↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【第二章完結・第三章開幕】無属性の落ちこぼれ追放令息は、失われた魔法《原初式》を読み解く ~世界の魔法は、最初から間違っていた~  作者: 刈谷るあ
村編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/120

第29話「消えた灯」

 重すぎる山刀の切っ先が、震えて、定まらない。

 倒れたボルツを背に庇い、僕は、闇に揺れる巨獣と、向き合っていた。

 腕が、鉛みたいに重い。さっき流れを使い切った体は、もう、ほとんど空っぽだった。立っているのが、やっとだ。それでも、足を引くわけには、いかなかった。一歩でも退けば、背中のボルツが、踏み潰される。

 怖くて、たまらなかった。歯の根が、合わない。逃げ出したいと、体じゅうが、悲鳴をあげている。それでも、ここで退いたら、僕は、一生、自分を許せない。それだけは、はっきりと、わかっていた。

 片眼を潰され、喉から黒い血を流し続ける化け物は、それでも、ゆっくりと、こちらへ向き直る。残った片方の赤い眼が、僕を捉えた。煮えたぎるような、濁った赤。逃げ場なんて、どこにもなかった。

 「……に、げ、ろ」

 背中で、掠れた声がした。

 ボルツだ。

 「刀を……捨てろ。お前の……勝てる相手じゃ、ねえ」

 声は、もう、ほとんど、息だけだった。それでも、最後まで、僕を逃がそうとしている。

 「いやだ」気づけば、そう答えていた。喉が、引きつる。「いやだ。あんたを置いて、逃げられない」

 「ばかもんが……」血の混じった、苦い笑い。「教えた、だろうが。死なねえ術を。……お前は、生きろ。それが——」

 言葉が、途切れた。

 巨獣が、動いた。


 残った力を振り絞るように、巨体が、僕めがけて、突っ込んでくる。

 けれど——遅い。

 片眼を失い、致命傷に蝕まれたその突進は、柵の夜に見た、あの疾さじゃなかった。重く、鈍く、ふらついている。死にかけの、最後のあがき。

 見える。読める。

 僕は、空っぽに近い体の奥から、最後の一絞りまで、流れを、掻き集めた。たったそれだけのことで、視界が、ぐにゃりと歪み、白く飛びかける。頭の芯が、ちぎれそうに痛い。それでも、止めなかった。足もとの灰へ、拳ひとつ分の渦を、滑り込ませる。巨獣の前肢が、踏み込む、その一点へ。

 わずかに、土が、流れた。

 巨獣の足が、ほんの少し、滑る。

 その隙に——僕は、半歩、横へ、ずれた。

 受けるな。流せ。ボルツが、何百回も、僕を地面に転がして、覚えさせた、あの半歩。十回に、二度しかできなかった、あの半歩が——今、この一度に、間に合った。

 巨大な顎が、僕のいた場所を、空しく噛んだ。すぐ脇を、灼けた毛皮の壁が、熱い風とともに、通り過ぎていく。そして、目の前に——どす黒い血を噴く、あの喉の傷が、来た。ボルツが、命がけで、こじ開けた傷が。

 ここしか、ない。

 「うあ、ああッ!」

 僕は、重すぎる山刀を、両手で——既にぱっくりと裂けた、その傷口の奥へ、ありったけの体重を乗せて、突き入れた。

 刃が、ぬぷり、と深く沈む。手応えが、肘まで、伝わってくる。生々しい、命の、手応えだった。

 巨獣が、声にならない声を上げて、のけぞった。最後に残っていた命の糸が、その一突きで、断たれる。

 崩れる。

 家ほどもある巨体が、地響きを立てて、横倒しに、崩れ落ちた。舞い上がる土埃と、灰。

 倒した。

 空っぽになった体で、僕は、その場に、膝をついた。指一本、まともに動かせない。喉が、ひゅうひゅう鳴っている。それでも——倒した。あの化け物を、確かに、僕は。

 けれど、勝ったという喜びなんて、ひとかけらも、湧いてこなかった。ただ、早くボルツのところへ戻らなきゃと、頭にあるのは、それだけだった。


 「ボルツ!」

 這うように、僕は、ボルツのもとへ戻った。

 大きな体が、灰の上に、横たわっている。その下に広がっていた黒い染みは、もう、広がるのを、やめていた。それが何を意味するのか、考えたくなかった。

 「ボルツ、倒したよ。あいつを、倒した。あんたが、作ってくれた傷に、刀を、刺したんだ。だから——だから、もう」

 薄く開いた目が、ゆっくりと、僕を捉えた。それから、崩れ落ちた巨獣の方へ、わずかに動いて——また、僕へ戻ってくる。そして、ほんの少しだけ、口の端が、持ち上がった。笑った、のだと、思う。

 「……上等、だ」

 掠れた、けれど、確かな声だった。

 「お前は……もう、独りでも……生きて、いける」

 ごつごつとした、大きな手が、最後の力を振り絞って、僕の頭へ、伸びかけて。

 その指先が、僕の髪に、触れるか触れないか——というところで。

 ぱたりと、力なく、落ちた。

 「ボルツ……?」

 返事は、なかった。

 「ねえ、ボルツ」

 揺すった。いつも、岩のように、何にも動じなかった胸は、もう、上下していなかった。鉈を研いでくれた手も、厚いパンを押しつけてくれた手も、だらりと、灰の上に投げ出されている。

 初めて会った日、「働かん者は食えん」と僕を突き放したくせに、誰よりも先に、僕の頭の値打ちを認めてくれた人だった。嘘をついて遺跡へ消えた、あの朝も。怒鳴りながら、それでも結局は、柵の前で、ひと晩じゅう、待っていてくれた人だった。

 「起きてよ。来年、畑に、水路を引くって……約束、したじゃないか。黙って消えるなって、いつも、言ってたじゃないか。なのに、あんたが、勝手に、いなくなるのかよ」

 揺すっても、呼んでも、その人は、もう、二度と、ぶっきらぼうに、僕の頭を撫でては、くれなかった。


 どれくらい、そうしていたのか。

 ふと、気づいた。

 あれほど夜じゅうを満たしていた、獣の咆哮が——いつのまにか、引いていく。

 顔を上げると、灰色の群れが、潮が引くように、燃える村から、森の闇へと、退いていくところだった。あの巨獣が倒れたのを、境にして。まるで、糸の切れた操り人形みたいに。

 終わった、んだ。

 倒した。源を、断った。だから、獣も、退いていく。あいつが、すべての元凶だったんだ。間違いない。

 なら——みんなは。

 所領館の、あの石の壁の中なら。

 僕は、抜けた腰を無理やり立たせ、よろめきながら、館への道を、駆けた。間に合ってくれ。あの厚い壁の中で、みんな、息を潜めて、震えているだけだ。ボルツが、命をかけて、稼いだ時間がある。逃げ切れたに、決まってる。そうに、決まってるんだ。

 祈るように、その言葉を、胸の中で、何度も、繰り返した。お願いだ。今度こそ——今度こそ、間に合ってくれ。

 近づくにつれ、足が、鈍っていく。

 静かすぎた。

 あれだけの人が、逃げ込んだはずなのに。泣き声も、祈りの声も、子供のぐずる声も、何ひとつ、聞こえてこない。聞こえるのは、遠い炎の、爆ぜる音だけ。

 所領館の、頑丈なはずの門が。

 内側へ、ひしゃげて、こじ開けられていた。石の壁の一画が、巨大な力で、押し崩されている。その崩れ目から、点々と——黒い染みが、館の奥へと、続いていた。

 僕は、足を、止めた。

 その先を、見たくない。見てしまったら、もう、戻れない。頭のどこかが、そう、警鐘を鳴らしていた。それでも、僕の足は、震えながら、一歩、また一歩と、門の内へ、入っていった。

 誰も、立っていなかった。

 僕が「ここなら安全だ」と図を引いて、自分の手で、送り込んだ、その場所で。マルタも。手紙の年寄りも。溝を掘った男たちも、その女房も、子供も。みんな、倒れて、動かなかった。獣は、石の壁を破ってなだれ込み——逃げ場のない、その一所に、固まっていた人たちを。

 僕が、ここへ、集めたんだ。

 「ここなら守れる」と。あの二重の溝も、館へ逃げろという指図も、ぜんぶ、良かれと思って、僕が考えたことだった。その僕の図が、みんなを、逃げ場のない一つの檻へ、追い込んだ。

 「マルタさん……」掠れた声で、僕は、呼んだ。「誰か。誰か、いないの。返事を、してよ」

 灰と、煙と、静寂だけが、僕の声を、呑み込んだ。誰一人、答えなかった。

 崩れた壁の、すぐそば。

 小さな手が、灰の上に、力なく投げ出されていた。

 昨日——いや、もう、一昨日になるのか。僕の落書き帳に、覚えたての自分の名前を、にいっと笑って書いてみせた、あの、小さな手だった。

 「……ニナ」

 声が、出なかった。膝が、抜けた。

 僕は、その場に、灰の上に、崩れ落ちた。


 半鐘は、もう、鳴っていなかった。打つ人が、いなくなったのだ。

 空が、東の端から、ゆっくりと、白んでいく。

 長い、長い夜が、明けようと、していた。

 救ったはずだった。あの夜、遺跡の底で、魔力を底まで使い果たして、命を削って、緩んだ封印を、締め直して。これで村は守れたと、英雄になった気で、いた。

 なのに——あれは、ただ、この夜まで、すべてを、先延ばしにしただけだった。止血。そう、自分でも、わかっていたはずだったのに。

 僕は、字を教えた。溝の引き方を、教えた。ここへ逃げろと、教えた。

 僕を頼った人たちが。僕の言葉を、信じてくれた人たちが。一人残らず、死んでいた。

 そして、生き残ったのは——剣も振れない、ろくに力もない、僕、一人、だけだった。

 ボルツは、僕に、死なない術を教えてくれた。生き延びろと、最後まで、そう言ってくれた。その通りに、僕は、生き延びてしまった。たった一人、誰も守れないまま——教えてくれた、その人すら、守れないまま。

 倒れたボルツの、大きな背中を。冷たくなった、ニナの小さな手を。誰一人いなくなった、灰色の村を。白みはじめた空が、何ひとつ見逃すまいとするように、容赦なく、照らし出していく。

 涙さえ、出てこなかった。

 ただ、ぽっかりと空いた胸の真ん中で、何かが、音もなく、静かに、凍りついていくのを、感じていた。熱いものが、すべて、そこから、抜け落ちていく。

 怖い、と思った。悲しい、よりも先に。誰かを好きになるのが。誰かと、温かい火を、囲むのが。だって——そうやって僕が手を伸ばすたびに、僕に関わった人から、順番に、消えていくんだから。

 ——もう、二度と。

 誰も、僕のそばに、置かない。誰にも、僕を、頼らせない。

 そうすれば、もう、誰も。僕のせいで、死なずにすむ。

 昇りはじめた朝日の下、灰の降る村で、たった独り。

 僕は、そう、誓った。



面白いと思っていただけたら、ブックマークや★★★★★評価・感想をいただけると、今後の執筆の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。