第35話「初めての迷宮」
冒険者になって、ひと月あまりが過ぎた。
岩喰いの巣を潰し、湿地で夜霧草を摘み、畑を荒らす小鬼を追い払う。割に合わない依頼ばかりを僕は独りでこなしてきた。銅貨は少しずつ貯まり、宿の主人が顔を覚えるくらいにはこの街に馴染んでいた。
けれど、それだけでは足りない。
銅貨のためではなかった。強くならなければ、あの鉄格子の向こうへは昇れない。母のことも、この手の力のことも、街の魔法使いが本当は何をしているのかという問いも、その答えはみな僕の手の届かない高みにある。
だから一段、上がることにした。
掲示板の前で、僕は一枚の依頼票を剥がした。東の丘の古い坑道跡――魔物の間引きと、鉱石の採取。街の者が「迷宮」と呼ぶ場所だった。
「迷宮に潜るのかい」
受付のミラが依頼票を受け取りながら眉をひそめた。「あんた、まだ登録してひと月だろ。しかもソロで? やめときな。あそこは浅いとこでも、みんなパーティを組んで入るんだ」
僕は答えず、判を押してくれとだけ言った。
ミラは長いため息をついた。それでも、もう止めはしなかった。「奥の広間までは行くんじゃないよ。浅いとこでさっさと済ませて、陽のあるうちに帰りな」
念を押すその声には、侮りの色がもうなかった。かわりに僕には少しむず痒い、別の色が混じっていた。僕は目を逸らしてギルドを出た。
その背に、階段の上からしゃがれた声が飛んだ。
「迷宮か」ギルドマスターだった。相変わらず、僕の何もかもを見透かすような目をしている。「ソロで潜るなら、退き際だけは間違えるな。奥へ行くほど、帰り方を知ってる奴だけが生きて出る」
僕は足を止めなかった。けれど、その言葉はなぜか耳の奥に残った。ボルツも似たことを言った気がした。森で死ぬ奴の大半は、深追いで死ぬんだ、と。
東の丘の坑道跡は、街道を半日ほど登った先にあった。
崩れた坑木の隙間から、生ぬるい風が吐き出されている。中はじっとりと湿り、闇が濃い。松明の灯を頼りに、僕は一歩ずつ下っていった。
迷宮、と人は呼ぶ。けれど僕の知るあの場所とは、まるで違った。
東の森の、あの遺跡。苔ひとつ生えず時が止まったように朽ちず、壁のすべてに螺旋が刻まれていた神代の場所。あれは何かを封じるために造られた場所だった。
ここは違う。ただ古いだけの、人が掘った穴だ。掘り尽くして捨てられ、いつからか魔物が湧くようになっただけ。壁に文字はない。闇と湿りと鉱石の匂いがあるだけだった。
世界にはこういう「ただ魔物が湧く場所」がいくらでもあるのだという。人はそこへ潜って素材を採り、魔物を狩って糧にする。それが冒険者という生き方の、ありふれた日常だった。
僕はボルツに教わった目で闇を読む。壁の擦れた跡。ぬかるみに残る小さな爪の痕。獣くさい匂い。――いる。数は多くない。小鬼の類だ。
しばらく下ると、前方に揺れる灯りが見えた。
先客がいた。三人ばかりの冒険者が小鬼の群れと切り結んでいる。僕は足を止め、岩陰からその様子を窺った。
剣を持つ男が前に出て盾で群れを受け止める。その後ろでひとりの女が杖を掲げた。
女の唇が細かく動く。詠唱だ。
――来る。
僕は息を詰めて、その一瞬を見つめた。あの湿地の夜からずっと確かめたかった瞬間を。
女の杖の先に、ぼっと炎が生まれた。無から、有が。炎は膨らみ、うねり、小鬼の群れへ真っ赤な奔流となって襲いかかる。数匹が悲鳴を上げる間もなく焼け焦げて崩れ落ちた。
鮮やかだった。僕には逆立ちしても出せない、本物の火の魔法。
けれど僕の目は、炎そのものではなく、その手前を追っていた。
炎が生まれるほんの半瞬前。杖の先の空気が、ぐっと内へ引き絞られるように歪んだ。熱がそこへ吸い寄せられていくように。まるで僕があの谷で、火種のひと粒に『集める』を寄せたときのように。
気のせいだろうか。一瞬すぎて見間違いかもしれない。
けれど、もしあれが見間違いでないなら。あの女は詠唱ひとつで、僕が谷で必死にやったこと――熱を集め、燃えるものと結び、炎として放つこと――を、目にも留まらぬ速さでいっぺんにやってのけているのではないか。自分でもその中身を知らないまま。
――決めつけるな。
僕はまた胸のうちで自分を戒めた。たった一度、遠くから見ただけだ。確かめたわけじゃない。それでも、確かめたい糸口はこの目に焼きついた。あの華やかな炎の、蓋の下に。
戦いが終わり、剣の男がこちらに気づいた。
「おい、そこの。ひとりか?」男は警戒と気安さの混じった声で言った。「危なっかしいな。よけりゃ途中まで一緒に来るか。この先、数が増えるぞ」
悪い誘いではなかった。むしろ親切だった。
「いや」僕は短く答えた。「独りでいい」
男は肩をすくめ、それ以上は言わなかった。冒険者にはそういう手合いも多いのだろう。三人は僕を追い越し、奥の闇へ消えていった。
独りでいい。独りが、いい。
誰かと組めば、その誰かをいつか僕は死なせる。あの灰の村で、僕はそれを骨の髄まで学んだ。
僕は彼らとは別の、細い横穴へ折れた。人の入った跡の少ない、鉱石の匂いの濃いほうへ。
浅いところで済ませて帰れ、とミラは言った。わかっている。けれど割のいい鉱石は奥にしかない。それに、ここは村を巻き込まずにこの手の力を試せる数少ない場所だった。誰もいない。誰かを巻き込む心配もない。
横穴の奥は、天井の高い広い空洞になっていた。
足を踏み入れた瞬間、僕は背筋を凍らせた。
静かすぎる。
小鬼の気配も、鼠の音もない。生き物がみな、この空洞を避けている。ボルツの声が耳の奥で警告した。――静かすぎる場所はいちばん危ない。大物がいる証だ。
引き返そうとした、その時。
足もとの地面が、ぬかるみのようにぐにゃりと沈んだ。
罠ではない。地面そのものが蠢いていた。鉱石と見分けのつかない巨大な塊。それがむくりと鎌首をもたげる。
石蟲だった。岩喰いの主すら小さく見える、家一軒ほどの芋虫。全身を岩そのものの殻に覆われ、無数の節がぬめりと光っている。鉱脈に潜み、獲物が踏み込むのを待つ主だ。
殻の隙間の、落ち窪んだ目が僕を捉えた。逃げ道は、たった今下ってきた細い横穴ひとつ。背を向けて走れば、あの巨体に真後ろから呑まれる。退くにしても、まず一撃、動きを止めなければ届かない。
考える暇はなかった。
石蟲の巨体がうねりながら突っ込んでくる。僕は横へ跳んだ。半歩、ずれる。ボルツに叩き込まれた「いなし」。まともに受ければ潰される質量を、紙一重で逸らす。空洞の壁が砕けて岩の礫を撒いた。
剣を抜く。刃に意識を沈め、あの言葉を寄せた。『集める』。斬撃に流れを乗せ、僕は石蟲の脇腹へ渾身の一撃を叩き込んだ。
――硬い。
鈍い手応えだった。刃は殻に弾かれ、白い火花を散らしただけ。岩喰いの主の鱗より、なお硬い。並の斬撃では傷ひとつつかない。
もう一度。『集める』を乗せてまた一撃。殻がわずかに欠ける。だが、それだけだ。
三度目で指先が痺れた。魔力が底をつきかけている。たった三度、剣に乗せただけで。効率が悪い。呆れるほどに。
石蟲が身をよじり、僕を殻ごと押し潰そうとのしかかってくる。僕は転がって逃れた。息が上がっている。魔力はもう、ほとんど残っていない。剣で殻は割れない。魔力も尽きた。
――なら、どうする。
荒い息の下で、僕は石蟲の殻を睨んだ。読め。硬い殻。無数の節。節と節の継ぎ目。そこだけ、ぬめった膜が覗いている。殻は一枚岩じゃない。いくつもの板が継ぎ目で繋ぎ合わされている。
繋ぎ合わされているなら。
僕は残りの魔力を根こそぎかき集めた。剣に乗せるのとは、逆の言葉。『ほどく』。
集めるのではなく、ほどく。継ぎ目を繋ぐその結びを、ほんの少しだけ。硬い鉱石の噛み合った歯を、緩める。
石蟲の脇腹の、ひとつの継ぎ目。そこへ僕は最後のひと息を、そっと差し込んだ。
ぱき、と乾いた音がした。継ぎ目の板がわずかに浮く。
そこだ。
石蟲が再び突っ込んでくる。僕は避けない。避けずに、半歩だけいなす。巨体が真横をかすめる、その一瞬。浮いた継ぎ目の、ぬめった膜へ、僕はボルツの形見の山刀を全体重を乗せて突き入れた。
刃が根元まで沈んだ。
石蟲が声にならない震えを上げてのたうつ。僕は柄にしがみつき、刃を抉る。ぬめった奥の柔らかいものを、確かに断った。
やがて巨体はずるずると崩れ、鉱石の殻だけを残して動かなくなった。
僕はその場にへたり込んだ。
全身が汗と岩の粉にまみれている。魔力は空っぽだ。腕の震えが止まらない。たった一匹の魔物に、僕は持てるものをすべて使い果たしていた。
剣では割れなかった。魔力だけでも届かなかった。剣と、魔力と、ボルツに教わった目と、そのどれが欠けても、僕は今ごろこの殻の下だった。
――上には、上がいる。
冒険者になって、それを何度思い知らされたことだろう。強くなったつもりで、その先にはいつも、もっと大きなものが待っている。
退き際を間違えるな、とギルドマスターは言った。今日の僕は、退かずに賭けに勝っただけだ。次も勝てる保証などどこにもない。継ぎ目に気づくのが、あとほんの少し遅ければ、僕はもう息をしていなかった。
けれど。
僕は震える手で、崩れた殻のかけらを拾った。継ぎ目を『ほどく』。谷で火をつけたのと同じ言葉の、裏側。剣に乗せるだけじゃない。集めることも、ほどくことも、使いようはまだいくらでもある気がした。
この手の力は小さい。数回で尽きる。けれど使いようを知るたびに、僕の立てる場所は半歩ずつ広がっていく。
鉱脈から、僕は依頼ぶんの鉱石を切り出した。石蟲が守っていただけあって、質のいい、青みがかった鉱石だった。
坑道を出ると、外はもう夕暮れだった。
街への帰り道、僕の頭からはあの女の杖の先の、引き絞られた空気が離れなかった。熱を集めていた、あの一瞬。
もし、あれが僕の『集める』と根で同じものなら。あの人たちが当たり前に使う魔法の、そのぜんぶの手前に、僕の知る小さな動きが隠れているのだとしたら。
僕はいったい、どこまで昇れるのだろう。
問いは答えの出ないまま、また一つ、胸の熾火に薪をくべた。あの鉄格子の向こうへ。まだ見ぬ、高いところへ。
僕は鉱石の詰まった袋を背負い直し、夕日の街道を独り、下っていった。
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