第30話「東を背に」
朝が昇りきっても、僕は灰の上から動けなかった。
どれだけそうしていたのかわからない。膝を抱えて、ただ、白んでいく空を見ていた。煙は薄れ、風が焼け跡の匂いを運んでは、また運び去っていく。あれほどの夜が嘘だったみたいに、村は静かだった。
やがて鳥が鳴いた。
なんでもない、ただの朝の声だった。世界は、こんなことがあってもなお、当たり前みたいに朝を迎えるのだと、その声が告げていた。僕だけが、昨日の夜に置き去りにされていた。
立ち上がったのは、悲しみが癒えたからじゃない。
やらなければならないことがあったからだ。
僕は、村の隅の物置からまだ焼け残っていた鋤を一本、引きずり出した。
埋めなければ。せめて、それだけは。
鋤を土に突き立てると、たったそれだけで、腕が悲鳴を上げた。ゆうべの戦いで、僕の体はもう芯まで空っぽだった。流れを動かすあの力も、底の底まで使い果たして、指一本にすら宿っていない。それでも、掘った。硬い辺境の土に鋤を突き立て、体重をかけ、少しずつ、少しずつ。
いちばん深く掘った穴に、ボルツを寝かせた。
岩みたいに大きな体は、僕一人では、とても運べなかった。布を巻いた肩を掴んで、少しずつ引きずるしかなかった。何度も手が滑り、そのたびに、僕はこの人の重さを思い知った。生きているあいだ、この重い体でいつも僕の前に立ってくれていたのだ。ここから先は渡さねえと、地面に線を引くみたいに。
土をかける前に、僕は、ボルツの手にあの刃こぼれの山刀を握らせようとして——やめた。
少し考えて、それを自分の腰に差した。
形見だ、なんて綺麗な言葉で言うつもりはなかった。ただ、これから先、僕が生き延びるのにこの重い鉄が要る。ボルツなら、そう言うはずだった。持ってけ、と。飾っておくくらいなら、使い倒せ、と。だから、もらう。あなたが教えてくれた、死なないための一手ごと。
土をかけながら、いろんなことが、胸に蘇っては、消えていった。空腹で森から帰った僕に、無言で押しつけられた、厚い黒パン。腹が減ると頭が回らねえと、握らされた貴重な干し肉。暮れの庭で、何度も何度も転がされた、あの稽古。受けるな、流せ。半歩ずれて、力を逸らせ。あの不器用な声が、まだ、耳の底に残っている。死なねえための、体の使い方。教わったとおりに、僕は、生き延びてしまった。それを教えてくれた、あなた一人を、こうして土の下に置いて。
「……ありがとう」
掠れた声で、それだけ言った。上手な別れの言葉なんて、僕は知らなかった。
村のみんなを、一人ずつ運んだ。
全員を別々の墓になんて、してやれなかった。そんな力はもう、僕には残っていない。崩れた所領館の脇に、大きな穴を一つ掘って、そこにみんなを寄り添わせて眠らせた。冷たくなった手を、組ませてやることしかできなかった。
マルタの、皺だらけの手。何も訊かずに僕の傷を手当てして、粥を炊いてくれた手。死人の腕みたいだと、僕の痩せた腕をつまんで笑った手。
その隣に、ニナを寝かせた。
僕が字を教えた、村の子だ。覚えたての自分の名前を落書き帳に、にいっと笑って書いてみせた。「レオン先生」なんて、こそばゆい呼び方で、いつも僕の後ろをついて回っていた。その子が、もう、笑わない。
土をかける手が、震えた。
溝を掘った男たちも、その脇に並べた。僕の引いた線を信じて、鍬をふるってくれた人たち。字の読めない手紙を抱えて、僕を頼ってくれた年寄りも。ここにいてくれてよかったと、痩せた手で僕の手を握ってくれた人たちだった。その一人ひとりを、僕は良かれと思った図で、逃げ場のない一所へと導いた。守るための線が、そのまま、檻の壁になった。掘れば掘るほど、その事実が土くれと一緒に、胸へ積み重なっていった。
最後に、僕は村を見渡せる小高い場所に、木の板を一枚突き立てた。墓標なんて立派なものじゃない。柵の杭の余りだった。字も彫れなかった。何を彫ればいいのか、わからなかったから。ただ、ここに村があったと、それだけを覚えておくための、しるし。
手を合わせようとして、僕は気づいた。
僕は、祈る言葉を一つも持っていなかった。神さまなんて、この村を守ってはくれなかった。だから僕は、ただ、黙って、その板の前に立っていた。長いこと、ただ、立っていた。
落書き帳を、開いた。
いつもの癖で、記録を取ろうとしたのだ。何が起きたのか。何を間違えたのか。次に、同じことを、繰り返さないために。
けれど、ペンを持つ手が、進まなかった。
ページをめくると、そこにニナの字があった。たどたどしい、覚えたての文字で綴られた、あの子の名前。にいっと笑った、あの顔が、字の上から浮かび上がってくるみたいだった。
破り取ろうとして——やめた。
昔、無属性だと言われたあの日も、僕は、この帳面を燃やせなかった。今も、この一枚を、破れなかった。だから、そのまま、閉じた。ニナの名前ごと、胸に抱えていくことにした。それが、僕にできる、たった一つの弔いだった。
東の森は、静まり返っていた。
あれほど僕を急かしていた底の震えが、嘘みたいに消えている。押し出す力を失った獣たちは、みな暗い森の奥へと帰っていった。締め直したわけでもないのに。倒したからだ、と僕は思った。あの巨獣を。すべての元凶を。だから、底も、静かになった。
なのに——胸の奥の、氷のさらに奥で、ちりちりと消えない違和感があった。
あの巨獣を倒したとき、確かに、赤い眼に見据えられた。お前を覚えた、と告げてきたあの気配。あれと同じ眼だった。だから、あいつが諸悪の根源で、間違いない。間違いない、はずだ。
なのに、なぜ。
なぜ僕は、まだ、見られている気がするんだろう。とっくに倒したはずの、その視線に。
わからなかった。考える気力も、もう、なかった。きっと、疲れているだけだ。そう思うことにした。森の底で何かが目を覚まそうとしていたことも、それをこの手で寝かしつけたことも、その果てに村が滅んだことも——その本当の意味を、僕はまだ、何ひとつ、わかってはいなかった。ただ、遠すぎて、手が届かなかった。
村を出ようと決めたのは、日が高くなった頃だった。
ここには、もう、誰もいない。守るべき人も、帰りを待ってくれる人も、叱ってくれる人も。この村に留まって、墓の番人になって、それで何になるだろう。
僕には読まなきゃいけない言葉があった。
母の首飾りに刻まれた、あの連なり。集めて、まだ読めない一文字を挟んで、閉じる。母の一族は、いったい何者だったのか。この、無属性の手が届いてしまう底の力は、そもそも何なのか。世間の魔法と、どう違うのか。どちらが本物なのか——それは、この辺境の果てでは、決してわからない。
問える師も、比べる相手も、集められた書物も。それらはきっと、もっと広い、世界の中心にある。母が生まれた場所にも、この文字を読める誰かがいるのかもしれない。
だから、行く。
誰かを守るためじゃない。もう、そんな資格は、僕にはない。ただ、知るために。この手の中の、得体の知れないものの正体を、確かめるために。そして、二度と、同じ間違いを、しないために。
同じ間違い。それは、人を守ろうとして、守れずに、死なせることだ。だったら、答えは単純だった。もう、誰も守らない。誰も、そばに置かない。頼らせない。そうすれば、少なくとも僕のせいで死ぬ人は、二度と出ない。冷たい理屈だと、わかっていた。それでも、その冷たさだけが今の僕を、かろうじて立たせていた。
僕は廃館へ戻った。
一年あまり、僕が寝起きし、火を熾し、螺旋を睨み、少しずつ「自分」になっていった場所だ。落ちこぼれと笑われた子供が、ここで初めて、誰かの役に立ち、居場所を得た。その机も、粗末な寝床も、今は、しんと静まり返っている。もう、この扉を叩く者も、粥を運んでくる者も、いない。
僕は、冷えた囲炉裏の縁を指でそっとなぞった。ここで初めて、自分の手で火を熾したときのことを思い出す。あのとき僕は、炎ひとつ出せない無属性でも、観察と工夫だけで、生きていけるかもしれないと、生まれて初めて思えたのだ。その小さな火が、字を読めるという取り柄が、この村の人たちと僕を、細い糸で繋いでくれた。居場所をくれた。もう、その火はどこにも残っていない。
旅の支度は、すぐに済んだ。
母の銀の首飾り。書き溜めた落書き帳の束と、螺旋の写し。ボルツにもらった刃こぼれの鉈。腰には、あの重い山刀。それだけが、僕の持っていくもののすべてだった。荷は、驚くほど軽かった。守るものを失った人間は、こんなにも身軽になるのかと、僕は、他人事みたいに思った。
村のはずれで、僕は一度だけ足を止めた。
振り返ると、東に黒い森が横たわっていた。その奥に、僕のすべてが始まった遺跡が眠っている。青白い言葉の壁も、赤い光の沈む底も、まだ、あそこにある。いつか、戻ってくることになる。そんな予感が、確かにあった。まだ、何も終わってはいないのだと、胸の奥で凍りついた何かがそう告げていた。
それでも、今は。
僕は森に背を向けた。
東を背に、道はまだ見ぬ世界の中心へと細く続いていた。落ちこぼれと笑われて追われた少年が、今度は、自分の足でそこへ歩いていく。誰に見送られることも、なく。
一歩、踏み出す。
灰が、足の裏でかさりと鳴った。
泣くのは、きっと、もっと、ずっと先でいい。今はまだ、涙も出ない。凍りついた胸のまま、僕は歩いた。歩き続けた。振り返らずに。
それでも、この胸に抱えた小さな名前も、あの人が最後にくれた言葉も、教わったすべても——消えはしない。消させは、しない。
この灰の上から——僕の、本当の物語が、始まる。
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