第21話「仮初めの朝」
目を覚ましたとき、僕はまだ、あの心臓の中にいた。
どれだけ気を失っていたのか、見当もつかない。床の巨大な螺旋は、もう眩い光を噴いてはいなかった。淡い青白さだけが、ゆっくりと、生き物の寝息のように脈打っている。最深部の赤い光は、見えない。深く、深く、沈んでいた。
体は鉛みたいに重かった。指を動かすだけで息が切れる。空っぽになった器に、ほんのわずかずつ、何かが滲み戻ってくるのを感じる。流れを動かすための、あの「何か」。それが底をつくと、人はこんなにも動けなくなるのか。
でも、生きていた。
石台の上で、母の首飾りが、役目を終えた鍵のように、ことりと転がっていた。僕はそれを震える手で握り、首にかけ直した。
やったんだ、と、もう一度、胸の内で確かめる。
でも、何を「やった」のかと問われると、うまく言葉にできなかった。
遺跡の力を借りて、世界の底の蓋を締め直した。獣を村へ押し出す震えを、止めた。それは確かだ。
けれど、今この手の中にある力が、いったい何なのか。世間で皆が当たり前に使う、炎や水を生むあの魔法と、どう違うのか。どちらが本物で、どちらが正しいのか——そんなことは、何ひとつ、わからなかった。
この辺境には、比べる相手も、教えてくれる本も、問える師もいない。僕が知っているのはただ一つ。炎ひとつ出せない無属性の手でも、確かに、世界の底に届く"何か"を動かせた。それだけだ。
それが何を意味するのかは、きっと、もっと広い世界へ出なければわからない。いつか、そんな日が来るのだろうか。
壁に手をつき、よろめきながら立ち上がった。
帰らなければ。ボルツが、村が、待っている。
森の中は、来た時とは別物のように静かだった。あれほど潜んでいた赤い目が、一つもない。底が鎮まり、押し出される力を失った獣たちは、みな暗い森の奥へと帰っていったのだ。皮肉な静けさだった。僕が空っぽになるのと引き換えに、森は束の間の安らぎを取り戻していた。
麻紐の印を、一つ、また一つと辿る。何でもないはずの道のりが、永遠みたいに遠かった。何度も座り込み、そのたびに村のみんなの顔を思い浮かべて、また立ち上がった。
森を抜けたとき、朝日が目を刺した。
村は、あった。
低い石垣も、継ぎ足した柵も、痩せた畑も、朽ちかけた屋根も。何ひとつ欠けることなく、朝の光の中にあった。襲ってくるはずの群れは、ついに来なかったのだ。
その柵の前に、ボルツが立っていた。
一睡もしていない顔だった。掛矢を手にしたまま、夜通し、来ない敵を待ち構えていたのだろう。僕の姿を見つけると、彼は大きく目を見開き、大股でこちらへ歩いてきた。
怒鳴られる、と思った。嘘をついて、一人で森へ消えたのだ。当然だ。
けれどボルツは、僕の前まで来ると、ただその岩みたいな手で、僕の頭を痛いほど強く掴んだ。
「……生きてやがったか」
声が、震えていた。
「群れが、来なかった。夜通し待った。一頭も、来やしねえ。森が、急に静かになりやがった」彼は絞り出すように言う。「お前、何をした」
僕は、うまく答えられなかった。森の奥で世界の底の蓋を締め直してきた、なんて、言ったところで通じない。
「……森の奥の、おおもとを。ちょっとだけ、止めてきた」
それだけ言うのが、精一杯だった。
ボルツは長いこと僕を見ていた。何を聞いても理解は及ばない、という顔で。それでも最後に、確かめるように訊いた。
「で。お前は、また行くのか。その、おおもとってやつのとこへ」
僕は、頷いた。まだ終わっていない。寝かしつけただけだ。その実感が、胸の底に、消えない澱のように残っていた。
ボルツは、ふう、と深く息を吐いた。そして掴んだままだった僕の頭を、ぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
「……次は、行く前に一言言え。黙って消えるな。心臓に悪い」
それは、叱責の形をした、許しだった。
その日、僕は丸一日、廃館で眠り続けた。
マルタが、また何も訊かずに看病してくれた。薄い粥を炊き、汗を拭い、空っぽの器がゆっくり満ちていくのを、ただ傍らで見守ってくれた。目を覚ますたび、皺だらけの手が僕の額に触れていた。
村は、安堵に包まれていた。来るはずの災いが、来なかった。理由は誰にもわからない。けれど、東の森が嘘みたいに静かになったことだけは、みんなが感じ取っていた。何人かは、それを、森に通い続けた「火のことを知ってる坊主」と結びつけて考えているようだった。
誰も、はっきりとは言わない。それでも、すれ違う村人の目に、前とは違う色が混じるようになった。畏れに近い何か。感謝にも似た何か。
僕は、英雄になった気なんて、しなかった。ただ空っぽで、疲れ果てていて——それでも、ほんの少しだけ、誇らしかった。守れた。誰も死なせずに。
けれど、平穏は薄氷の上にあった。それを、僕は誰よりも知っていた。
締め直した蓋は、ひとりでにほどけかけていたものを、子供の手で無理やり巻き戻しただけ。きっと、また緩む。それも、たぶん思っているより、ずっと早く。
あの最深部でこちらを向いた"眼"。お前を覚えた、と告げてきた、途方もない気配。あれが何だったのか、僕にはまだわからない。わからないまま、忘れることもできなかった。
夜、廃館の窓から東の森を見る。森は、静かだった。あまりにも、静かだった。
落書き帳を開き、新しいページにこう書きつける。
『底を締めた。村は守れた。でも、治してはいない。眠らせただけ。次は、もっと早く来る。』
ペンを置き、僕はまだ重い体に鞭打って、写し取った螺旋の続きを読みはじめた。
平穏の朝は、きっと長くは続かない。
その朝が仮初めだと知っているのは、救われたこの村で、たった一人、僕だけだった。
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