第29話「消えた灯」
重すぎる山刀の切っ先が、震えて、定まらない。
倒れたボルツを背に庇い、僕は、闇に揺れる巨獣と、向き合っていた。
腕が、鉛みたいに重い。さっき流れを使い切った体は、もう、ほとんど空っぽだった。立っているのが、やっとだ。それでも、足を引くわけには、いかなかった。一歩でも退けば、背中のボルツが、踏み潰される。
怖くて、たまらなかった。歯の根が、合わない。逃げ出したいと、体じゅうが、悲鳴をあげている。それでも、ここで退いたら、僕は、一生、自分を許せない。それだけは、はっきりと、わかっていた。
片眼を潰され、喉から黒い血を流し続ける化け物は、それでも、ゆっくりと、こちらへ向き直る。残った片方の赤い眼が、僕を捉えた。煮えたぎるような、濁った赤。逃げ場なんて、どこにもなかった。
「……に、げ、ろ」
背中で、掠れた声がした。
ボルツだ。
「刀を……捨てろ。お前の……勝てる相手じゃ、ねえ」
声は、もう、ほとんど、息だけだった。それでも、最後まで、僕を逃がそうとしている。
「いやだ」気づけば、そう答えていた。喉が、引きつる。「いやだ。あんたを置いて、逃げられない」
「ばかもんが……」血の混じった、苦い笑い。「教えた、だろうが。死なねえ術を。……お前は、生きろ。それが——」
言葉が、途切れた。
巨獣が、動いた。
残った力を振り絞るように、巨体が、僕めがけて、突っ込んでくる。
けれど——遅い。
片眼を失い、致命傷に蝕まれたその突進は、柵の夜に見た、あの疾さじゃなかった。重く、鈍く、ふらついている。死にかけの、最後のあがき。
見える。読める。
僕は、空っぽに近い体の奥から、最後の一絞りまで、流れを、掻き集めた。たったそれだけのことで、視界が、ぐにゃりと歪み、白く飛びかける。頭の芯が、ちぎれそうに痛い。それでも、止めなかった。足もとの灰へ、拳ひとつ分の渦を、滑り込ませる。巨獣の前肢が、踏み込む、その一点へ。
わずかに、土が、流れた。
巨獣の足が、ほんの少し、滑る。
その隙に——僕は、半歩、横へ、ずれた。
受けるな。流せ。ボルツが、何百回も、僕を地面に転がして、覚えさせた、あの半歩。十回に、二度しかできなかった、あの半歩が——今、この一度に、間に合った。
巨大な顎が、僕のいた場所を、空しく噛んだ。すぐ脇を、灼けた毛皮の壁が、熱い風とともに、通り過ぎていく。そして、目の前に——どす黒い血を噴く、あの喉の傷が、来た。ボルツが、命がけで、こじ開けた傷が。
ここしか、ない。
「うあ、ああッ!」
僕は、重すぎる山刀を、両手で——既にぱっくりと裂けた、その傷口の奥へ、ありったけの体重を乗せて、突き入れた。
刃が、ぬぷり、と深く沈む。手応えが、肘まで、伝わってくる。生々しい、命の、手応えだった。
巨獣が、声にならない声を上げて、のけぞった。最後に残っていた命の糸が、その一突きで、断たれる。
崩れる。
家ほどもある巨体が、地響きを立てて、横倒しに、崩れ落ちた。舞い上がる土埃と、灰。
倒した。
空っぽになった体で、僕は、その場に、膝をついた。指一本、まともに動かせない。喉が、ひゅうひゅう鳴っている。それでも——倒した。あの化け物を、確かに、僕は。
けれど、勝ったという喜びなんて、ひとかけらも、湧いてこなかった。ただ、早くボルツのところへ戻らなきゃと、頭にあるのは、それだけだった。
「ボルツ!」
這うように、僕は、ボルツのもとへ戻った。
大きな体が、灰の上に、横たわっている。その下に広がっていた黒い染みは、もう、広がるのを、やめていた。それが何を意味するのか、考えたくなかった。
「ボルツ、倒したよ。あいつを、倒した。あんたが、作ってくれた傷に、刀を、刺したんだ。だから——だから、もう」
薄く開いた目が、ゆっくりと、僕を捉えた。それから、崩れ落ちた巨獣の方へ、わずかに動いて——また、僕へ戻ってくる。そして、ほんの少しだけ、口の端が、持ち上がった。笑った、のだと、思う。
「……上等、だ」
掠れた、けれど、確かな声だった。
「お前は……もう、独りでも……生きて、いける」
ごつごつとした、大きな手が、最後の力を振り絞って、僕の頭へ、伸びかけて。
その指先が、僕の髪に、触れるか触れないか——というところで。
ぱたりと、力なく、落ちた。
「ボルツ……?」
返事は、なかった。
「ねえ、ボルツ」
揺すった。いつも、岩のように、何にも動じなかった胸は、もう、上下していなかった。鉈を研いでくれた手も、厚いパンを押しつけてくれた手も、だらりと、灰の上に投げ出されている。
初めて会った日、「働かん者は食えん」と僕を突き放したくせに、誰よりも先に、僕の頭の値打ちを認めてくれた人だった。嘘をついて遺跡へ消えた、あの朝も。怒鳴りながら、それでも結局は、柵の前で、ひと晩じゅう、待っていてくれた人だった。
「起きてよ。来年、畑に、水路を引くって……約束、したじゃないか。黙って消えるなって、いつも、言ってたじゃないか。なのに、あんたが、勝手に、いなくなるのかよ」
揺すっても、呼んでも、その人は、もう、二度と、ぶっきらぼうに、僕の頭を撫でては、くれなかった。
どれくらい、そうしていたのか。
ふと、気づいた。
あれほど夜じゅうを満たしていた、獣の咆哮が——いつのまにか、引いていく。
顔を上げると、灰色の群れが、潮が引くように、燃える村から、森の闇へと、退いていくところだった。あの巨獣が倒れたのを、境にして。まるで、糸の切れた操り人形みたいに。
終わった、んだ。
倒した。源を、断った。だから、獣も、退いていく。あいつが、すべての元凶だったんだ。間違いない。
なら——みんなは。
所領館の、あの石の壁の中なら。
僕は、抜けた腰を無理やり立たせ、よろめきながら、館への道を、駆けた。間に合ってくれ。あの厚い壁の中で、みんな、息を潜めて、震えているだけだ。ボルツが、命をかけて、稼いだ時間がある。逃げ切れたに、決まってる。そうに、決まってるんだ。
祈るように、その言葉を、胸の中で、何度も、繰り返した。お願いだ。今度こそ——今度こそ、間に合ってくれ。
近づくにつれ、足が、鈍っていく。
静かすぎた。
あれだけの人が、逃げ込んだはずなのに。泣き声も、祈りの声も、子供のぐずる声も、何ひとつ、聞こえてこない。聞こえるのは、遠い炎の、爆ぜる音だけ。
所領館の、頑丈なはずの門が。
内側へ、ひしゃげて、こじ開けられていた。石の壁の一画が、巨大な力で、押し崩されている。その崩れ目から、点々と——黒い染みが、館の奥へと、続いていた。
僕は、足を、止めた。
その先を、見たくない。見てしまったら、もう、戻れない。頭のどこかが、そう、警鐘を鳴らしていた。それでも、僕の足は、震えながら、一歩、また一歩と、門の内へ、入っていった。
誰も、立っていなかった。
僕が「ここなら安全だ」と図を引いて、自分の手で、送り込んだ、その場所で。マルタも。手紙の年寄りも。溝を掘った男たちも、その女房も、子供も。みんな、倒れて、動かなかった。獣は、石の壁を破ってなだれ込み——逃げ場のない、その一所に、固まっていた人たちを。
僕が、ここへ、集めたんだ。
「ここなら守れる」と。あの二重の溝も、館へ逃げろという指図も、ぜんぶ、良かれと思って、僕が考えたことだった。その僕の図が、みんなを、逃げ場のない一つの檻へ、追い込んだ。
「マルタさん……」掠れた声で、僕は、呼んだ。「誰か。誰か、いないの。返事を、してよ」
灰と、煙と、静寂だけが、僕の声を、呑み込んだ。誰一人、答えなかった。
崩れた壁の、すぐそば。
小さな手が、灰の上に、力なく投げ出されていた。
昨日——いや、もう、一昨日になるのか。僕の落書き帳に、覚えたての自分の名前を、にいっと笑って書いてみせた、あの、小さな手だった。
「……ニナ」
声が、出なかった。膝が、抜けた。
僕は、その場に、灰の上に、崩れ落ちた。
半鐘は、もう、鳴っていなかった。打つ人が、いなくなったのだ。
空が、東の端から、ゆっくりと、白んでいく。
長い、長い夜が、明けようと、していた。
救ったはずだった。あの夜、遺跡の底で、魔力を底まで使い果たして、命を削って、緩んだ封印を、締め直して。これで村は守れたと、英雄になった気で、いた。
なのに——あれは、ただ、この夜まで、すべてを、先延ばしにしただけだった。止血。そう、自分でも、わかっていたはずだったのに。
僕は、字を教えた。溝の引き方を、教えた。ここへ逃げろと、教えた。
僕を頼った人たちが。僕の言葉を、信じてくれた人たちが。一人残らず、死んでいた。
そして、生き残ったのは——剣も振れない、ろくに力もない、僕、一人、だけだった。
ボルツは、僕に、死なない術を教えてくれた。生き延びろと、最後まで、そう言ってくれた。その通りに、僕は、生き延びてしまった。たった一人、誰も守れないまま——教えてくれた、その人すら、守れないまま。
倒れたボルツの、大きな背中を。冷たくなった、ニナの小さな手を。誰一人いなくなった、灰色の村を。白みはじめた空が、何ひとつ見逃すまいとするように、容赦なく、照らし出していく。
涙さえ、出てこなかった。
ただ、ぽっかりと空いた胸の真ん中で、何かが、音もなく、静かに、凍りついていくのを、感じていた。熱いものが、すべて、そこから、抜け落ちていく。
怖い、と思った。悲しい、よりも先に。誰かを好きになるのが。誰かと、温かい火を、囲むのが。だって——そうやって僕が手を伸ばすたびに、僕に関わった人から、順番に、消えていくんだから。
——もう、二度と。
誰も、僕のそばに、置かない。誰にも、僕を、頼らせない。
そうすれば、もう、誰も。僕のせいで、死なずにすむ。
昇りはじめた朝日の下、灰の降る村で、たった独り。
僕は、そう、誓った。
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