第23話「文字の中の文字」
底が動いた夜から、僕はろくに眠れなくなった。
蝋燭を消して目を閉じると、瞼の裏にあの微かな震えがよみがえる。世界の底が寝返りを打つような、鈍い揺らぎ。締め直して、まだ半月。間隔は確実に縮んでいる。
次の波までに、僕はどれだけ読めるだろう。
机の上には、写し取った螺旋の束が散らばっていた。そのうち、僕に読めるのは二つきりだ。集める、と、ほどく。一年近くかけて、たった二つ。
壁の言葉を一語ずつ、修行で体に刻んだ動きと照らし合わせて、ようやく一つ読める。そのやり方は間違っていない。けれど、遅すぎる。底が緩んでいく速さに、僕の読む速さが、まるで追いつかない。時計の針は、僕の歩幅に合わせて待ってはくれない。
焦りだけが胸に溜まって、僕は意味もなく、二つの螺旋を並べて眺めていた。
集める。ほどく。対の言葉だ。流れを巻き込む形と、その巻きを解く形。ちょうど向きが逆になっている。それはもう、嫌というほど確かめた。
——そのときだった。
逆向きの二つの螺旋。その巻きはじめの、ほんのひと筆。向きは正反対なのに、根もとの小さな結びだけが、寸分たがわず同じ形をしていた。
はじめは、見間違いだと思った。
蝋燭を引き寄せ、二枚の写しを重ねて透かす。やはり、同じだ。「集める」の渦の芯にある小さな結び目と、「ほどく」の渦の芯にある結び目。言葉の意味は正反対なのに、その中心の一画だけが、同じ形で座っている。
心臓が、こつ、と鳴った。
僕は震える指で、その小さな結びだけを、別の紙に書き写した。たったひと筆の、ささやかな形。それから、机じゅうの写しを片端から手に取って、同じ形を探した。
——あった。
三つ目の螺旋の、隅。四つ目の、付け根。五つ目の、ぐるりと巻いた尾の終わり。あれほど複雑に見えた、読めない言葉たちの中に、あの同じ結びが、いくつもいくつも、姿を変えずに潜んでいた。
ばらばらだと思っていた。一つひとつが、別々の絵なのだと。
違った。
これは、絵じゃない。
もっと小さな形を、いくつも組み合わせて作られている。あの結びは、その部品の、ひとつだ。
——文字だ。
言葉の中に、もっと小さな文字がある。
息が浅くなった。
考えてみれば、当たり前のことだったのかもしれない。僕が使う、この国の文字だってそうだ。決まった形をいくつか組み合わせて、いくらでも言葉が綴れる。屋敷の隅でこっそり読みふけった本も、ボルツに教わった帳面の付け方も、ぜんぶ、限られた数の文字でできていた。
なのに僕は、遺跡の螺旋だけを、一つひとつ意味を持った「絵」だと思い込んでいた。月を描けば月、鳥を描けば鳥、というふうに。だから一語覚えるのに、まるごと一つの動きを体で掴むしかなかった。気の遠くなる道だ。壁じゅうの言葉を、ぜんぶ別々に覚えなきゃいけないんだから。
でも、もし。
この螺旋たちが、限られた数の小さな形——小さな文字の組み合わせでできているのなら。
その文字さえ覚えてしまえば、僕は、まだ体で掴んでいない言葉でも、形を読み解けるようになるかもしれない。
一語ずつ、まるごと暗記する道じゃない。文字を覚えて、組み合わせを読む道。
それは、途方もない近道だった。
ただ、と僕は逸る心に、冷たい水をかけた。
読めることと、使えることは、別だ。
それは、この一年で骨身に刻んだ。「集める」の形を知っていても、その渦を実際に起こすには、流れを巻き込むあの感覚を、体が覚えていなくちゃならない。形だけ知って念じても、流れは動かない。読むことと、振るうことは、両輪だ。片方だけじゃ、車は進まない。
だから、小さな文字を覚えたところで、明日いきなり新しい技が使えるわけじゃない。
それでも——読めるようになる、というのは、大きい。
壁の言葉が何を言っているのか、先に「読めて」いれば、どの動きを体で掴むべきか、見当がつく。闇雲に修行して、無駄に流れを使って、そのたびに底の蓋を緩める——あの諸刃の悪循環を、減らせるかもしれない。正しい形を先に知れば、回り道が減る。
集める、を読んだとき、僕はそう気づいたはずだった。今度は、その先がある。
言葉の形を読むんじゃない。言葉を組み立てている、文字を読むんだ。
夜が明けるのを待って、僕は遺跡へ行く支度をした。
もっと螺旋がいる。机の上の写しだけじゃ、足りない。あの結びが本当に「文字」なら、壁にはきっと、同じ文字が、数えきれないほど刻まれているはずだ。それを確かめたい。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。読むだけなら、流れには触れない。流れを動かさなければ、底の蓋を緩めることもない。今日の僕は、ただ文字を写しに行く子供だ。
廃館を出ると、朝靄の中に、ボルツの大きな背中があった。
柵の杭を点検している。僕の足音に振り返り、彼は僕が肩にかけた荷袋と、手にした炭と紙を見た。森へ行く支度だと、ひと目で察したらしい。
以前なら、行くな、と止めたかもしれない。
けれどボルツは、何も言わなかった。ただ、ぶっきらぼうに、布に包んだ何かを僕の胸へ押しつけた。干し肉だった。固くて、塩辛くて、村の蓄えの中でもいちばん貴重なやつだ。
「腹が減ると、頭が回らねえ」それだけ言って、彼は杭に向き直った。「日が暮れる前に戻れ。黙って消えるな」
黙って消えるな。あの朝と、同じ言葉だった。
「うん」僕は干し肉を握りしめた。「行ってきます。夕方には、戻る」
ボルツの背中が、小さく頷いたように見えた。
たったそれだけのやり取りが、去年の僕には、どんなに欲しくても手に入らないものだった。行ってこいと送り出してくれる誰か。戻る場所。戻れと言ってくれる声。僕は、それを守るために森へ行くのだと、あらためて思った。
森は、不気味なほど静かだった。
締め直して以来、押し出される力を失った獣たちは、奥へ帰ったままだ。けれど僕は知っている。これは凪だ。次の嵐の前の。
崩れた入口をくぐり、青白い光の筋を頼りに、言葉の壁の前に立つ。
はじめて来たとき、この壁は、ただの不可解な模様の海だった。無数の螺旋が、びっしりと、意味もわからず渦を巻いている。圧倒されて、足がすくんだのを覚えている。
でも今日は、違って見えた。
炭を握り、僕はあの小さな結びを——「文字」を、壁の中に探した。
すぐに、見つかった。
ひとつ、ふたつ、みっつ。目が慣れてくると、もう数えきれない。壁じゅうの螺旋の、あちこちに、あの同じ結びが顔を出している。向きを変え、大きさを変え、けれど確かに同じ形で、繰り返し、繰り返し、刻まれている。
やっぱりだ。机の上だけの偶然じゃなかった。
僕は夢中で、壁を端から見ていった。あの結びのほかにも、繰り返し現れる形が、いくつもあった。ひと払いの線。三つに分かれた又。小さな点の連なり。どれも、いろんな螺旋の中に、部品のように嵌まり込んでいる。
炭が紙の上を走った。結び。払い。又。点。繰り返し出てくる形を、片端から書き留めていく。これが、言葉を綴っている、文字たちだ。いくつあるのかは、まだわからない。十か、二十か、もっとか。けれど、無限じゃない。数えられる。覚えられる。
ひとしきり写してから、僕はふと、手を止めた。
早とちりをしてはいけない。ただ似た形が、たまたま並んでいるだけかもしれない。石が割れた筋や、飾りの繰り返しを、僕が勝手に「文字」と読んでいるだけかもしれない。観察は、思い込みを見つけたら、いちばん疑わなくちゃいけない。
だから確かめた。あの結びを、いくつも見比べる。どれも、巻きの数が同じだった。払いの向きも、点の置き方も、まるで判で押したように揃っている。偶然に割れた石が、こんなに律儀に同じ形を繰り返すはずがない。これは、誰かが意図して、同じ形を、何度も刻んだものだ。
間違いない。これは、文字だ。
手のひらが、汗で炭を滑らせた。
一年ものあいだ、僕は分厚い壁を、爪で引っ掻いていた。今、その壁に、初めて指のかかる隙間を見つけた気がした。
ふと、胸の母の形見が揺れた。
僕は手を止め、首飾りをはずして、壁の文字と見比べた。
集めて、□、閉じる。読みかけて止まっていた、真ん中の文字。
その□を、覚えたばかりの目で見直す。あの小さな結びが、ある。ひと払いの線も、ある。知っている部品で、できている。意味はまだ、わからない。けれど、まるごと未知の絵だったはずの真ん中の文字が、今は、知っている文字の組み合わせに見えた。
あと少しだ。あと少しで、母が肌身離さず持っていた言葉を、僕は読める。
母さんは、どんな言葉を、首にかけて生きていたんだろう。
壁の文字を一心に写しているうちに、いつのまにか、足が奥へ向かっていた。
心臓の広間。
あの夜、僕が母の鍵を据えて起動させ、緩んだ蓋を締め直した場所。床いっぱいに刻まれた、部屋ほどもある巨大な螺旋が、淡い青白さで、ゆっくりと脈を打っている。
僕は、その巨大な螺旋を、覚えたての目で見下ろした。
息が、止まった。
大きすぎて、今まで「ひとつの渦」としか見えていなかった。でも、文字を知った今ならわかる。この途方もない螺旋もまた——あの小さな文字たちの、組み合わせでできている。結び。払い。又。点。それが、壁の言葉の何十倍もの数、複雑に絡み合い、折り重なって、この部屋ほどの一文を綴っている。
これは、絵じゃない。
とてつもなく長い、ひとつの、文だ。
いつか僕は、これを、ぜんぶ読めるんだろうか。読み終えたとき、そこには、何が書いてあるんだろう。
——どくん。
広間の、さらに底で。
あの濁った赤い光が、僕の問いに応えるみたいに、ひとつ、ゆっくりと脈を打った。
歯の根が鳴った。僕は流れに触れていない。渦ひとつ、作っていない。ただ、文字を読もうとしただけだ。なのに、底の何かが、また、応えた。
お前を覚えた、と告げてきた、あの眼を思い出す。
まるで、僕が壁の文字をひとつ覚えるたびに、底のそれも、僕のことをひとつずつ、覚え返しているみたいだった。
ぞくりと、背中が冷えた。
怖い。けれど、止まれない。
読む速さと、底が緩む速さ。どちらが速いか、それだけの競争だ。そして今日、僕は初めて、読む速さを上げる手がかりを掴んだ。
日が暮れる前に戻る。ボルツに、そう約束した。
僕は写しの束を抱え、最後にもう一度だけ、赤い光の沈む底を振り返ってから、心臓の広間に背を向けた。
覚えてやる。お前より、速く。
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