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【第二章完結・第三章開幕】無属性の落ちこぼれ追放令息は、失われた魔法《原初式》を読み解く ~世界の魔法は、最初から間違っていた~  作者: 刈谷るあ
村編

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第24話「半歩」

 森が、また、ざわつきはじめていた。

 底の蓋を締め直してから、森は嘘みたいに静かだった。押し出される力を失った獣たちは奥へ帰り、しばらく、へりに新しい足跡を見ることもなかった。

 けれど、ここ数日。

 森のへりのぬかるみに、また、あの三本指の跡が点きはじめた。一つ、二つと数を増やし、奥のほうから、村へ向かって、にじり寄ってくる。

 締め直した蓋は、もう緩みはじめている。半月で、あの震えがぶり返したときから、わかっていたことだ。次の波は、止めたんじゃない。先延ばしにしただけ。そして、その先延ばしの時間が、もう、尽きかけている。

 壁の文字を写す手は、夜ごと速くなっていた。あの小さな「文字」を覚えはじめてから、読みかけの語が少しずつ形になる。それでも——間に合うのか、と自問するたび、僕は別の冷たい事実に突き当たった。

 もし、間に合わなかったら。

 もし、群れが柵を越えて、村へなだれ込んだら。

 そのとき、僕の体は、何ができる。

 答えは、考えるまでもなかった。あの柵の夜、僕は何ひとつできなかった。前に出て山刀を振るったのはボルツで、僕は退避を差配し、火の溝の段取りを指図しただけだ。図を引くことはできても、獣の前に立てば、僕はひと薙ぎで吹き飛ぶ、痩せた子供にすぎない。

 頭がどれだけ言葉を読めても。体が、ついてこない。


 その日の夕、森から戻ると、ボルツが廃館の戸口で待っていた。

 手に、二本の棒きれを持っている。木の枝の節を払って、ちょうど僕の腕ほどの長さに切り揃えたものだ。

 「ボルツ?」

 「座れ、とは言わねえ。立ってろ」彼は片方の棒を、僕の足もとへ放った。「拾え」

 わけもわからず棒を拾うと、ボルツは正面に立った。岩のような体が、夕日を背に、ぬっと影を落とす。

 「森が、また騒ぎ出した」彼は低く言った。「お前は、それでも通うんだろう」

 返す言葉がなかった。あの朝、空っぽの体で這うように帰ってきた僕を、ボルツは柵の前で見ている。森の奥で何があったかは話していない。でも、ただ事じゃなかったことは、この人にはわかっている。

 「通うのを止めろとは、もう言わねえ。言っても聞かねえのは、わかった。だがな——」

 彼は棒の先を、とん、と僕の胸に当てた。

 「次に森で何かあったとき、丸腰のお前は、ただ死ぬ。だったら、せめて、死なねえ術を覚えろ。読むだけじゃ、お前の首は繋がらねえ」


 それが、はじまりだった。

 ボルツの教え方は、言葉が少なかった。

 「来い」

 言われるまま、棒を構えて踏み込む。次の瞬間、僕は地面に転がっていた。何をされたのか、わからない。気づけば足を払われ、肩を押されて、空を仰いでいた。

 「もう一度」

 立ち上がる。踏み込む。転がる。

 立ち上がる。踏み込む。転がる。

 十度を超えたあたりで、棒を構える腕が、もう震えていた。屋敷でも辺境でも、僕はずっと「頭を使う子供」だった。体を芯から動かすことなんて、ろくにしてこなかった。痩せた腕、頼りない足。地面に叩きつけられるたび、自分の体がどれだけ何も知らないかを、思い知らされる。

 惨めだった。

 悔しさより先に、ただ、惨めだった。

 それでも、立った。倒されるたびに、僕の中の何かが、勝手に観察をはじめていた。ボルツの足が、どこに置かれるか。重い体が、どの瞬間に、どちらへ傾くか。打たれた肩の、どこが痛むのかすら、僕は数えていた。痣の位置が、教えてくれることがある。同じ場所を二度打たれるのは、同じしくじりを二度した、ということだ。

 体は、何も知らない。でも、頭は、知ろうとすることだけはやめなかった。それだけが、今の僕に残された、たったひとつの武器だった。


 息も絶え絶えに転がる僕を見下ろして、ボルツは初めて、少し長く喋った。

 「お前、なんで転ぶか、わかるか」

 僕は、首を振る。

 「正面から、受けようとするからだ」彼は太い腕を持ち上げた。「お前みてえなチビが、まともに力を受けてみろ。弾き飛ばされて、それで終わりだ。獣が相手なら、そのまま死ぬ」

 「じゃあ……どうすれば」

 「受けるな。流せ」

 ボルツは棒を構え、今度はゆっくりと突き込んできた。

 「来る力に、正面から立つな。半歩、横にずれろ。相手の力を、殺すんじゃねえ。逸らすんだ。向きだけ、変えてやる」

 半歩。

 あの夜、彼が大型の獣の突進をいなしたのを思い出した。真正面で受け止めたんじゃない。半歩、体をずらして、突進の力をすうっと横へ流し、その勢いのまま、首筋へ刃を差し込んだ。

 力に、逆らわない。

 力の向きに、寄り添って、逸らす。


 その言葉が、体の奥で、別の何かと響き合った。

 ——流れに、逆らうな。

 あの遺跡で、空っぽの広間で、僕が何百回もしくじって、ようやく掴んだ感覚だ。流れを掴もうと力めば、逃げる。逆らえば、消える。流れ本来の向きに、そっと意識を寄り添わせて、ほんの少しだけ導いてやる。そうして初めて、渦はひと巻き、生まれた。

 あれと、同じだ。

 ボルツが棒で教えようとしていることと、僕が遺跡で流れに教わったことは——根っこで、同じことを言っている。

 力で、力をねじ伏せるんじゃない。

 力の流れに乗って、向きだけを、変えてやる。

 体の動きも、流れの操作も。たぶん、ぜんぶ、同じひとつの理から、枝分かれしている。

 いや——もっと前から、僕はこれを知っていたのかもしれない。

 はじめて森へ入った日。襲ってきた灰色の獣を、僕は力で倒したんじゃない。突っ込んでくる勢いを、とっさに横へ受け流して、その勢いのまま、地に転がした。あのときは、ただ死にたくない一心で、考えるより先に体が動いただけだ。まぐれだと、ずっと思っていた。

 でも、まぐれじゃなかったのかもしれない。あれも、いなすだった。流れに逆らわず、向きを変える——僕はあの日、それを一度、偶然に掴んでいた。ボルツは今、その偶然に、名前をつけようとしている。

 背筋が、ぞくりとした。恐怖じゃない。何か、途方もなく大きなものの、端っこに、触れた感覚だった。


 僕は、棒を握り直した。

 今度は、ボルツの力を「受ける」とは考えなかった。突き込まれる棒の、その向き。どこへ向かう力なのか。それを、流れを読むときと同じ目で、見ようとした。

 ボルツが踏み込む。

 僕は——半歩、ずれた。

 遅かった。肩を打たれて、また転がる。

 でも、さっきまでとは、何かが違った。ほんの一瞬だけ、突き込まれる力の「向き」が、見えた気がしたのだ。読めた気がした。

 「もう一度」

 立ち上がる。

 力の向きを、見る。半歩、ずれる。転がる。

 立ち上がる。見る。ずれる。転がる。

 半歩が、間に合わない。向きが見えても、体がついていかない。頭で「今だ」と叫んでも、足が動くのは、決まってひと呼吸、遅れる。見えることと、できることのあいだには、こんなにも深い溝がある。——遺跡の壁の前で、何度も突き当たったのと、同じ溝だった。読めても、使えない。あのもどかしさが、今度は、自分の手足の上にあった。

 日が落ちて、あたりが藍色に沈んでも、僕は棒を放さなかった。体じゅうが痣だらけで、立つのもやっとで、それでも——あの「向きが見える」一瞬を、もう一度、掴みたかった。


 何度目か、もう、わからなかった。

 ボルツが踏み込んだ。僕は、考えるより先に、半歩、横へ流れた。

 彼の棒の先が、僕のいたはずの場所を、空しく突いた。

 はじめて、打たれなかった。

 ボルツの大きな体が、突き込んだ勢いのまま、半歩、前へつんのめる。

 たった半歩。それだけのことだった。けれど僕は確かに、岩のようなあの男の力を、正面で受けずに、横へ逸らしたのだ。

 ボルツが、動きを止めた。

 ゆっくりと振り返り、暗がりの中で、僕を見下ろす。

 「……ほう」

 それだけだった。けれどその一言は、屋敷で誰からも貰えなかったどんな褒め言葉より、深く、僕の胸に落ちた。


 その夜、ボルツは廃館の囲炉裏に、めずらしく長く居座った。

 「明日も、暮れにやる」火を見ながら、彼は言った。「毎日、半歩ずつだ。一日でいきなり強くなれると思うな。体ってのは、頭みてえに速くは賢くならねえ」

 「……うん」

 痣だらけの腕で椀を持つと、指が震えた。情けない。けれど、不思議と、惨めさは消えていた。

 「ボルツは、どうして、僕に教えてくれるの」

 彼はしばらく、火を見ていた。

 「昔、守れなかった奴らがいる」ぽつりと、それだけ言った。火傷の腕を、ゆっくりと掻く。「死なねえ術を、誰かが先に教えてやってりゃ、助かった奴も、いたかもしれねえ。……それだけだ」

 それ以上は、訊かなかった。働く者の領分には、踏み込まない。それは、この人が僕に教えてくれた、距離の取り方だ。

 ただ、わかった。この人は、僕を強くしたいんじゃない。生き残らせたいんだ。

 粥はとっくに冷めていた。それでも、その椀の温もりが、痣だらけの掌に、じんと染みた。

 守れなかった、誰か。この人が背負っているものの重さを、僕はまだ、何も知らない。知らないまま、その人が自分の時間を削って分けてくれる中に、僕は今、座っている。いつか、その重さを訊ける日が来るだろうか。来たとして、僕はそれを、ちゃんと受け取れる人間になっているだろうか。


 囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。

 僕は痣の痛む体で、ぼんやりと天井を見上げながら考えた。

 頭で、言葉を読む。体で、力を流す。別々のことだと思っていた二つが、根っこで、ひとつに繋がっている。だとしたら、僕がこれから磨くべきものは、二つじゃない。ひとつだ。流れに逆らわず、向きを変える——その理を、言葉でも、体でも、掴んでいけばいい。

 読む速さと、底が緩む速さ。その競争に、新しい線が一本、加わった。

 強くなる速さ。

 間に合うかどうかは、わからない。森のへりの足跡は、確実に増えている。けれど——できることが、ひとつ、増えた。

 明日も、暮れに、半歩。

 その積み重ねの先にしか、きっと、僕の立てる場所はない。

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