第36話「刻印」
石蟲の殻の下から掘り出した鉱石は、思っていたよりずっと重かった。
背負って街へ帰り着いた時にはとうに日が暮れていて、僕は宿の硬い寝床に倒れ込むと泥のように眠った。腕の震えは朝になっても指の芯に残っていた。たった一匹の魔物に持てるものをすべて使い果たしたのだ。剣で割れず、魔力も尽き、最後は継ぎ目のひと突きに賭けた。あと少し気づくのが遅ければ、僕は今ごろあの殻の下だった。
それでも生きて朝を迎えた。
枕元の袋には青みがかった鉱石が詰まっている。これが銅貨に変わり、銅貨が貯まって銀貨になれば、僕はまた半歩あの鉄格子の向こうへ近づける。母のことも、この手の力のことも、街の魔法使いが本当は何をしているのかという問いも、その答えはみな高いところにある。銭はそこへ昇るための、いちばん低い段だった。
昨日の坑道で、僕は自分に問うた。どこまで昇れるのだろう、と。答えは出なかった。ただ昇りたいという渇きだけが腹の底で熾火のように燻っている。まずは目の前の一段だ。この石を銭に変える。
顔を洗い、僕は鉱石の袋を担いでギルドへ寄った。
買取に流すつもりだった。だが受付のミラは、袋の口を覗き込むなり眉を上げた。
「あんた、これ東の坑道の青石じゃないか」
僕がうなずくと、ミラは呆れたように息を吐いた。「登録してひと月の新入りが、ソロで主のいる層まで潜ったってのかい。無茶をするなって、あれだけ言ったのに」
その声にもう侮りの色はなかった。かわりに、少し怒ったような、心配するような響きがあった。僕はそれをうまく受け止められない。
「……まあいい。無事なら、それでいいよ」ミラは声を落として付け足した。「けどね、これをうちの買取に出すのはもったいない。青石は付与の下地に効くんだ。街外れの鍛冶場に、これを高く買う偏屈じいさんがいる。ドランってんだ。鍛冶のかたわら付与もやる」
付与。
その言葉に僕の耳がわずかに動いた。
鍛冶場の並ぶ一画は、街のどん詰まりにあった。
朝から鞴の音が絶えず響き、焦げた鉄の匂いが低く立ちこめている。その並びのいちばん端、ひときわ煤けた間口の工房がドランの店だった。
中を覗くと、炉の火明かりの中に大男がいた。禿げ上がった頭、丸太のような腕、肘まで走る古い火傷の痕。歳は取っているが、その体つきは否応なくボルツを思い出させた。
……思い出すのはよそう。
僕は青石の袋を差し出し、買い取ってほしいと告げた。
ドランは無言で一粒つまみ上げ、炉の火にかざし、爪で表面を弾いた。低く舌打ちのような音を立てる。それから僕をじろりと見上げた。
「坑道の、主の巣のあたりから採ってきたな。人の手の入ってねえ、深いとこの石だ」
僕は答えなかった。ドランも、それ以上は訊かなかった。
値はミラの言った通り、ギルドの買取の倍近くついた。僕は内心でそっと息を吐いた。石蟲に殺されかけた見返りとしては悪くない。何より、これでまた何冊か書物が閲覧できる。
銅貨を数えてもらう間、僕の目は工房の中をさまよっていた。
壁には打ち上がった剣や斧が掛け並べてある。そのどれもの刃の根元に、細い線で彫り込まれた小さな模様があった。台の上には彫りかけの短剣が一振り。ドランは銅貨を数え終えると、その短剣を引き寄せ、細い鏨を当て、慣れた手つきで刃に模様を刻みはじめた。
僕はその手元から目を離せなくなった。
刃へ刻まれていくのは渦だった。外から内へ巻き込む、小さな渦。そのいくつかを繋ぐ、ごく短い一画――
息が、止まった。
あの形を、僕は知っている。
遺跡の壁にいやというほど繰り返されていた形。僕が体で覚えた二つの言葉、その両方の芯に同じように潜んでいた、あの小さな結び。母の首飾りの螺旋を内側で組み立てていた、あの部品。
それがなぜ、こんな場末の鍛冶場の、一振りの短剣に。
「その模様は」気づけば、僕は口を開いていた。「……それは、何を意味してるんだ」
ドランは手を止めず、鼻を鳴らした。
「意味? 意味なんざ知らねえよ」
拍子抜けするほどあっさりとした答えだった。「こう彫りゃ刃が欠けにくくなる。こっちの巻きを添えりゃ錆が寄りつかねえ。理屈なんざ知らん。俺は師匠がこう彫れと言った通りに彫ってるだけだ。その師匠だって、そのまた師匠から、見たまま手が覚えたまま、受け継いだだけさ」
鏨がまた一画を刻む。乾いた小さな音。
「大昔から、こうなんだ。誰も意味なんざ知りゃしねえ。効くから、彫る。それだけよ」
効くから、彫る。
その言葉が妙に胸の底へ沈んでいった。
「その渦は」僕はもう一歩踏み込んで訊いていた。「ほかの鍛冶屋も、同じ形を彫るのか」
「まあ、そうだな」ドランは手を休めなかった。「手癖はそれぞれ違わあ。俺のは巻きがきついとか、そういう差はある。だが大元の形は、どこもだいたい同じだ。田舎のしがねえ俺も、王都の御大層な付与師も、彫ってるもんの芯は変わらねえよ。誰がいつ決めたわけでもねえ。気づいたら、みんなこれを彫ってた。そういうもんだ」
誰が決めたわけでもない。気づいたら、みんなこれを彫っていた。
僕はその言葉を、胸の奥で二度繰り返した。
僕は刻まれていく模様をもう一度見つめた。
効くから彫る。中で何が起きているかは知らない。
――それは、あの迷宮で見た魔法使いの女と同じことなのかもしれなかった。詠唱ひとつで炎を生むあの人も、たぶん内側で何が動いているかを知らない。ただ「効く」形をなぞって火を出している。この老いた鍛冶師が意味も知らずに渦を彫るのと、根っこは同じなのではないか。
もし、この刃の渦があの遺跡の壁の形と本当に同じものなら。
しかも田舎から王都まで、この国じゅうの付与師が、誰に決められたわけでもなく同じ芯の形を彫り継いでいるのだとしたら。
この世界は、僕が思っていたよりもずっと深く、あの古い形で覆われているのかもしれない。剣に。斧に。人の暮らしのあちこちに。誰にも読まれないまま、けれど確かに「効くもの」として、そこら中へそっと彫り込まれて。まるで遠い昔に一度だけ書かれた言葉が、意味を忘れられたあとも形だけしぶとく生き延びているように。
――決めつけるな。
僕はまた自分を戒めた。
渦の形などありふれている。似ているだけかもしれない。たった今、横から一瞬覗き見ただけだ。確かめたわけじゃない。それに――確かめようがなかった。この街の誰に訊いたところで、返ってくる答えはきっと同じだ。「意味は知らねえ。昔から、こうだ」。
本当にこれが、あの遺跡の言葉と同じものなのか。それを確かめられる場所は、たったひとつ。書物も、学識も、いちばん古い記録も、みな召し上げられて仕舞われた、あの鉄格子の向こうにしかない。
いつもそこへ行き着く。どの糸をたぐっても、結び目は同じ一点で僕を待っている。
ドランがふと鏨を止め、僕を見た。
「妙な坊主だ」しゃがれた声だった。「その模様を、まるで読めるみてえな顔で見てやがる」
僕は目を伏せた。「……読めないよ」
それは半分、嘘だった。もう半分は本当だった。読めない。だが、見覚えはある。その二つの間で、僕はいつも宙ぶらりんだ。読めるようで、読めない。あと少しのようで、まるで届かない。
ドランは、それ以上は詮索しなかった。この街の偏屈な年寄りたちは、どういうわけかみなそうだ。あのギルドマスターも、蔵の記録官も。叩けば埃の出る者には深くは踏み込まない。それが、この街での距離の取り方らしかった。僕にはありがたい流儀だった。
「気に入ったなら、見てけばいい」ドランはまた短剣に向き直った。「どうせ、この彫り方を継ぐ弟子もいねえ。俺が死にゃ、この店の模様もそれで仕舞いだ」
継ぐ者はいない。
意味も知らないまま幾代も彫り継がれてきた形が、この不器用な男の手のところで静かに途切れようとしている。誰もそのことを惜しみもしないのだろう。読めない模様の一つや二つ、この世から消えたところで、街は何ひとつ困らない。
僕はしばらく、その手を見ていた。
「その渦を」気づけば、また口を開いていた。「……写させてくれないか。彫るんじゃない。帳面に形を書き取りたいだけだ」
ドランは片眉を上げた。物好きな、とでも言いたげな目だった。だが、止めはしなかった。「好きにしろ。写したくらいで減るもんじゃねえ」
僕は落書き帳を開き、炭の先で刃の渦を書き取った。遺跡の壁から写した螺旋の、すぐ隣に。二つの形を並べて見比べる。芯にある小さな結びが、確かに重なって見えた。……気がした。
まだ標本が足りない。一つや二つでは、似ているとも、同じとも言い切れない。けれど、こうして集めていけば、いつか。指先が少しだけ熱くなった。
それから礼を言って工房を出た。
誰かと長く同じ場所にいると、その人がいつか欠ける時のことを勝手に考えてしまう。ボルツの、丸太のような腕を。だから僕は長居をしない。惜しむ相手を、もう作らない。
外へ出ると、鞴の音がまだ低く響いていた。
街のあちこちに、あの形は隠れているのだろうか。門の閂の錆止めに。井戸の滑車の軸に。魔法使いの杖の、握りの飾りに。誰にも読まれず、誰にも意味を問われず、ただ「効くから」そこにある、古い言葉のかけらが。
もしそうなら、この世界は一冊の途方もなく分厚い本の上に建っているようなものだ。表紙も、破れた頁も、そこらじゅうに転がっている。剣にも、井戸にも、母の胸の首飾りにも。なのに、それを開いて読める者がどこにもいない。
――僕のほかには。
いや。まだ、読めるとは言えない。僕に読めるのは、たった二つの言葉と、その芯の、あの小さな結びだけだ。分厚い本の、たった一頁の、隅の一文字。
僕は懐の首飾りにそっと触れた。銀の環に絡む細い螺旋。母が遺した、僕にはまだ半分しか読めない一文。集めて、□、閉じる。空いたその真ん中には、きっとこの街のどこにも売っていない言葉が入る。
この街の書庫では、もう足りない。もっと古い、本物の記録のあるところへ。鉄格子の向こうへ。
僕は腰に提げた銅貨の重みを確かめ、鍛冶場の煙の下を独り歩き出した。
問いはまた一つ増えた。答えの出ないまま。それでも――胸の熾火は、前より少しだけ明るく燃えていた。
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