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【第二章完結・第三章開幕】無属性の落ちこぼれ追放令息は、失われた魔法《原初式》を読み解く ~世界の魔法は、最初から間違っていた~  作者: 刈谷るあ
村編

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第22話「凪のうちに」

 空っぽになった器が満ちるまでに、思っていたよりずっと長くかかった。

 廃館の寝床で目を覚ますたび、僕は胸の奥へ意識を沈めて、あの「何か」がどれだけ戻ったかを確かめた。流れを動かすための力だ。指先で渦をひと巻きするだけで枯れていた、頼りない器。それが日に日に、底の方からゆっくりと満ちてくる。一日目はまぶたを開けるのがやっとだった。三日目には体を起こせた。五日目には壁に手をついて廃館の庭先まで歩けた。

 不思議なことがあった。器が満ちきったとき、前より少しだけ底が深くなった気がしたのだ。

 気のせいかもしれない。腹の底の感覚なんて、目盛りで測れるものじゃない。それでも僕は落書き帳を開き、新しい行にこう書いた。「使い切って、満ちると、器が少し大きくなる? 要観察」。確かめる術はまだない。けれど書いておけば、いつか線が繋がる。母から受け継いだのか、ただの癖なのか。僕はわからないことをわからないまま書き留める子供だった。

 マルタは粥に芋を足してくれるようになった。

 「あんた、肉がなさすぎる」皺だらけの手で僕の腕をつまむ。「死人の腕みたいだよ」

 僕は笑った。本当に死にかけたのだとは言わないでおいた。あの森の奥で何をしてきたのか、話したところで通じない。通じないことを僕はもう知っていた。だからただ、温かい粥を一口ずつ大事に飲んだ。マルタは何も訊かず、僕が椀を空にするのを傍らで見届けてから出ていった。


 村は穏やかだった。

 来るはずだった災いが来なかったというのは、村にとっては「何も起きなかった」のと同じだ。畑は枯れず、柵は破られず、誰も欠けなかった。朝には鶏が鳴き、痩せた畑から大根が抜かれ、井戸の釣瓶がきしんだ。何でもない一日が、何でもなく過ぎていく。その何でもなさがどれほど薄い氷の上に乗っているのか、知っているのは僕だけだった。

 ただ、僕に向けられる目だけが前と違っていた。

 井戸端ですれ違う女が軽く頭を下げる。子供らが遠巻きにこちらを窺っては、目が合うとぱっと散る。畏れと、それからうまく名前のつかない何か。英雄なんて大それたものじゃない。ただ「森のことを知っている、得体の知れない坊主」が、「森のことを知っている、頼りになるかもしれない坊主」に変わった。その程度の、けれど僕には途方もなく大きな変化だった。

 一度、こんなことがあった。

 村はずれに住む木こりの女房が、皺だらけの紙きれを手に廃館の戸を叩いた。遠い町の縁者から届いた手紙を、字が読めずに半年も抱え込んでいたという。僕が読んでやると、それは身内の不幸を報せる古い便りで、女房はその場でしゃがみ込んで泣いた。役に立てたのか、傷をえぐったのか、僕にはわからなかった。けれど帰りぎわ、女房は痩せた手で僕の手を握り、「あんたがいてくれて、よかった」と言った。

 いてくれて、よかった。

 屋敷では一度も言われたことのない言葉だった。


 ある日の昼、ボルツに呼ばれた。

 村の東の外れ、去年こしらえた火の溝のところだった。第二波に備えて掘った溝は、結局使われないまま、底に枯れ葉を溜めている。ボルツは腕を組んでその溝を見下ろしていた。

 「お前、この溝、どう思う」

 唐突だった。僕は面食らいながら、溝の縁にしゃがんで覗き込んだ。

 「……浅いです。一度火を入れたら、すぐ燃え尽きる。それに、ここだけ掘っても、森の縁が広すぎて回り込まれます」

 ボルツは、ふん、と鼻を鳴らした。叱られるのかと思った。けれど彼は思いがけないことを言った。

 「だろうな。──で、お前ならどう掘る」

 僕は思わずボルツの顔を見上げた。

代官が村の差配を、追放されてきた子供に訊いている。それがどういうことか、僕にもわかった。あの夜、来なかった群れ。森の静けさ。村の誰もが理由を知らないまま、それでもボルツは何かを「火のことを知ってる坊主」に結びつけている。問い詰めはしない。ただこうして、隣に並べてくれる。それが彼なりの答えの出し方なのだろう。

 僕は落書き帳を取り出し、地面に膝をついて覚えている限りの森の縁の形を描いた。木の生え方、獣の通る筋、風の向き。ボルツは黙って僕の小さな手元を覗き込んでいた。山刀を持てば一頭の獣を半歩でいなす男が、棒きれで地面に線を引く子供の話を最後まで聞いた。

 「……ここと、ここに、短い溝を継ぎます。長く掘るより、獣の通り筋を断つように。火は、退かせるためじゃなく、誘うために使う」

 「火で、誘う」ボルツが眉を寄せる。

 「逃げる方向を、こっちで決めてやるんです。追い詰めると獣は固まって突っ込んでくる。けど逃げ道があると、そっちへ流れる。流れは──」言いかけて、僕は口をつぐんだ。流れは、向きに逆らわず導くもの。それは誰にも言っていない、あの遺跡で掴んだ理屈だった。

 ボルツはしばらく僕の描いた線を見ていた。それから、ぐしゃぐしゃと僕の頭を撫でて立ち上がった。

 「明日、人を出す。お前、立ち会え」


 翌朝、本当に村の男たちが鍬を担いで集まった。

 半年前なら、僕が何を言っても誰も鍬を握りはしなかっただろう。それが今は、僕が地面に引いた線に沿って黙々と土を掘っている。最初は怪訝そうだった男たちも、ボルツが「坊主の言う通りに掘れ」と一喝すると、もう何も言わなかった。

 僕は線を引き、深さを示し、火の入る向きを説明して回った。非力な僕には鍬は重すぎて、半日も振るえば手のひらが裂けた。それでも、掘れた。みんなで、掘れた。力のない子供の頭の中の図が、村じゅうの手を動かして土の上に形になっていく。それは僕が初めて味わう種類の手応えだった。

 昼、汗だくの男たちと並んで井戸の水を回し飲みした。誰かが僕の裂けた手のひらを見て、黙って自分の腰布を裂き、巻いてくれた。少し離れたところで、いつも僕を遠巻きにしていた子供らが僕の引いた線をなぞって遊んでいた。ここから先は獣が来ない場所なんだと、誰かの受け売りを得意げに言い合っている。違う、と僕は思った。ここから先を来させないようにするための線だ。けれど、その勘違いを正す気にはなれなかった。子供が安心して笑える線を引けたなら、それで十分だった。

 ボルツが隣に腰を下ろした。

 「昔な」彼は森を見ながら、ぽつりと言った。「俺がここへ流れ着いた頃、この村はもっと森に近かった。畑も、家も、何軒も呑まれた。獣にじゃねえ。みんなが怖がって逃げ出して、無人になった家から森が勝手に近づいてきやがった」

 僕は黙って聞いていた。ボルツが自分のことを話すのは珍しかった。

 「逃げりゃ楽だ。だが、逃げた先にもいずれ森は来る。なら、ここで踏ん張るしかねえ。──線を引くってのは、いいな。ここまでだ、ここから先は渡さねえって、地面に書いてやるんだ」

 彼は立ち上がり、僕の頭をまた乱暴に撫でた。

 「悪くねえ仕事だ、坊主」

 その言葉が、半日掘り続けた手のひらの痛みよりずっと深いところに届いた。


 夜は、研究の時間だった。

 廃館の机に、写し取った螺旋と母の首飾りを並べる。蝋燭の灯りで、銀の文様がちらちらと揺れた。

 二つ、読めるようになった言葉がある。集める、と、ほどく。形に対があるのなら、言葉には筋がある。筋があるなら、並べ方にも意味があるはずだ。

 僕は首飾りの螺旋を指でなぞった。一文字じゃない。いくつもの螺旋が鎖の輪に沿って連なっている。これは──言葉の連なりだ。

 名前か。あるいは、一つの短い文か。

 『集める』に似た形がある。『ほどく』とは違う、けれど遠くない形もある。その並びを知っている二語で無理やり読もうとして、僕は息を呑んだ。

 集めて、閉じる。

 まだ読めない真ん中の文字を挟んで、両端がそう囁いている気がした。

 集めて、閉じる。それは──あの遺跡で僕がやったことそのものだった。緩んだものを集めて、締め直す。蓋を、閉じる。

 なぜ、母の首飾りにそれが刻まれているのか。

 手が震えた。母はこの国の人ではなかった。神代の言葉をその身につけていた。だとしたら母の一族は──蓋を閉じる側の人々だったのか。森の底に眠る「おおもと」を、かつて閉じ込めた誰か。

わからない。確かめる相手はいない。母はもういないし、首飾りは何も語らない。ただ銀の文様だけが、蝋燭の灯りの中で静かに僕を見返していた。

 僕は落書き帳に書いた。「首飾り=連なり。集めて、□、閉じる。母の一族=閉じる者?」。問いばかりが増えていく。けれど問いが増えるのは、答えに近づいている証拠だと信じることにした。母の顔はもう思い出せない。それでも、この銀の連なりの中に母がいる気がした。


 その夜だった。

 蝋燭を吹き消して横になったとき、体の底に覚えのある感覚が触れた。

 遠い、ごく微かな震え。床ではない。もっと、ずっと深いところ。世界の底が寝返りを打つような、鈍い揺らぎ。

 僕は跳ね起きて、窓の外を見た。

 東の森は、黒く、静かだった。あまりに静かだった。あの夜、僕が無理やり締め直した蓋。子供の手で巻き戻しただけの、緩みかけた蓋。

 また、ほどけかけている。

 思っていたより、ずっと早く。

 それも半分は、僕のせいだった。流れに触れるたび、修行をするたび、僕はあの蓋を自分の手で緩めている。守るための力が、災いを早める。その皮肉から僕は逃げられない。

 窓の桟を握りしめて、僕は暗い森を見つめた。村は眠っている。ボルツも、マルタも、火の溝の話で少しだけ笑った村人たちも、手紙を読んで泣いた女房も、みんな、この凪が続くと思って眠っている。

 続かない。僕だけが知っている。

 あの最深部でこちらを向いた気配。お前を覚えた、と告げてきた途方もない眼。あれが何だったのか、いまだにわからない。わからないのに、瞼の裏に焼きついて離れない。締め直したはずの蓋の向こうで、それは今もこちらを見ている気がした。

 落書き帳を引き寄せ、僕は震える指で書いた。「底が、また動いた。締め直して、まだ半月。間隔が縮んでいる」。

 そして、もう一行。

 「次までに、もっと読む。もっと、強くなる」。

 凪のうちに、できることをやる。今の僕にできるのはそれだけだった。


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