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【第二章完結・第三章開幕】無属性の落ちこぼれ追放令息は、失われた魔法《原初式》を読み解く ~世界の魔法は、最初から間違っていた~  作者: 刈谷るあ
冒険者編

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第35話「初めての迷宮」

 冒険者になって、ひと月あまりが過ぎた。

 岩喰いの巣を潰し、湿地で夜霧草を摘み、畑を荒らす小鬼を追い払う。割に合わない依頼ばかりを僕は独りでこなしてきた。銅貨は少しずつ貯まり、宿の主人が顔を覚えるくらいにはこの街に馴染んでいた。

 けれど、それだけでは足りない。

 銅貨のためではなかった。強くならなければ、あの鉄格子の向こうへは昇れない。母のことも、この手の力のことも、街の魔法使いが本当は何をしているのかという問いも、その答えはみな僕の手の届かない高みにある。

 だから一段、上がることにした。

 掲示板の前で、僕は一枚の依頼票を剥がした。東の丘の古い坑道跡――魔物の間引きと、鉱石の採取。街の者が「迷宮」と呼ぶ場所だった。


 「迷宮に潜るのかい」

 受付のミラが依頼票を受け取りながら眉をひそめた。「あんた、まだ登録してひと月だろ。しかもソロで? やめときな。あそこは浅いとこでも、みんなパーティを組んで入るんだ」

 僕は答えず、判を押してくれとだけ言った。

 ミラは長いため息をついた。それでも、もう止めはしなかった。「奥の広間までは行くんじゃないよ。浅いとこでさっさと済ませて、陽のあるうちに帰りな」

 念を押すその声には、侮りの色がもうなかった。かわりに僕には少しむず痒い、別の色が混じっていた。僕は目を逸らしてギルドを出た。

 その背に、階段の上からしゃがれた声が飛んだ。

 「迷宮か」ギルドマスターだった。相変わらず、僕の何もかもを見透かすような目をしている。「ソロで潜るなら、退き際だけは間違えるな。奥へ行くほど、帰り方を知ってる奴だけが生きて出る」

 僕は足を止めなかった。けれど、その言葉はなぜか耳の奥に残った。ボルツも似たことを言った気がした。森で死ぬ奴の大半は、深追いで死ぬんだ、と。


 東の丘の坑道跡は、街道を半日ほど登った先にあった。

 崩れた坑木の隙間から、生ぬるい風が吐き出されている。中はじっとりと湿り、闇が濃い。松明の灯を頼りに、僕は一歩ずつ下っていった。

 迷宮、と人は呼ぶ。けれど僕の知るあの場所とは、まるで違った。

 東の森の、あの遺跡。苔ひとつ生えず時が止まったように朽ちず、壁のすべてに螺旋が刻まれていた神代の場所。あれは何かを封じるために造られた場所だった。

 ここは違う。ただ古いだけの、人が掘った穴だ。掘り尽くして捨てられ、いつからか魔物が湧くようになっただけ。壁に文字はない。闇と湿りと鉱石の匂いがあるだけだった。

 世界にはこういう「ただ魔物が湧く場所」がいくらでもあるのだという。人はそこへ潜って素材を採り、魔物を狩って糧にする。それが冒険者という生き方の、ありふれた日常だった。

 僕はボルツに教わった目で闇を読む。壁の擦れた跡。ぬかるみに残る小さな爪の痕。獣くさい匂い。――いる。数は多くない。小鬼の類だ。


 しばらく下ると、前方に揺れる灯りが見えた。

 先客がいた。三人ばかりの冒険者が小鬼の群れと切り結んでいる。僕は足を止め、岩陰からその様子を窺った。

 剣を持つ男が前に出て盾で群れを受け止める。その後ろでひとりの女が杖を掲げた。

 女の唇が細かく動く。詠唱だ。

 ――来る。

 僕は息を詰めて、その一瞬を見つめた。あの湿地の夜からずっと確かめたかった瞬間を。

 女の杖の先に、ぼっと炎が生まれた。無から、有が。炎は膨らみ、うねり、小鬼の群れへ真っ赤な奔流となって襲いかかる。数匹が悲鳴を上げる間もなく焼け焦げて崩れ落ちた。

 鮮やかだった。僕には逆立ちしても出せない、本物の火の魔法。

 けれど僕の目は、炎そのものではなく、その手前を追っていた。

 炎が生まれるほんの半瞬前。杖の先の空気が、ぐっと内へ引き絞られるように歪んだ。熱がそこへ吸い寄せられていくように。まるで僕があの谷で、火種のひと粒に『集める』を寄せたときのように。

 気のせいだろうか。一瞬すぎて見間違いかもしれない。

 けれど、もしあれが見間違いでないなら。あの女は詠唱ひとつで、僕が谷で必死にやったこと――熱を集め、燃えるものと結び、炎として放つこと――を、目にも留まらぬ速さでいっぺんにやってのけているのではないか。自分でもその中身を知らないまま。

 ――決めつけるな。

 僕はまた胸のうちで自分を戒めた。たった一度、遠くから見ただけだ。確かめたわけじゃない。それでも、確かめたい糸口はこの目に焼きついた。あの華やかな炎の、蓋の下に。


 戦いが終わり、剣の男がこちらに気づいた。

 「おい、そこの。ひとりか?」男は警戒と気安さの混じった声で言った。「危なっかしいな。よけりゃ途中まで一緒に来るか。この先、数が増えるぞ」

 悪い誘いではなかった。むしろ親切だった。

 「いや」僕は短く答えた。「独りでいい」

 男は肩をすくめ、それ以上は言わなかった。冒険者にはそういう手合いも多いのだろう。三人は僕を追い越し、奥の闇へ消えていった。

 独りでいい。独りが、いい。

 誰かと組めば、その誰かをいつか僕は死なせる。あの灰の村で、僕はそれを骨の髄まで学んだ。


 僕は彼らとは別の、細い横穴へ折れた。人の入った跡の少ない、鉱石の匂いの濃いほうへ。

 浅いところで済ませて帰れ、とミラは言った。わかっている。けれど割のいい鉱石は奥にしかない。それに、ここは村を巻き込まずにこの手の力を試せる数少ない場所だった。誰もいない。誰かを巻き込む心配もない。

 横穴の奥は、天井の高い広い空洞になっていた。

 足を踏み入れた瞬間、僕は背筋を凍らせた。

 静かすぎる。

 小鬼の気配も、鼠の音もない。生き物がみな、この空洞を避けている。ボルツの声が耳の奥で警告した。――静かすぎる場所はいちばん危ない。大物がいる証だ。

 引き返そうとした、その時。

 足もとの地面が、ぬかるみのようにぐにゃりと沈んだ。

 罠ではない。地面そのものが蠢いていた。鉱石と見分けのつかない巨大な塊。それがむくりと鎌首をもたげる。

 石蟲だった。岩喰いの主すら小さく見える、家一軒ほどの芋虫。全身を岩そのものの殻に覆われ、無数の節がぬめりと光っている。鉱脈に潜み、獲物が踏み込むのを待つ主だ。

 殻の隙間の、落ち窪んだ目が僕を捉えた。逃げ道は、たった今下ってきた細い横穴ひとつ。背を向けて走れば、あの巨体に真後ろから呑まれる。退くにしても、まず一撃、動きを止めなければ届かない。


 考える暇はなかった。

 石蟲の巨体がうねりながら突っ込んでくる。僕は横へ跳んだ。半歩、ずれる。ボルツに叩き込まれた「いなし」。まともに受ければ潰される質量を、紙一重で逸らす。空洞の壁が砕けて岩の礫を撒いた。

 剣を抜く。刃に意識を沈め、あの言葉を寄せた。『集める』。斬撃に流れを乗せ、僕は石蟲の脇腹へ渾身の一撃を叩き込んだ。

 ――硬い。

 鈍い手応えだった。刃は殻に弾かれ、白い火花を散らしただけ。岩喰いの主の鱗より、なお硬い。並の斬撃では傷ひとつつかない。

 もう一度。『集める』を乗せてまた一撃。殻がわずかに欠ける。だが、それだけだ。

 三度目で指先が痺れた。魔力が底をつきかけている。たった三度、剣に乗せただけで。効率が悪い。呆れるほどに。

 石蟲が身をよじり、僕を殻ごと押し潰そうとのしかかってくる。僕は転がって逃れた。息が上がっている。魔力はもう、ほとんど残っていない。剣で殻は割れない。魔力も尽きた。

 ――なら、どうする。

 荒い息の下で、僕は石蟲の殻を睨んだ。読め。硬い殻。無数の節。節と節の継ぎ目。そこだけ、ぬめった膜が覗いている。殻は一枚岩じゃない。いくつもの板が継ぎ目で繋ぎ合わされている。

 繋ぎ合わされているなら。

 僕は残りの魔力を根こそぎかき集めた。剣に乗せるのとは、逆の言葉。『ほどく』。

 集めるのではなく、ほどく。継ぎ目を繋ぐその結びを、ほんの少しだけ。硬い鉱石の噛み合った歯を、緩める。

 石蟲の脇腹の、ひとつの継ぎ目。そこへ僕は最後のひと息を、そっと差し込んだ。

 ぱき、と乾いた音がした。継ぎ目の板がわずかに浮く。

 そこだ。

 石蟲が再び突っ込んでくる。僕は避けない。避けずに、半歩だけいなす。巨体が真横をかすめる、その一瞬。浮いた継ぎ目の、ぬめった膜へ、僕はボルツの形見の山刀を全体重を乗せて突き入れた。

 刃が根元まで沈んだ。

 石蟲が声にならない震えを上げてのたうつ。僕は柄にしがみつき、刃を抉る。ぬめった奥の柔らかいものを、確かに断った。

 やがて巨体はずるずると崩れ、鉱石の殻だけを残して動かなくなった。


 僕はその場にへたり込んだ。

 全身が汗と岩の粉にまみれている。魔力は空っぽだ。腕の震えが止まらない。たった一匹の魔物に、僕は持てるものをすべて使い果たしていた。

 剣では割れなかった。魔力だけでも届かなかった。剣と、魔力と、ボルツに教わった目と、そのどれが欠けても、僕は今ごろこの殻の下だった。

 ――上には、上がいる。

 冒険者になって、それを何度思い知らされたことだろう。強くなったつもりで、その先にはいつも、もっと大きなものが待っている。

 退き際を間違えるな、とギルドマスターは言った。今日の僕は、退かずに賭けに勝っただけだ。次も勝てる保証などどこにもない。継ぎ目に気づくのが、あとほんの少し遅ければ、僕はもう息をしていなかった。

 けれど。

 僕は震える手で、崩れた殻のかけらを拾った。継ぎ目を『ほどく』。谷で火をつけたのと同じ言葉の、裏側。剣に乗せるだけじゃない。集めることも、ほどくことも、使いようはまだいくらでもある気がした。

 この手の力は小さい。数回で尽きる。けれど使いようを知るたびに、僕の立てる場所は半歩ずつ広がっていく。

 鉱脈から、僕は依頼ぶんの鉱石を切り出した。石蟲が守っていただけあって、質のいい、青みがかった鉱石だった。

 坑道を出ると、外はもう夕暮れだった。

 街への帰り道、僕の頭からはあの女の杖の先の、引き絞られた空気が離れなかった。熱を集めていた、あの一瞬。

 もし、あれが僕の『集める』と根で同じものなら。あの人たちが当たり前に使う魔法の、そのぜんぶの手前に、僕の知る小さな動きが隠れているのだとしたら。

 僕はいったい、どこまで昇れるのだろう。

 問いは答えの出ないまま、また一つ、胸の熾火に薪をくべた。あの鉄格子の向こうへ。まだ見ぬ、高いところへ。

 僕は鉱石の詰まった袋を背負い直し、夕日の街道を独り、下っていった。

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