第32話「割に合わない依頼」
冒険者ギルドの朝は、酒場と見分けがつかなかった。
陽が高くなる前から、男たちは酒の匂いをさせて騒いでいる。昨夜の武勇伝と、今日の実入りの話。その熱気の端を縫うように、僕は依頼の貼り出された板の前に立った。
羊皮紙が、隙間なく重なっている。護衛、討伐、採取、荷運び。等級ごとに色の違う紐で綴じられ、いちばん下の——最下位の新入りが受けられる束は、隅に追いやられていた。割の悪い雑用ばかりだ。
僕は、そのなかの一枚に目を留めた。
端が、ささくれている。何度も剥がされ、また貼り直された紙だった。西の石切場跡に湧いた「岩喰い」の駆除。報酬は、最下位にふさわしい、雀の涙。
ただ、隅に小さく、こう書き足されていた。「討伐数未達により返却・三組」。
三組が、匙を投げている。
依頼の文面を、僕はもう一度、丁寧に読んだ。字を読める冒険者は、この街でも多くない。掲示の細かい但し書きなど、たいていの者は受付の口約束で済ませてしまう。だが僕には、それが読めた。被害は畑の際まで広がり、掘り跡は日ごとに深くなっている——そう記されていた。
単なる害獣の湧きなら、三組も匙を投げはしない。数がやたらと多く、しかも減らない。それはたぶん、巣の奥に、卵を産み続ける「主」がいるからだ。低い等級のわりに厄介で、割に合わない。だからみんな、途中で放り出す。
僕には、それでよかった。
厄介なぶん、頭数さえ狩り切れば、一匹ぶんの報奨がまとめて入る。誰も欲しがらない仕事ほど、独りで黙々とこなすのに向いていた。人と組む必要も、ない。
僕はその一枚を剥がして、受付へ持っていった。
「……本気で、これを?」
受付の女が、紙と僕の顔を、見比べた。まだ若い。そばかすの散った、気の強そうな目をしている。ミラ、と同僚に呼ばれていた。
「三組が匙を投げた依頼だよ。しかも、あんた、登録したばっかりの——」台帳の僕の欄を確かめて、彼女はわずかに眉を寄せた。「最下位で、無属性。悪いこと言わないから、もっと楽なのにしときな」
近くのテーブルから、笑い声が上がった。
「よせよせ。無属性の坊やが、石切場の主に挑むんだとよ」
革鎧の、大柄な男たちだった。腰の得物からして、そこそこ場数を踏んだ連中だ。たぶん、匙を投げた三組のうちの、一組。
「やめとけ小僧。あそこの主は、見た目より硬い。俺たちの魔法でも、削り切れなかった」
忠告のかたちをした、嘲りだった。
僕は、答えなかった。ただ、依頼票を台に置いて、ミラを見た。
「これで。手続きを」
ミラは、僕の目を、しばらく見ていた。それから、小さく息をついて、判を押した。
「……死んでも、うちは責任持たないからね」
「わかってる」
死ぬ気は、なかった。誰かに心配される筋合いも、ない。僕はもう、ずっと前から、独りで死なずに生きる術だけで、できている。
西の石切場跡は、街道を半日ほど外れた、荒れ地の窪みにあった。
かつて石を切り出した壁が、崩れかけたまま剥き出しになっている。地面には、無数の掘り跡。僕は膝をつき、そのひとつに指を這わせた。土の湿り。糞の乾き具合。掘り返された穴の、大きさと深さ。ボルツに叩き込まれた、森を読む目が、ひとりでに動く。
読めた。ここには、数十はいる。そして——ひときわ大きな掘り跡が、いちばん奥の岩陰へ続いていた。主の寝床だ。文面の通りだった。
僕は、風下に回り、陽の傾くのを待った。岩喰いは、光を嫌う。穴を出て地表を漁るのは、影が伸びてからだ。焦って踏み込めば、巣穴の中で数に囲まれる。三組が削り切れなかったのは、たぶん、そこを間違えたからだ。
日が傾き、影が石切場を埋めた頃。鈍色の鱗をした、犬ほどの魔物が、穴から這い出してきた。一匹、二匹。地を嗅ぎ、餌を求めて散っていく。
僕は、山刀を抜いた。
一匹目の背後へ、音もなく回り込む。半歩。相手が気づくより早く、首の付け根へ、刃を落とす。手応え。声を上げる間もなく、それは崩れた。二匹目は、こちらを向いた。突っ込んでくる牙を、半歩ずれていなし、返す刃で断つ。受けるな。流せ。逸らして、断つ。ボルツの声が、いまも体の芯で響いている。
一匹、また一匹。派手さはない。ただ、静かに、確実に。返り血に濡れながら、僕は何も感じなかった。森でのあの数年と、何も変わらない。生きるために、狩る。それだけだ。
巣がざわつき、残りが一斉に湧き出してきたのは、二十を数えたあたりだった。
囲まれる。
群れの牙が、四方から迫る。一匹をいなせば、その隙に別の一匹が、肩へ食らいつこうとする。さすがに、剣だけでは捌ききれない。
——なら。
僕は、体の奥の流れへ、意識を沈めた。斬り下ろす刃の先へ、あの言葉を、寄せる。
『集める』。
刃の周りに、目には見えない渦が巻く。ただ振るうだけの一閃が、鈍色の鱗を、まとめて三匹、断ち割った。逸らしたい時は『ほどく』。群れの勢いそのものを、滑らかに散らす。剣と、遺跡の言葉。二つを重ねて、僕は囲みをこじ開けた。
派手な炎も、雷もない。魔力は、数回でもう底をつく。それでも——これが、僕の戦い方だった。
群れを狩り尽くした頃、いちばん奥の岩陰が、ずしりと動いた。
主だ。ひと回りどころではない。ほかの倍はある巨躯。分厚い鱗は、そこらの岩と見分けがつかないほど、硬く盛り上がっている。なるほど、これでは並の魔法では削れない。三組が匙を投げたわけだ。
主が、低く唸り、突っ込んでくる。
地を揺らす突進。まともに受ければ、押し潰される。僕は、ぎりぎりまで引きつけて——半歩、横へ。巨体が、僕のいた場所を抉り、勢い余って石壁に激突した。硬い鱗の下、わずかに柔らかい脇腹が、そこで晒される。
そこへ、渾身の一撃を——だが。
刃は、鱗に浅く弾かれた。
魔力は、さっきの群れで、もう使い果たしていた。『集める』を、刃に寄せられない。
主が、身をよじって振り向く。僕は跳び退り、荒い息を吐いた。あと一絞りの流れも、残っていない。剣だけで、あの鱗を抜けるか。
背に、冷たい汗が伝う。仕留め損なえば、次はこちらが餌になる。魔力の尽きた体で、あの突進を、あと何度いなせるか。数えるまでもなかった。せいぜい、二度か、三度。
考えろ。読め。
脇腹の鱗が、さっきの激突で、一枚、めくれ上がっていた。ほんの、指二本ぶんの隙間。そこしか、ない。
僕は、山刀を握り直した。もう一度、主の突進を誘う。引きつけて、いなして、その巨体が通り過ぎる刹那——めくれた鱗の、その下へ。全体重を乗せて、刃を、突き入れた。
深く、深く。
主が、地を揺らして、倒れ伏した。
僕は、その脇に膝をついたまま、しばらく動けなかった。魔力は空。腕は痺れ、頬には牙の掠り傷。誰も見ていない、荒れ地の窪みで、僕はただ、今日も生き延びた。それだけを、確かめた。
ふと空を見上げると、最初の星が、ひとつ、瞬いていた。森にいた頃と、同じ星だ。人の世界まで降りてきても、僕の頭上だけは、何ひとつ変わっていなかった。
ギルドへ戻ったのは、とっぷり日の暮れた頃だった。
討伐の証しに、僕は袋いっぱいの岩喰いの牙と、最後にあの主から抜いた、ひときわ大きな一本を、受付の台に並べた。
ミラの手が、止まった。
「……主の、牙。あんた、これを、一人で?」
酒場のざわめきが、すっと引いた。さっき僕を嘲笑った革鎧の男たちも、その大きな牙を、まじまじと見ている。彼らが削り切れなかったものを、無属性の新入りが、一日で持ち帰ったのだ。
誰も、もう笑ってはいなかった。侮りの声も、忠告の皮をかぶった嘲りも、その大きな牙の前では、意味をなくしていた。けれど、僕の胸には、何の高ぶりもなかった。見返してやった、という気持ちすら、湧かない。ただ、明日を生きるための銀貨が手に入る。それだけのことだった。
「数も、揃ってる。……主の討伐は、本来ならこの等級の仕事じゃない」ミラは、報酬の銀貨に規定の割増を足しながら、僕の顔をちらと見た。「あんた、何者?」
「ただの、レイだ」
銀貨を受け取り、僕は背を向けた。称賛も、詮索も、要らなかった。この牙一本で、しばらくは宿代と食いぶちに困らない。それで、じゅうぶんだった。
「面白いもん、見せてもらったぜ」
階段の上から、あのしわがれた声が降ってきた。ギルドマスターだ。潰れた片耳を、こちらへ向けている。
「その剣に、何か乗せてたな。属性でも、詠唱でもねえ。ありゃ、何だ?」
その目は、酒場の誰も見抜けなかったものを、確かに見ていた。歴戦の、目だった。
僕は、答えなかった。
「……まあいい。詮索はしねえ約束だ」男は、肩をすくめた。「だが、覚えとけ。その割に合わねえ仕事の選び方も、その半歩の捌きも——独りで野垂れ死にするにゃ、惜しいぜ」
独りで、死ぬには惜しい。
その言葉が、胸の奥の、凍った膜を、また一枚、そっと揺らした。ボルツも、こんなふうに、僕を突き放しながら、見ていた。だめだ、と思う。近づくな。この人も、いつか——僕のそばにいれば、いつか。
「せいぜい、死なねえようにな。レイ」
僕は、何も言わずに、ギルドを出た。
夜の街は、まだ明るかった。酔客の笑い声。物売りの声。窓の灯り。そのどれもが、温かくて、僕には遠かった。
それでも、僕には、行く先があった。
この街のどこかに、大きな書庫があると聞いた。古い書物の集まる場所。母の一族のこと、あの遺跡に刻まれた言葉のこと、この手に届いてしまう力のこと——独りで手繰るための、糸の端。それを探すために、僕は世界の中心へ、降りてきたのだ。
誰かを守るためじゃない。誰かに、守られるためでもない。
ただ、知るために。二度と、同じ間違いをしないために。
ギルドマスターの言葉が、まだ耳の底に残っていた。独りで死ぬには惜しい、か。——余計なお世話だ。惜しいと思ってくれる誰かがいるから、失うのが、怖くなる。だったら、いらない。誰の目にも留まらず、ただ静かに、強くなればいい。この手の中の得体の知れないものの正体を、読めない言葉を、ぜんぶ読み解けるまで。
僕は、灯りのなかを、独り、歩きだした。凍った胸を、抱えたまま。
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