貯まった。だが足りない。閲覧に、書写に、鉄格子の向こうへ届くには、まるで足りない。
目を引いたのは赤い印のついた依頼票だった。危険度の高い依頼につく印だ。北へ抜ける街道の、林を貫く区間。そこで旅人が続けて襲われているという。しかも空から。
僕はその赤い票へ手を伸ばした。
「待ちな」受付のミラが素早く札を押さえた。「それはあんたには回せない。赤印はF級お断りだよ。推奨等級に届いてない新入りが受けたら、ギルドの規定違反になる」
規定。初めてぶつかる壁だった。これまで受けてきた岩喰いも迷宮も、危険度の印はついていなかった。ただ誰もやりたがらない、割に合わない仕事。だが赤印は違う。腕と等級で、はっきり線が引かれている。
「なら、どうすれば受けられる」
「普通は無理。C級まで上がってから出直しな」
その時、掲示板の脇で膝をついている男に気づいた。荷運びの御者らしい。土気色の顔で、震える手に潰れた革帽を握りしめている。
「頼む、誰か、あの林へ行っちゃくれねえのか」声はかすれていた。「連れが……相棒が、上から影みてえに降りてきたやつに攫われた。荷はいい。せめて骨だけでも」
ミラが目を伏せた。「この三日で旅人が四人やられてる。だけどうちの腕利きは南の討伐に出払って、今この街に高ランクがいないんだ」
奥の帳場から、しゃがれた声が割って入った。ギルドマスターだった。潰れた片耳を掻きながら、階段を軋ませて降りてくる。
「被害が出続けてる赤印を、いつまでも塩漬けにはできん」老いた冒険者は僕と御者を見比べた。「緊急依頼に切り替える。等級の下限を外して、下位にも開ける。ただし自己責任の誓約書つきだ。死んでもギルドは指一本動かさん」
ミラが息を呑んだ。「マスター、こいつまだF級だよ」
「等級はな」ギルマスは僕の腰の山刀へ、ちらと目をやった。「だが、その差し方は新入りのものじゃねえ。行くのか、レイ」
僕は誓約書に指を這わせ、名を記した。
「飛ぶやつは、地のやつより質が悪い」ギルマスは背を向けたまま言った。「追えねえ、囲めねえ、逃げられねえ。行くなとは言わねえ。だが、退き際だけは間違えるな」
また、それだ。ボルツと同じ言葉。僕は返事をせず、その声を耳の奥へ沈めた。
「あんた」ミラが札の裏へ討伐証明の欄を書き足しながら、目を上げずに言った。「飛ぶやつだよ。あんたの剣は、届かないよ」
届かない。その言葉が、なぜか棘のように刺さった。
「案内はいらない」僕は御者に言った。危ないからだ。だが男は青い顔で首を振った。「あの場所は俺が知ってる。連れてってやる。それくらい、させてくれ」
その目を見て、断りきれなかった。断らなかった自分に、少し舌打ちしたくなった。
林の細い区間に着いた頃、日はもう傾いていた。
両側から梢がのしかかり、道は薄暗い溝のようだった。空を塞ぐこの一本道は、上から落ちる獲物には格好の罠だ。僕はボルツに教わった目で梢を読んだ。高い幹の樹皮に、鋭い鉤爪の掻き傷。下生えに羽根が一枚、骨も転がっている。――いる。まだ近くに。
掻き傷はどれも高い枝から斜めに走っていた。まっすぐ真下ではなく、斜めに滑り込んで裂く。一度で仕留め損なえば、また梢へ戻ってやり直すのだろう。辛抱強い狩人だ。裏を返せば、一度目さえしのげれば、二度目からはこの目にも軌道が見える。
僕は御者を道の外れの窪みへ押しやった。「何があっても出てくるな」
それから山刀を抜き、刃をじっと見た。
落書き帳を開く。付与師の工房で写した渦の形がそこにある。外から内へ巻き込む、あの刻印。ドランは意味も知らずに彫っていた。こう彫れば効く、と。
この渦は、僕の知る渦とは違う。
遺跡の壁で読んだ『集める』も『ほどく』も、ぱっと見は同じ螺旋だ。だがあれは細かな形をいくつも巻き込み、きつく編み上げてできている。読むだけで頭の灼ける、密度の塊だ。
この刻印は、その細かな形をたった一つ、ほどいたまま置いただけのものだった。ゆるくて素朴で単純。だからこそ意味を知らぬ付与師にも、彫れば効くのだろう。
工房で気づいてから、ずっと胸に引っかかっていた。現代の付与と、僕が遺跡で読んだ形。まるで同じ文字で書かれた、ほどけた一節ときつく編まれた一節。確かめようはない。決めつけてもいけない。だがほどけている形なら、読めた通りになぞれば僕にも真似られるはずだ。
彫りはしない。刃先に沿って魔力を流し、あの渦をなぞる。集めるでもほどくでもない、ゆるい一つの形。ただ読めた通りに流れを添わせる。それでも意味を知らず彫るドランとは、たぶん違う。この渦が刃に何をさせているのか、僕には見える。
山刀の刃が、ぼう、と鈍く滲んだ。驚くほど軽い。螺旋を編むときのような、魔力を根こそぎ持っていかれる重さがない。ほどけた一つの形は、灯すだけならわずかな魔力で足りる。長く保たせるのも造作ない。
ただ、慣れない形だ。なぞりが甘いのだろう、気を抜くと渦がほどけて滲みが緩む。何度も編み直しながら整える。それでも刃を近くの若木へ滑らせると、拳ほどの幹が驚くほど浅い抵抗で断たれた。
効く。付与師の刃には遠く及ばない、粗い真似ごとだ。だが確かに切れる。しかも、これなら息の続く限り灯していられる。
僕は道の真ん中に立った。囮だ。飛ぶ相手をこちらの土俵へ引きずり下ろすには、自分を餌にするしかない。
息を殺し、梢を見上げ、待つ。
風が止んだ。
――来る。
音はなかった。頭上の薄闇がぐにゃりと歪み、次の瞬間、それは落ちてきた。畳んだ翼、剥き出しの鉤爪、僕の背丈ほどもある影が、まっすぐ首を狙って。
横へ跳ぶ。半歩、いなす。鉤爪が耳のすぐ横をかすめ、髪を数本断ち切った。すれ違いざま、滲んだ刃を薙ぐ。手応え――浅く、翼膜を裂いた。鋭利化がなければ、掠りもしなかった一撃だ。
だが鎌翼は羽を広げ、傷を引きずったまま音もなく梢へ舞い戻る。仕留めるには遠い。
速い。
剣を振るう暇はあった。刃に力を寄せる暇も。だが、届く相手が宙へ消えている。止まっていてくれさえすれば断てるのに、あれは止まらない。
二度目の落下。またいなす。今度は掠られた。肩の布が裂け、熱い線が走る。すれ違いざま、刃に『集める』を乗せて渾身の一撃を叩き込む――だが刃は空を切った。当たる寸前、鎌翼は羽をひとひねりして、ふわりと軌道をずらしたのだ。
息が上がる。あの密な螺旋は、一度乗せるだけで大きく魔力を食う。狙いすました一撃をこうも容易くかわされては、残りが心もとない。刃の滲みだけは、まだ灯っている――こればかりは軽いから、保つのに魔力は要らない。だが肝心の『集める』が、あと何度もつか。
――届かない。
ミラの言葉が耳の奥で鳴った。悔しいが、その通りだった。僕の力は止まっているものにしか届かない。『集める』は流れを一点に集めるだけ。『ほどく』は結びをほどくだけ。どちらも、動いているものそのものの向きは変えられない。あの落下の軌道を、ほんの少し逸らせたら。あの突進の勢いを、宙で押し留められたら。
僕には、その言葉がなかった。二つの言葉の、その先が。
欲しい、と喉の奥で思った。焼けつくほどに。だが、ないものはない。今あるのは剣と、いなしと、二つの言葉と、ボルツに鍛えられたこの目だけだ。
なら、それで勝つしかない。
その時、道の外れで小さな悲鳴が上がった。御者だ。岩陰から半身を乗り出している。動くなと言ったのに。
鎌翼の首が、ぐるりとそちらを向いた。新しい、無防備な獲物。畳んだ翼が御者めがけて滑り出す。
考えるより先に、体が動いた。二人の間へ走り込み、地を蹴って跳ぶ。伸ばした腕を鉤爪がしたたかに打った。骨が軋む。それでも、あの影を御者からは逸らした。
――また、誰かを庇っている。
地に転がりながら、自分に毒づいた。だから独りがいいと決めたはずだ。守れば隙ができる。隙は僕を殺す。あるいは、その誰かを。あの灰の村で、いやというほど思い知ったのに。
それでも、見殺しにはできなかった。どうしても、できなかった。
考えろ。
あれが強いのは、宙にいるからだ。自在に軌道を変え、好きな角度から落ちてくる。なら、変えられなくすればいい。逃げ場のない一本の線に、追い込めば。
道の先で、倒れた大木が斜めに道を塞いでいた。その下は、人ひとりがかがんで抜けるだけの低く狭い隙間。あそこへ潜れば、鎌翼はまっすぐ突っ込むしかない。羽を広げれば幹に当たる。軌道を、ずらせない。
賭けだった。読み違えれば、あの狭間で串刺しになるのは僕のほうだ。
残った魔力を、そっとかき集める。刃の滲みはまだ生きている。あとは『集める』を、たった一度。最後の一撃に根こそぎ乗せる。
僕は倒木の隙間の手前まで走り、背を向けて立った。無防備な背中。この上ない餌だ。
梢が歪む。落ちてくる。鉤爪がまっすぐ僕の背へ。羽を畳んだ一直線の突進で、倒木と地面に挟まれた逃げ場のない道を。
今だ。
身を投げ出すように、隙間の下へ転がり込む。頭上を鉤爪が裂いた。鎌翼は羽を広げようとして――広げられなかった。左右を幹と地面に塞がれ、勢いを殺せぬまま、僕のいた場所へ突っ込む。
その、宙で軌道を変えられない一瞬。
転がった勢いのまま振り返り、最後の力を刃に集めた。『集める』。渾身の突き上げ。倒木の下でもがく鎌翼の、翼のつけ根の柔らかい胴へ、滲んだ刃を突き入れる。
鋭利化を乗せた切っ先が、ぬめる手応えを裂いて深く沈んだ。
鎌翼が甲高く鳴き、狭間で狂ったように暴れる。僕は柄にしがみつき、体重のすべてを刃に預けた。やがて、その暴れが止まった。
倒木の下から這い出し、道に大の字に転がった。
魔力は空だ。肩から血が滲み、腕は鉛のように重い。夕闇の中、鎌翼の影が翼を広げたまま動かない。
勝った。だが、勝った気はしなかった。
僕はこいつに、正面から届いたわけじゃない。宙という土俵から引きずり下ろし、速さを奪い、狭間へ押し込めて、変えられるはずの軌道を変えられなくしただけだ。もしこの林が開けた野原だったら。もし逃げ込む倒木がなかったら。僕は今ごろ、あの鉤爪の下で首を裂かれていた。
――やっぱり、足りない。
止まったものを断つ力は、僕にもある。だが、動くものの向きを操る力がない。集めることは覚えた。ほどくことも覚えた。その次にきっと、あるはずなのだ。流れそのものを、逸らし、留め、導く言葉が。あの遺跡の壁の、まだ読めない無数の形の中に。
欲しい。次はそれを読み解く。
もっとも、読めたところですぐ使えるわけじゃない。読むことと使えることは、いつだって別だ。それも嫌というほど知っている。それでも始まりは、いつも読むことからだった。刃に灯したあの粗い渦だって、工房でドランの手を読んだから、なぞれた。なら――いつか誰かが魔法を振るう、その形さえ読み解けたら。僕になぞれる形は、少しずつ増えていくのかもしれない。
岩陰から御者がおそるおそる出てきた。動かない鎌翼と、血まみれの僕を見比べ、へたり込むように膝をつく。
「あんた……本当に、独りで」
男は僕の手を取ろうとした。礼を言おうと口を開きかけた。梢の向こうへ消えた相棒を、詫びるように、悼むように。
「礼はいらない」僕はその手をやんわり外して立ち上がった。「あんたの連れは、もう帰らない。それは、僕にはどうにもできなかった」
言ってから、少し言葉が過ぎたかと思った。だが、慰めはできない。誰かを慰められるほど、自分の中の傷を、まだ埋められていない。
男は泣いていた。相棒の骨を、林のどこかへ探しに行くのだろう。僕はそれに付き合わない。付き合えば情が湧く。情が湧けば、いつかこの人も、僕のせいで死なせる気がした。
鎌翼の鉤爪を一本へし折り、討伐の証に依頼票へ包んだ。ギルドへ持ち帰れば、銅貨が何枚か。あの鉄格子へ、また半歩。
ふと、ギルマスの目を思い出した。山刀の差し方をひと目で見抜いた、あの歴戦の目。最下位が赤印を仕留めて帰れば、あの目は今度こそ、僕から離れないだろう。
厄介だ。目立ちたくはない。だが――高い格には、高い格でしか開かない扉がある。書庫の鉄格子も、その一つだ。
林を出ると、空にはもう星が滲んでいた。
いったい、あといくつの「届かない」を越えれば、僕はあそこへ届くのだろう。宙の影にも。母の首飾りの、真ん中の空白にも。そして、鉄格子の向こうにも。
答えの出ない問いを、また一つ、熾火にくべる。僕は肩の傷を押さえ、暮れきった街道を独り、街へと下っていった。
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