第28話「前に出る者」
梯子を、半ば落ちるように駆け下りた。
地面に足が着いた瞬間、熱と煙が、いっぺんに襲いかかってきた。あちこちで柵が燃え、小屋が燃え、逃げ惑う人影が、炎に黒く切り抜かれている。怒号と、悲鳴と、獣の咆哮。村が壊れていく音だった。
僕が引いた、あの二重の溝は、もう跡形もなかった。獣の死骸と燃えさしに埋もれ、後から来た群れが、その上を平気で越えていく。二段の火も、押し寄せる数に、少しずつ踏み消されていく。半月かけて村じゅうで掘った備えが、ひと晩で呑まれていこうとしていた。
半鐘が、まだ鳴っている。誰かが最後まで、櫓の上で打ち続けているのだ。その音だけが、まだ村は死んでいないと、言い張っているようだった。
その只中へ、巨獣が踏み込んでいた。
家ほどもある灰色の塊が、村の正面で、ボルツへとまっすぐ突き進む。地を蹴るたび、足の下で土がめくれ、踏み砕かれた柵の杭が、木っ端のように跳ねた。
間に合わない。
そう思った、刹那。
ボルツは、逃げなかった。
迫る巨体に、正面から——しかし、ぶつかりはしなかった。突進が届くその寸前、彼の体が、ふっと横へ滑った。半歩。たった、半歩。
僕の息が、止まった。
あれだ。
ボルツが何度も僕に転がして覚えさせた、あれだ。受けるな、流せ。半歩ずれて、力をいなす。僕が十回に二度しかできない、あの半歩を——ボルツは、家ほどの巨獣を相手に、やってのけた。
巨獣の突進が、空を切る。たたらを踏んだその巨体の脇腹へ、ボルツの山刀が、吸い込まれるように奔った。
刃が、肉を裂く——はずだった。
鈍い音。火花。
硬い。岩のような瘤に覆われた毛皮は、ボルツの渾身の一撃を、浅く弾いた。血の一筋すら、流れない。
「……っ、化けもんが」
ボルツが、低く吐き捨てた。返り血と、自分の血に塗れた顔。さっきまでの群れとの戦いで、その体はもう、満身創痍だった。
「魔物は、嫌というほど見てきた」彼は山刀を構え直しながら、巨獣を見据えた。「だが、こんなのは……初めてだ」
長く辺境で生き抜いてきた男が、初めてだと言った。その一言の重さが、僕の足をすくませた。
それでも、ボルツは退かなかった。
巨獣の薙ぎ払う前肢を半歩で外し、振り下ろされる頭を転がって避ける。当てては弾かれ、いなしては、また距離を取る。決して正面で受け止めない。その巨大な力を、ことごとく受け流していく。
一度、逃げ遅れた男が、巨獣の足もとで転んだ。ひしゃげるように振り下ろされる前肢。その間に、ボルツが体ごと割り込み、男の襟首を掴んで、後ろへ放り投げた。代わりに、彼の肩を、岩のような爪が、深く抉った。
血が、噴いた。それでも、ボルツは膝を折らなかった。
「逃げろッ! 館へ! 早くしろ!」
戦いながら、ボルツは吼えた。彼が巨獣を引きつけている、その隙に、女や年寄りが、転がるように所領館へ駆けていく。
わかった。ボルツは、勝とうとしているんじゃない。倒せないと、わかっている。ただ、一人でも多くを逃がすために、自分の体を囮にしているんだ。傷だらけの体を、村と化け物のあいだに、置き続けている。
その動きが、さっきより、重い。いなしの半歩が、少しずつ、遅れはじめている。当然だ。あれだけ傷を負って、あの巨体を、たった一人で、もう、どれだけ受け続けている。
ついさっき、あの囲炉裏で「来年は畑に水路を引く」と笑っていた人だ。「人の顔になったな」と、ぶっきらぼうに僕の頭を撫でた人だ。その人が今、血を流しながら、たった一人で、化け物の前に立っている。
でも、それでは、ボルツが——。
僕は、見ていた。ただ見ることしか、できなかった。山刀も振れない。あの巨体に近づけば、ひと薙ぎで終わりだ。僕の図は、ここまでだった。二重の溝も、二段の火も、あんな化け物は、勘定に入っていなかった。
無力だ。どうしようもなく。
けれど、ただ立ち尽くして、また誰かが死ぬのを見ているなんて、もう、嫌だった。今夜、僕はもう一人、目の前で死なせている。これ以上は、いやだ。
——僕の目は、見ることだけはできる。屋敷で笑われた目。森で、ボルツが「いい」と言った、目。
だったら、見ろ。読め。あいつの、弱いところを。
これが、僕にできる唯一のことだ。剣は振れない。力もない。けれど、見ることだけなら——観察して、弱点を見抜くことだけなら、誰よりも、僕にやれる。屋敷でさんざん役立たずと笑われた、この目で。森で、ボルツが「いい」と認めてくれた、この目で。
瘤も、毛皮も、刃を通さない。山刀が浅くでも食い込んだのは、ただ一箇所——あの、濁った、赤い双眸。眼だ。あの巨体で、唯一、柔らかいところ。
けれど、ボルツの刃は、そこへ届かない。高すぎる。速すぎる。眼を狙って踏み込めば、その一瞬に、あの前肢が、彼を叩き潰す。
眼を、塞げれば。
ほんの一瞬でいい。あいつが、ボルツを見失えば。その隙を、あの人なら、きっと、捉える。
燃える、外の溝。
立ち上る炎が夜気を焦がし、熱い風の柱を、天へと巻き上げている。火の粉がその流れに乗って、明るい川のように、夜空へ昇っていく。
——流れ。
僕の、知っている流れだ。
考えるより先に、僕は地に膝をつき、その熱い上昇気流へ、意識を沈めた。けれど、震える手は、最初、するりと流れを取り逃した。心が、乱れている。恐怖と、焦りで。掴もうとするほど、逃げていく。森でも、稽古でも、いつもそうだった。
落ち着け。力むな。感じろ。
息を、ひとつ。
逆らわない。生み出そうともしない。ただ、もとからそこにある流れに寄り添って、導く。拳ひとつ分の渦を、火の粉の川の根もとへ。その向きを、ほんの少しだけ——巨獣の、顔のほうへ。
体の奥の"何か"が、音を立てて引き絞られていく。みるみる、視界の端が、暗くなる。これ以上は、倒れる。それでも、止めなかった。ここで倒れたら、ボルツが死ぬ。その一念だけが、僕を繋ぎとめていた。
その瞬間。
濁った赤い眼が、ぐるりと、僕を向いた。
ボルツでも、村人でもなく。炎と煙を隔てて、その化け物はまた、僕を——僕の触れた流れを、見据えた。思い出すように。確かめるように。まるで、ずっと、これを待っていたとでもいうように。
——僕を、知っている。森の奥から、ずっと。
だったら、やっぱりだ。すべての元凶は、あいつなんだ。眠らせ損ねて、僕が呼び戻してしまった、あの底の何か。その正体が、今、目の前にいる。
ぞくり、と背筋が凍る。けれど、手を止めなかった。
「——っ、行けッ!」
導いた流れに乗って、火の粉と灰の渦が、巨獣の顔へ吹きつけた。
ごく、わずかな風。けれど、燃える灰は、あの剥き出しの赤い眼へ、まともに入った。
巨獣が、初めて悲鳴のような咆哮を上げた。灼かれた眼を庇い、巨大な頭をのけぞらせる。剥き出しになった、太い、喉。
「ボルツ!」
叫んだのと、彼が動いたのは、同時だった。
ボルツは、待っていた。
僕が何かをすると、信じていたみたいに。眼を灼かれ、頭をのけぞらせた巨獣の、その喉のただ中へ——彼は地を蹴り、傷だらけの全体重を乗せて、山刀を突き上げた。
今度は、刃が通った。
深々と。根もとまで。
黒い血が、噴き上がった。獣の、断末魔。巨体が、めちゃくちゃに暴れ狂う。尾が、薙ぎ倒した小屋を、紙のように吹き飛ばした。たった一突き。けれど、確かに、届いた。あの硬い殻の、ただ一つの隙へ。
「ボルツ、逃げて——!」
僕の声は、届かなかった。
盲滅法に振り回された、巨獣の前肢が。
山刀を突き立てたまま、引き抜く間もなかったボルツの体を——まともに、捉えた。
鈍い、重い音がした。木の幹がへし折れるような。
ボルツの体が宙を舞い、半壊した柵を巻き込んで、地面に叩きつけられた。
「ボルツッ!!」
巨獣は、まだ死なない。
喉から黒い血を滝のように溢れさせ、片眼を潰され、それでもその化け物は、立っていた。痛みも恐れも捨てたその体は、致命傷を負ってなお、すぐには倒れない。けれど——その動きは、明らかに鈍っていた。ぐらり、ぐらりと、巨体が揺れる。喉の傷が、確実に、その命を削っていた。
もう少し。
あれを殺しきれば。源を断てば。この悪夢は、終わる。——頭の隅で、冷たい声が、そう告げた。あの化け物こそが、すべての元凶なんだ。あれさえ倒せば、何もかも、元に戻る。
でも。
僕の足は、巨獣にではなく、地に伏したボルツのもとへ、駆けていた。
「ボルツ! ボルツ、しっかり——!」
彼は、倒れていた。あの、岩のように大きな体が、小さく、折れ曲がって。胸が、浅く、上下している。生きている。まだ、生きている。けれど、その下に広がる黒い染みが、見る間に大きくなっていく。土が、どす黒く、濡れていく。
嘘だ。ついさっきまで、あんなに大きく見えた背中が、どうして、こんなに。いつも僕の頭を、ぐしゃりと撫でた、その大きな手が、今は力なく地に投げ出されて、土の上で、わずかに痙攣していた。
「……ば、か、もんが」
掠れた声が、聞こえた。薄く開いた目が、僕を見ている。いつもの、岩のように動じない目で。
「持ち場は……後ろ、だって……言った、だろうが」
僕は、首を振った。何度も、何度も。言葉が、出てこなかった。涙だけが、勝手に頬を伝った。
半歩、前へ出た。生まれて初めて、誰かのために、後ろから、前へ。あの稽古の半歩が、ボルツに、一瞬の隙を作った。
それでも——足りなかった。僕の半歩は、あの人を、守れなかった。
炎は、まだ村を舐めている。闇の向こうで、片眼の化け物が、ゆっくりと、こちらへ向き直ろうとしていた。喉から血を撒き散らしながら、それでも、まだ。
まだ、終わっていない。
終わらせるのは、僕だ。
ボルツは、僕に教えてくれた。死なない術を。生き延びる術を。——なら、今度は、僕が前に出る番だ。たとえ、半歩でも。
震える膝を、無理やり立たせる。倒れたボルツと、闇に揺れる化け物のあいだに、僕は立った。痩せた腕に、ボルツの落とした山刀を——重すぎるそれを、両手で、握りしめて。
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