第31話「名を捨てて」
初めて評価5を付けて頂き、感激で今日はお赤飯です^ ^
完結するまで走り抜けるので是非一緒に楽しみましょう!!!
村を捨ててから、五度目の冬が過ぎた。
あの朝、灰の中で誓った通り、僕は誰とも関わらずに生きてきた。人里を避け、地図にも載らない、魔物ばかりが巣くう深い森の奥。そこがこの数年の、僕の棲家だった。人と口をきかない暮らしに、声は錆びついた。それでよかった。誰もいなければ、誰も失わずに済む。
最初の冬は、死ななかったのが不思議なくらいだった。凍えと飢えで、幾度も倒れた。それでも、ボルツに教わった生き延びる術が、そのたびに僕を立たせた。齧れる木の皮。雪の下の水。獣の寝床を避ける勘。あの人は死んでもなお、僕を生かし続けていた。
そして、生きるために、僕は毎日、獣と斬り結んだ。
半歩ずれて、力を流す。逸らして、断つ。ボルツが遺したあの体術は、来る日も来る日も牙の前に身を晒すうちに、考えるより先に体が動く「技」へと変わっていった。刃こぼれだらけだった山刀は幾度も研ぎ直され、いつしか腕の一部のようになじんでいた。背が伸び、腕にも体の芯にも、獣を仕留めるだけの重みがついた。鍬すらまともに振れなかった、あの痩せた子供は、もうどこにもいない。
三年目の夏、僕は初めて、岩のような甲羅を持つ大猪を、一人で仕留めた。以前なら、逃げるしかなかった相手だ。牙を捌き、喉笛へ刃を通したとき、返り血を浴びながら、僕は不思議と、何も感じなかった。ただ、今日も生き延びた。それだけだった。
人を手にかけたわけでもないのに、僕の中から、何かが少しずつ削れていった。喜ぶことも、泣くことも、いつのまにか忘れた。森の獣と変わらない。そう思う夜もあった。
それでも完全に獣になりきれなかったのは、たぶん、あの落書き帳のせいだ。時々、僕はぼろぼろになったそれを開いて、ニナのたどたどしい字を指でなぞった。マルタの粥の匂い。ボルツの掌の重さ。それを思い出せるうちは、まだ、僕は人でいられた。かろうじて。
夜は、変わらず研究の時間だった。
遺跡から写し取ってきた螺旋の束を、焚き火のそばで飽きることなく読み解いた。文字を一つ覚え、また一つ。組み合わせを読み、意味を掴む。何年もかけて、僕の独学の辞書は少しずつ厚くなっていった。
そして、読めた言葉は、いくつか使えるようにもなっていた。
流れを「集める」。斬りかかる刹那、その言葉を刃の先へ寄せると、同じひと振りが、岩の甲羅すら断ち割った。逸らす時に「ほどく」。相手の勢いを、より滑らかに散らせる。剣と、この手の力。二つを重ねて振るうことが、いつしか僕の戦い方になっていた。
初めてそれができたのは、追い詰められた末の、なかば偶然だった。大蛇に巻きつかれ、あと少しで骨を砕かれるという瞬間。死にたくないという以前に、こんなところで死んでも誰も悲しみすらしないのだという乾いた自覚が、僕を妙に冷静にした。逆巻く流れを渾身で刃へ「集め」、鱗の隙間へ突き入れる。手応え。僕は、生きた。地に転がって荒い息を吐きながら思った。ボルツの剣と、遺跡の言葉。ばらばらだった二つが、あの瞬間、確かに一つになったのだと。
けれど、派手な炎も、天を裂く雷もない。世間の魔法使いが見れば、鼻で笑うような、ささやかなものだ。魔力もすぐ尽きる。使えるのは、せいぜい数回。僕の力は、強くなったとはいえ、まだまだ底が知れていた。
それが本物の魔法なのか、世間のものとどう違うのか。相変わらず、比べる相手のいない森では、わからないままだった。ただ、使える。今はそれだけを頼りにした。
時折、ひどく静かな夜に、背筋を撫でるものがあった。
誰かに、見られている。遠い、遠いところから。
最初のうちは、山刀を握って身構えた。けれど、何も来なかった。いつも、気のせいで終わった。あの村の夜、すべての元凶だった巨獣を、僕はこの手で討った。あれきり、底の獣が人里へ押し寄せることも、二度となかった。源は、断ったのだ。だからこれは、ただの疲れか、亡霊みたいな記憶にすぎない。そう自分に言い聞かせて、僕は目を閉じた。
断ったはずのその根が、まだどこかで静かに息をひそめている——そんな考えは、そのときの僕には、露ほども浮かばなかった。
森を出ようと決めたのは、螺旋の壁を、それ以上読み進められなくなったからだ。
持ち帰った写しは、もう隅々まで覚えた。けれど、僕の知らない文字が、まだいくつも残っている。それを解く手がかりは、この森にはない。もっと古い書物。もっと広い世界の知識。母の一族のこと。あの遺跡が、そもそも何だったのか。それらはすべて、人の集まる場所にしか、ないはずだった。
服の下の、母の首飾りを握る。まだ読めない、真ん中の一文字。集めて、何を、閉じるのか。その答えを知るためにも、僕は前へ進むしかなかった。
それに、この森ではもう、腕がなまるばかりだった。ここの獣は、僕の敵ではなくなっていた。
こうして僕は、五年ぶりに、人の世界へ降りた。
街道を辿った先の街は、記憶のどんな場所より大きかった。高い石の壁。ひしめく屋根。噎せ返るような人いきれ。かつて痩せた子供として迷い込んだなら、呑まれていたであろう喧騒の中を、今の僕は静かに歩いた。すれ違う何人かが、腰の山刀と僕の目つきをちらりと見て、そっと道を空ける。それだけの何かを、この五年が僕に刻んでいた。
十一だった僕は、十六になっていた。鏡なんて何年も見ていないから、自分がどんな顔になったのかも知らない。ただ、道行く人の反応だけが、僕がもう、あの頃の泣き虫な子供ではないことを教えてくれた。
冒険者ギルド、と看板の出た建物へ、僕は迷わず入った。糧を得るにも、迷宮に潜って力を確かめるにも、いつか古い文献に近づくにも、まずはこの街で生きる足場がいる。
扉をくぐると、熱気と喧騒が押し寄せた。そのとき、酒場の一角がどっと沸いた。見れば、一人の魔法使いが、掌の上で小さな炎を毬のように躍らせ、仲間を笑わせている。ただの余興だ。けれど僕は、その滑らかな炎から、目を離せなかった。あんなふうに、当たり前に、炎を生む。僕には、逆立ちしてもできない芸当だった。
世界は、広い。森の王でいたつもりの僕など、この街ではきっと、ありふれた石ころの一つにすぎない。上には、いくらでも上がいる。そのことを、僕は入り口で、いきなり思い知らされた。
それでいい、とも思った。強さを誇示したいわけじゃない。目立てば、人が寄る。人が寄れば、いつか失う。最弱の新入りとして、隅で静かに稼ぐ。それが、今の僕の望む生き方だった。この街のどこかに、母の一族へ、あの遺跡へ繋がる糸が、一本でもありはしないか。それを、誰にも気取られず、独りで手繰ればいい。
受付で、登録を、と告げた。
「名前は」
僕は、一瞬、口を閉じた。
レオン・アークライト。その名は、あの灰の村で、みんなと一緒に埋めてきた。無属性と嗤われた伯爵家の子も、村を救えなかった愚か者も、もういない。全部、あの夜に死んだ。
「……レイ」
口をついて出たのは、短い、家名もない、ただの音だった。零れ落ちた何か、みたいな響きだった。
「レイ、ね。属性は」
「無属性だ」
女は、わずかに眉を上げた。けれど、昔みたいにその目が胸に刺さることは、もうなかった。差し出された等級は、当然いちばん下。紙の上では、僕はただの無力な新入りだ。それも、都合がよかった。誰の記憶にも残らず、静かに独りで糧を得られれば、それでいい。
受付を離れようとしたとき、奥の階段の上から、しわがれた声が降ってきた。
「新入りか。おい、そこの」
見上げると、酒場の二階の手すりに、初老の男がもたれていた。潰れた片耳。剥き出しの腕には、古い傷が幾筋も走っている。ひと目で、くぐった修羅場の数が違うと知れた。この男が、このギルドのマスターだと、あとで知った。
男は、僕をしばらく、じっと見ていた。値踏みするでもなく、ただ見透かすように。
「その山刀の差し方と、足の運び。新入りの、それじゃねえな」
僕は、答えなかった。
「まあいい。詮索はしねえよ。ここじゃ、誰もが叩けば埃の出る過去の、一つや二つは抱えてる」男は鼻を鳴らし、背を向けた。「せいぜい、死なねえようにな」
死なねえように。
その言い方が、あの人にあまりに似ていて。胸の奥で、凍っていたはずの何かが、ぐらりと揺れた。
だめだ、と僕は思った。関わるな。この街で、また誰かを近くに置いてはいけない。近づけば、失う。失えば、また、あの灰の朝が繰り返される。
僕は男に背を向けると、逃げるようにギルドを出た。あの声から、少しでも遠くへ。
その夜、僕は街外れの安宿で、久しぶりに屋根の下に横になった。
板張りの天井が、やけによそよそしかった。五年、星以外の天井を知らなかった体は、壁に囲まれた狭さに、かえって落ち着かない。階下からは、酔った冒険者たちの笑い声が絶え間なく響いてくる。誰かと誰かが肩を組み、明日の糧を語り合っている。その温かさから、僕はそっと背を向けた。毛布を頭までかぶり、耳を塞ぐ。近づいてはいけない。あの輪の中に、僕の居場所を作ってはいけない。
目を閉じると、瞼の裏に灰の村が浮かんだ。今も、あの小高い場所で、柵の杭の墓標が風に晒されているのだろうか。僕は、もう誰も呼んでくれない名前を、胸の中でだけ、そっと呼んだ。ボルツ。マルタ。ニナ。──おやすみ。
明日から、レイとして生きていく。
こうして、レイという名の、無属性の冒険者が一人。
この大きな街の片隅に、ひっそりと根を下ろした。
誰も知らない。彼が、かつて世界の底に触れた少年だということも。その胸に、灰になった村をまるごと抱えたまま、生きていることも。そして、たった一つの手がかり——母の首飾りと、読みかけの言葉だけを頼りに、遠い遺跡の真実へ、独り近づこうとしていることも。
僕の、独りきりの物語が静かに、動きはじめた。
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