第2話「いないもの」
無属性と判じられてから、屋敷の中で僕は"いないもの"になった。
すれ違う使用人は、僕に気づくと一瞬だけ足を止め、それからそっと目を伏せて通り過ぎる。挨拶はしない。叱られるからだ。落ちこぼれに馴れ馴れしくする者は、この家では出世できない。誰もが、それを知っている。
食事は、もう大広間には用意されなくなった。厨房脇の小部屋に、冷めたパンとスープが運ばれてくる。それを持ってくる役目は、決まって一番年下の下働きの子だった。誰も、貧乏くじを引きたくないのだ。
不思議なもので、人は二週間もすれば、どんな扱いにも慣れる。
慣れてしまう自分が、いちばん惨めだった。
ただ一人だけ、僕を"いないもの"扱いしない人がいた。
ハンナ。母が生きていた頃から仕えている、白髪の侍女だ。彼女は相変わらず、毎朝きちんと僕の部屋の扉を叩き、「おはようございます、レオン様」と言った。冷めたスープに、こっそり蜂蜜を一匙落としてくれるのも、いつもハンナだった。
「……ハンナは、怒られないの。僕なんかに構って」
ある朝、僕がそう訊くと、彼女は皺だらけの手で僕の頭を撫でて、静かに言った。
「奥様にお仕えしておりました。奥様は、人を魔法の色で見るようなお方ではありませんでした」
母の話を、ハンナは滅多にしない。
僕も、母の顔を覚えていない。物心つく前に亡くなったと、それだけ聞かされている。屋敷には母の肖像画が一枚もなく、父はその名を口にすることすらない。まるで、母もまた、この家から"いないもの"にされたみたいに。
——なぜ。
その問いだけは、無属性とは別の場所で、ずっと胸に刺さったままだった。
*
父に呼ばれたのは、それからさらに数日後の夜だった。
書斎に入ると、ヴァルド・アークライトは暖炉を背に、こちらを見もせず書類に目を落としていた。火属性の使い手である父の周りは、いつもほのかに暖かい。その暖かさが、今夜はやけに遠かった。
「東の、フェルローズ辺境領を知っているか」
前置きもなく、父は言った。
「……名前だけは」
国の東の果て。魔物が出る痩せた土地。流刑地と紙一重の、貴族なら誰も望まない領地。それくらいは、地理の授業で習っていた。
「あそこに、アークライト家の古い所領がある。今は代官に任せきりの、名ばかりのものだがな」父はようやく顔を上げた。その目に、怒りはなかった。あるのは、帳簿を締めるときと同じ、冷静な計算だけだった。「お前を、そこへやる。形の上では、所領の視察と管理だ。体裁は保てる」
体裁。
その一言で、全部わかった。
無属性の息子を屋敷に置いておけば、家名に傷がつく。かといって、表立って追い出せば外聞が悪い。だから「辺境領の管理を任せた」という名目で、僕を遠くへやる。誰の目にも触れない場所へ。——これは、視察じゃない。体のいい追放だ。
「……いつ、ですか」
声が、自分でも驚くほど平坦に出た。もう、震えなかった。たぶん、心のどこかで、こうなることを予感していたから。
「三日後だ」
三日。
十年暮らした家を畳むには、あまりにも短い。けれど父にとっては、長すぎるくらいなのだろう。
「父上」僕は、最後にひとつだけ訊いた。訊かずにはいられなかった。「母上は、どんな人でしたか」
父の手が、止まった。
ほんの一瞬、暖炉の火が揺れて、父の横顔に深い影が落ちた。怒りでも、悲しみでもない——もっと複雑な、名前のつけられない何かが、そこをよぎった気がした。
「……下がれ」
返ってきたのは、それだけだった。
書斎を出て、扉を閉める。
廊下は冷えきっていた。父の部屋の暖かさは、扉一枚で完全に断ち切られていた。
僕は、自分の手のひらを見た。魔法ひとつ生み出せない、空っぽの手を。この手で、これから、誰も助けてくれない場所で生きていかなければならない。
怖くないと言えば、嘘になる。膝はまた、少し笑っていた。
それでも——たったひとつ、確かなことがあった。
ここを出れば、もう誰も、僕を"いないもの"扱いしない。
なぜなら、その辺境には、僕を見下す相手すら、いないのだから。
僕は、引き出しの鍵を開けた。
燃やせなかった、あの落書き帳の束。荷物に入れるかどうか、少しだけ迷って——結局、全部詰めた。価値はない。役にも立たない。
ただ、これだけが、僕が"僕だった"証拠みたいな気がしたから。
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