第33話「読める者」
主の牙で得た銀貨は、宿代にも、酒にも、消えなかった。
翌朝、僕がまず向かったのは、市場でも武具屋でもない。書物のある場所だった。
ギルドの受付で、ミラに尋ねた。この街で、古い書物がまとまって置いてある場所はどこか、と。彼女は、討伐帰りの新入りがそんなことを訊くとは思わなかったのか、少し目を丸くしてから、川向こうの古い区画を指さした。
「教会の裏手に、昔の学び舎があってね。今は物好きな記録官が、埃をかぶった本の番をしてる。……あんた、字だけじゃなくて、そういうのも読むの?」
僕は答えず、礼だけ言って背を向けた。彼女の声には、もう侮りの色はなかった。ただ、それが僕には、少し眩しかった。
川を渡ると、街の喧騒が、噓のように遠ざかった。
石畳は苔むし、軒の低い家々のあいだに、古い塔のような建物が一つ、沈むように建っていた。剝がれかけた看板に、かろうじて「蔵」の一字が読める。ここだ。
重い扉を押すと、埃と、古い紙の匂いが、どっと押し寄せた。
薄暗い堂の奥まで、背の高い棚が幾重にも連なっている。天井まで届く棚に、羊皮紙の綴りや、革表紙の書物が、隙間なく詰まっていた。高窓から差す一筋の光の中を、細かな埃が、雪のように舞っている。森を出てから見たどんな建物より、それは僕を圧倒した。ここには、僕の知らない言葉が、何千と、眠っている。
ふと、遺跡の心臓を思い出した。壁一面を埋め尽くしていた、あの螺旋の連なり。あれもきっと、こういう場所だったのだ。誰かが、何かを、後の世へ残そうとして、書き刻んだ。ただ、それを読む者が、いなくなっただけで。
一人の一生では、とても読み切れない量だ。もし僕に、あと百年あったとしても足りない。そう思うと、焦りと、奇妙な安堵が、同時に胸を満たした。焦りは、時が足りないこと。安堵は――ここでなら、独りでいても、寂しくないこと。本は、決して、死なない。僕を置いて、いなくなったりしない。
「……客か。珍しい」
棚の陰から、しわがれた声がした。痩せた老人が、燭台を片手に現れる。落ち窪んだ目。指先はインクで黒く汚れている。この蔵の番人――記録官なのだろう。
「見るだけなら、銅貨一枚。写すなら、三枚だ。……もっとも、ここの本を読める者なんぞ、この街にゃ、ほとんどいねえがな」
僕は、牙の銀貨を崩した銅貨を、黙って台に置いた。老人は、片眉を上げただけで、何も言わなかった。
棚のあいだを、僕は一日、歩き回った。
探すものは、決まっていた。東の果ての、古い遺跡のこと。そこに刻まれていた、あの螺旋の言葉のこと。そして――母の一族のこと。
だが、それらしい記述は、なかなか見つからなかった。
新しい書物ほど、東の辺境の話になると、そっけなかった。「魔物の湧く不毛の地」「野蛮な流刑地」。そこにある遺跡についても、ある学者はこう書き捨てていた。「古き無知なる民の、意味なき装飾。学ぶに値せず」。
意味なき装飾。
僕は、その一行を、しばらく睨んでいた。あの螺旋が、意味を持たないはずがない。僕はそれを、この手で、確かに動かした。世界を、締め直した。それを、この街の賢しい学者は、一顧だにせず、無知と切り捨てている。
彼らは、読もうとすらしていない。
別の書物には、こうもあった。現代の魔法は、四つの属性の理によって、すでに完成の域にある、と。それより古い術の痕跡は、未熟で非効率な、淘汰されて然るべき残滓にすぎない、と。誇らしげな、断定の筆致だった。
彼らの物差しは、いつも一つきりだ。今、使えるか。役に立つか。無属性と鑑定された日、僕を「いないもの」として切り捨てた、あの水晶球の理屈と、何も変わらない。測れないものは、無い。読めないものは、無意味。そういうことにして、彼らは安心している。
――だったら、読めていないのは、どっちだ。
喉まで出かかった言葉を、僕は呑み込んだ。今の僕は、無属性の、名もない最下位だ。声高に何を言ったところで、あの学者たちと同じ、独りよがりになるだけだ。それに、僕にもまだ、答えは出ていない。あの遺跡の力が、この街の魔法より正しいのか、ただ違うだけなのか。それを判じるには、僕は、あまりに多くを知らなさすぎた。僕に言えるのは、証明できることだけ。まだ、その時じゃない。
棚のいちばん奥。日の当たらない、湿った一角。
崩れかけた綴りの束に指をかけたとき、僕の息は、止まった。
黴に食われた古い紀行文だった。どこかの物好きが、遠い昔、辺境を旅して書き留めたものらしい。その頁の隅に――見慣れた、螺旋の印が、一つ、描かれていた。
僕は、震える指で、頁を繰った。
たどたどしい、けれど確かな筆致で、こう記されていた。北の海の向こうに、かつて「境を守る民」がいた、と。世界の裂け目に蓋をし、溢れるものを内へ「閉じる」ことを生業とした、古い一族。彼らは、独自の言葉と、印を持っていた――と。
閉じる。
服の下から、僕は首飾りを取り出した。銀の板に刻まれた、螺旋の文様。それを、頁の隅の印の、すぐ横に、そっと並べてみる。
――同じだ。
巡らせるように渦を巻く、その線の運び。細部の癖まで、二つは、同じ手が生んだもののように、響き合っていた。集めて、□、閉じる。まだ読めない、真ん中の一文字。母の一族が、もし、その「閉じる民」だとしたら。
母は、ただの異国人ではなかった。あの遺跡と、この首飾りと、僕の手のこの力と、母は――一本の糸で、繋がっている。
僕は、母の顔を知らない。声も、匂いも、抱かれた記憶さえ、一つも持っていない。物心つく前に死んだ人を、僕はただ、この冷たい銀の重みでしか、知らなかった。屋敷には肖像画の一枚もなく、父も、誰も、その名前すら口にしなかった。
証拠は、何もない。ただの、黴びた旅の噂話だ。それでも僕は、その一行から、目を離せなかった。境を守り、溢れるものを閉じることを生業とした、古い民。もし、それが母なら。僕がこの手でしたことは――封印を締め直し、溢れかけた災いを閉じたことは、血が、そうさせたのかもしれない。
顔も声も知らない僕にとって、その一行は、初めて手に触れた、母の輪郭だった。冷たい銀の板が、手の中で、ほんの少しだけ、温かく感じられた。
どれだけ、そうしていただろう。
ふと、背後に気配を感じて振り返ると、あの記録官が、燭台を掲げて、僕の手元を、じっと覗き込んでいた。
「……坊主。お前さん、今、それを、読んでたのか」
声が、掠れていた。老人の落ち窪んだ目は、僕ではなく、頁の隅の、あの螺旋の印に、釘付けになっていた。
「その印は、ここじゃ誰も読めん。学者連中は、意味のない落書きだと笑う。わしも、ずっと、そう思って番をしてきた。……だが、お前さんの目は、たった今、確かに、それを追っていた。文字を、読む目だった」
僕は、答えあぐねた。読める、と言えば、詮索が始まる。名もない最下位のはずの僕が、なぜ、誰も読めない古い文字を知っているのか。
黙り込んだ僕を、老人は、しばらく見つめていた。それから、ふっと、口元を緩めた。
「言わなくていい。ここには、叩けば埃の出る奴しか来ん」
どこかで、聞いた台詞だった。胸の奥が、また、そっと軋んだ。この老人も、ギルドのあの男も、なぜ、こうして僕の内側を、覗こうとするのだろう。
「わしもな、昔は、学者の端くれだった」問わず語りに、老人は続けた。燭台の炎が、皺だらけの横顔を、赤く縁取っている。「この印には意味がある、失われた言葉だと、そう唱えてな。学会じゅうの笑い者よ。妄言だ、無属性の落書きに一生を捧げる莫迦だと、追い出された。……それきり、こんな蔵の番人だ。誰も読まん本を、後生大事に守ってな」
無属性、という言葉に、僕の指が、わずかに強張った。
この街は、この国は、こうやって、測れないものを、片っ端から隅へ追いやってきたのだ。無属性の子供も。読めない文字も。それを読もうとした、老いた学者も。みんな、同じ棚の、同じ埃の下に、押し込められている。
近づくな、と、いつもの声が言う。関われば、いつか、失う。
けれど、その一方で。ここには、僕の知りたいものが、眠っている。この老人は、その眠りの、鍵を握っている。
「もっと、古い記録は、ないのか」
気づけば、僕は、そう尋ねていた。孤立の誓いを、僕は、自分から、ほんの半歩、踏み越えていた。
老人は、堂の、さらに奥を、顎でしゃくった。鉄の格子で仕切られた、閉ざされた一角があった。
「あるにはある。この蔵で一番古い、封じられた棚だ。だが、あそこの鍵は、わしにも回せん。ああいう本物の古文書は、とっくに国が召し上げちまった。今じゃ、王家の書庫か――王都の、学園にしか、残っちゃいねえ」
王都の、学園。
その言葉は、遠く、高い場所にあった。属性を持つ、選ばれた者たちが集う場所。無属性の、名もない冒険者が、逆立ちしても、届くはずのない場所だ。
「読める目を持って、生まれてきたのに。読むべき本には、手が届かん」老人は、皮肉でもなさそうに、そう言って、肩をすくめた。「この世は、うまくできてねえよ」
蔵を出ると、日はもう、傾いていた。
この街の書庫で、僕が触れられるものは、読み尽くした。母の一族の、細い糸を一本、掴んだ。けれど、その糸を手繰った先は、鉄の格子の向こう――僕には閉ざされた、もっと高い場所へと、続いていた。
石切場の主は、剣が届いた。だが、この扉には、剣は届かない。
上には、上がいる。それは、力だけの話じゃなかった。知恵にも、真実にも、僕なんかには手の届かない、高い高い階段が、いくつも架かっている。
――なら、昇るしかない。
誰にも気取られず、静かに。だが、確実に。あの鉄の格子の向こうへ、いつか手が届くところまで。母の輪郭を、この手の力の正体を、ぜんぶ読み解けるところまで。
冷えた胸の底で、小さな熾火が、一つ、灯った気がした。それが、復讐なのか、渇望なのか、それとも、母への、ただの恋しさなのか。僕には、まだ、わからなかった。
わからないまま、僕は、川向こうの喧騒へ、独り、歩いて戻った。掴んだ糸の端を、きつく、握りしめて。
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