第3話「餞別(はなむけ)」
三日は、あっという間に過ぎた。
荷造りといっても、大したものはない。着替えが数着、母から受け継いだという形見もなく、あるのはあの落書き帳の束と、最低限の路銀だけ。十年生きてきた重みにしては、ずいぶんと軽い荷物だった。
屋敷の誰も、僕の出発を惜しまなかった。当然だ。"いないもの"が、本当にいなくなるだけなのだから。
出立の前夜、廊下で兄に会った。
カイル・アークライト。アークライトの跡継ぎで、十五歳にして宮廷魔導師団から声がかかるほどの、火属性の俊英。すれ違いざま、兄は足を止めた。
「フェルローズに行くのか」
兄が口を開くとは思わなかった。僕は身構えた。嘲られるのだろうと。
「悪いことは言わん。あそこじゃ、貴族の体面なんか捨てろ。代官に頭を下げて、畑でも耕させてもらえ。そのほうが長生きする」
その言葉に、棘はなかった。むしろ——たぶん、これは兄なりの忠告だった。
兄は、僕を見下していない。ただ、心の底から「無属性に魔法の世界は無理だ」と信じている。それは兄が悪いのではなく、この国の全員がそう信じているからだ。兄もまた、その常識の中で生きている、ひとりの優秀な被害者にすぎない。
「……ありがとうございます、兄上」
僕がそう返すと、兄は一瞬だけ意外そうな顔をして、それから何も言わずに行ってしまった。
たぶん、僕らが交わした言葉の中で、それが一番まともな会話だった。皮肉なものだ。離れる前夜に、初めて。
*
夜明け前。まだ星の残る薄闇の中で、ハンナが見送りに来てくれた。
迎えの馬車は、紋章も入っていない、古びた幌馬車だった。御者はアークライト家の人間ですらなく、街道沿いの宿場まで運ぶだけの、雇われの男。そこから先は、乗合馬車で自分で行け、ということらしい。徹底して、体面のためだけの追放だった。
「レオン様」
ハンナは、震える手で小さな包みを差し出した。
「これを」
開けると、布の中から出てきたのは、古い銀の首飾りだった。中央に、見たことのない文様が刻まれている。円の中に、いくつもの細い線が螺旋を描いて絡み合う——魔法陣にしては妙な、けれど不思議と目を惹く図形。
「奥様の、形見でございます。本当は、いつかレオン様が一人前になられた時にと、預かっておりました。……でも、もう、お渡しできる時は、今しかないようですので」
母の、形見。
屋敷のどこにも残っていないはずの、母の痕跡。それが今、僕の手のひらの上にあった。
「ハンナ。母上は……どうして、誰にも語られないんだ。父上も、屋敷も、まるで母上を消したみたいに」
ハンナは、長いあいだ黙っていた。それから、ひとつだけ、ぽつりと言った。
「奥様は……この国の人ではございませんでした」
それだけだった。続きを訊こうとした時には、ハンナはもう深く頭を下げていて、皺だらけの頬を、涙が伝っていた。
「どうか、ご無事で。レオン様が、ご自分を"いないもの"だなんて、二度と思わずに済む場所へ、辿り着けますように」
*
馬車が動き出す。
遠ざかる屋敷を、僕は振り返らなかった。代わりに、手のひらの首飾りを、じっと見ていた。
円の中の、螺旋の文様。
——なぜだろう。これを見ていると、胸の奥が、妙にざわつく。
不意に、ずっと昔の記憶がよみがえった。
まだ五つか六つの頃。兄が初めて魔法を使った日のことだ。皆が炎の鮮やかさに歓声を上げる中で、僕だけが違うものを見ていた。兄の手のひらから炎が生まれる、その一拍前。空気が、ほんの少し、"形"を変えたように感じた瞬間を。
あれは何だったのか、ずっとわからないまま、僕はノートに書きつけた。『炎の前に、何かがある。みんな、炎しか見ていない』——意味もわからず書いた、最初の一行。
誰も相手にしてくれなかった、子供の世迷言。
馬車が街道の角を曲がる。屋敷が、完全に視界から消えた。
僕は首飾りを握りしめ、荷物の中の落書き帳に、そっと手を添えた。
価値はない。役にも立たない。——そう思っていた。
けれど、なぜか今だけは、この軽い荷物が、ひどく重く感じられた。
東へ。誰も僕を知らない、魔物の棲む土地へ。
絶望はまだ、終わっていない。むしろ——本当の絶望は、その辺境で、僕を待っていた。
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