第25話「森を読む」
暮れの稽古は、あれから毎日続いていた。
棒を握り、半歩、ずれる。転がる。立つ。また転がる。痣の上に痣が重なって、朝起きると体じゅうが軋んだ。それでも、ほんの少しずつ、何かが変わりはじめていた。
はじめは十のうち十、転がされた。今は、十のうち二つか三つ、ボルツの棒を逸らせる。逸らせなかった残りも、地面に叩きつけられる前に受け身がとれるようになった。打たれても、息が止まらない。痩せた腕は相変わらず頼りないけれど、転んでもすぐ起き上がれるだけの粘りが、いつのまにか脚に宿っていた。
「体が、覚えはじめてやがる」
ある晩、ボルツがぽつりと言った。褒め言葉ではない。ただの観察だ。けれど僕は、その一言を、落書き帳の隅に書きとめた。体は、頭みたいに速くは賢くならない。でも、繰り返せば、確かに覚える。それは僕にとって、ひとつの発見だった。
稽古のない朝は、村の用を手伝った。
マルタの繕いものの礼に焼いた芋をもらい、字の読めない年寄りのために手紙を代筆する。火の溝の様子を見にいけば、村人が「坊主、ここはこれでいいか」と、僕に普請の図を確かめにくる。半月前まで「無属性の役立たず」と呼ばれていた子供が、いまは村の暮らしの、ささやかな一部になっていた。
それは、ひどく穏やかな日々だった。穏やかすぎて、ときどき、怖くなった。この平穏が、どれほど薄い氷の上に乗っているかを、村でただ一人、僕だけが知っていたから。
その日、ボルツは棒を手に取らなかった。
「今日は、歩く」
言うなり、彼は森のへりへ向かって歩きだした。山刀を腰に提げ、僕にはいつもの鉈を持たせる。村の柵を抜け、灰色の木立の手前で、ボルツは足を止めた。
「いいか。お前は、剣で勝てると思うな」
いきなり、突き放すような言葉だった。
「その体じゃ、いつまでたっても、まともにゃ戦えねえ。半歩いなすのを覚えたって、獣の牙は、お前の半歩より速い。一頭ならまだしも、群れに囲まれりゃ、お前はそれで終わりだ」
うつむきかけた僕に、ボルツは続けた。
「だがな。戦わずに、生き延びる手は、いくらでもある」
彼は、ぬかるみにしゃがみこんだ。太い指で、地面に点いた三本指の跡を、そっとなぞる。
「森を、読め」
それから、ボルツは僕に森の読み方を教えはじめた。
足跡の深さで、獣の重さがわかる。爪先の沈み方で、走っていたのか、歩いていたのかがわかる。跡の縁が崩れていれば古い跡、輪郭が立っていれば新しい跡。風の向きを読めば、獣に匂いを嗅がれずに近づける。鳥の声が途切れた方角には、何かがいる。
「水場を、覚えとけ」ボルツは沢のほうを顎で示した。「迷ったら、低いほうへ降りて水を探せ。水のあるところにゃ、たいてい、けものの道がある。腹が減ったら、食える木の実と、毒のあるやつを見分けろ。それも、生きる術だ」
彼は、足もとの草を何種類か根こそぎ引き抜いて、地面に並べた。食えるもの。腹を下すもの。口にすれば死ぬもの。葉の形、茎の色、折ったときの匂い。僕は一つひとつ、落書き帳に写し取っていった。
「逃げ足ってのは、足の速さじゃねえ」ボルツは言った。「どこに何がいるか、先に知ってる奴が、いちばん遠くまで逃げられる」
僕は、夢中になっていた。
不思議だった。棒を握ると、あれほど何もできなかった体が、こうして地面の跡を読むときには、すうっと素直に動いた。いや——動いているのは、体じゃない。目だ。頭だ。
屋敷で「無属性の役立たず」と呼ばれた頃から、僕にできたのは、ただ見て、書きとめることだけだった。炎を出せない代わりに、炎をじっと観察した。剣を振れない代わりに、剣を振る者の足の運びを数えた。誰からも要らないと言われたその癖が——ここでは、生き延びるための、いちばん確かな術になる。
兄の剣の稽古を、庭の隅でこっそり見ていたことがある。動きを真似ようと枝きれを振り回して、家令に見つかり「無属性が剣の真似事など」と取り上げられた。あのとき帳面に書きとめた、兄の足の運びの図。役に立つはずもないと、自分でも思っていた。
なのに、今。地面に刻まれた獣の歩幅から、その重さと速さを読み取る僕の目は、まぎれもなく、あの頃の癖が育てたものだった。役立たずと笑われた目だけが、今の僕を、生かしている。
地面に膝をついて跡を読む僕を、ボルツは少し離れて眺めていた。
「お前の目は、いい」
ぼそりと、それだけ言った。
胸の奥が、じんと熱くなった。剣ではちっとも褒められない。でも、見ることなら。読むことなら。僕にも、確かに、できることがある。
けれど。
その「読む目」が、やがて、見たくないものを読みはじめた。
ボルツに教わったとおり、僕は足跡を数えていった。三本指の跡。一つ、二つ、三つ。古い跡の上に、新しい跡が重なっている。同じ獣が、何度も同じ場所を通った証だ。
「ボルツ。これ……同じ場所を、行ったり来たりしてる」
「ああ」
「それも、一頭じゃない。大きさが、ばらばらだ。小さいのから……これは、すごく大きい」
僕は、ぬかるみに残った一つの跡の前で、言葉を失った。
それは、いつか柵の夜に襲ってきた大型個体の跡より、さらに、ひと回り大きかった。三本の指の間隔が、僕の手のひらを広げても、まだ届かない。こんな獣が、森の奥にいる。
ボルツが、僕の隣にしゃがんだ。大きな跡を、長いあいだ、見下ろしていた。陽に焼けた顔から、いつもの軽口が消えていた。
「向きを、見ろ」
低い声だった。
僕は、跡の爪先がどちらを向いているかを追った。古い跡も、新しい跡も、大きいのも、小さいのも——爪先は、ひとつ残らず、森の奥から、こちらを向いていた。
村の方を。
「奥から、手前へ」僕は、喉の奥で呟いた。「みんな、村に……向かってる」
「前の氾濫と、同じだ」ボルツは立ち上がった。「奥の何かが、また、獣を押し出してやがる。それも、前より多い。前より、でかい」
僕は、震える指で落書き帳を開いた。
前の波のとき数えた足跡の、数。大きさ。日付。並べて見比べれば、答えは、残酷なほどはっきりしていた。間隔が、詰まっている。前の氾濫の前は、跡が増えるのに半月かかった。今は——わずか数日で、これだ。
緩みが、速くなっている。僕が石台で締め直した蓋は、前よりずっと早く、ほどけかけている。あれは治療じゃなかった。ただの止血だ。傷の奥で膿んでいる本当の原因に、僕は指一本、届いていない。それどころか——あの夜、無理やり蓋をこじ開けて締め直したこと自体が、かえって、底の何かを刺激してしまったのかもしれない。
守るための力が、皮肉にも、守るべきものを、奥から呼び寄せている。
背筋を、冷たいものが這い上がった。
締め直したはずの底の蓋は、もう、こんなにも緩んでいる。僕が眠らせた源は、思っていたよりずっと早く、また目を覚ましかけている。前の波を止めたとき、僕は魔力を底まで使い果たして、ようやく村を救った。それでも、止められたのは「あの規模」までだった。
なら、これは。
前より多く、前より大きな獣が、いっせいに森を出るとき。
僕の知恵と、ボルツの山刀と、火の溝と、柵で——本当に、止められるのか。
答えは、出なかった。出せなかった。
そのとき、ふと、木立の奥が、暗くなった気がした。
顔を上げる。
灰色の木々のずっと向こう、光の届かない奥の闇に——何かが、いた。
大きな、影。動かない。けれど、確かに、こちらを見ている。あの柵の夜、炎ごしに僕だけを見据えた、あの視線。思い出すような、確かめるような、ぞっとする目。
「ボルツ……」
声が、掠れた。
まばたきを、一つ。
その一瞬で、影は消えていた。木立の奥には、ただ、灰色の静けさだけが残っていた。
「どうした」
「……ううん」僕は、首を振った。「何でも、ない」
言えなかった。あの目は、たぶん、僕にしか見えていない。獣が僕を覚えはじめている——そんなことを話したところで、ボルツを、よけいな不安に巻き込むだけだ。それに、確かめようがない。確かめようのないものは、まだ、口にすべきじゃない。
僕は、それを、いつもの落書き帳に書きとめた。「奥の闇に、影。動かず、こちらを見る。柵の夜と同じ目。村の方角を向いた足跡、多数。最大個体、手のひら以上」。
書くことしか、できなかった。けれど、書いておけば、いつか意味になる。意味になったとき、それは、武器になる。
その夜、廃館の囲炉裏端で、僕はなかなか眠れなかった。
壁の文字を、一文字でも早く読まなければ。締め直す術を、もっと無駄なく使えるようにならなければ。体も、もっと、死なないように鍛えなければ。
読む速さ。緩む速さ。強くなる速さ。
三つの競争に、僕はいま、確かに負けかけている。森の足跡は、増えている。奥の闇は、僕を見ている。凪は、もう、終わりかけていた。
明日からは、稽古のあとも、夜の遺跡へ通おう。壁の文字を、もっと読む。前の波を止めた『集める』の一語だけでは、足りない。もっと多くの言葉を、もっと正しい形で。そうすれば、次に締め直すとき、今度はもっと少ない力で、もっと深く、蓋を閉じられるかもしれない。
無駄な一回が、底を刺激する。なら、無駄を、なくすしかない。読むことだけが、それを減らせる。
それでも。
僕は、自分の手のひらを見つめた。今日、地面の跡を読んだ手。棒を握って何度も転がった手。落書き帳に、見たものを書きとめてきた手。
戦う力は、まだない。けれど、僕には、読む目がある。
ボルツに教わった、森を読む目。母から受け継いだのかもしれない、言葉を読む素質。屋敷で役立たずと呼ばれた、見て、書きとめる癖。
全部、僕のものだ。全部、生き延びるための術だ。
「読んでやる」
暗がりに向かって、僕は小さく呟いた。
足跡も、文字も、奥の闇も。お前たちが何を企んでいるのか、ぜんぶ、読み切ってやる。読み切って——間に合わせてやる。
囲炉裏の残り火が、ぱちりと爆ぜた。
明日も、暮れに、半歩。朝には、森を読みに。
凪の終わりへ、僕は、一日ずつ、近づいていった。
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