第19話「閉じる言葉」
森のへりの足跡は、日に日に増えていった。
大きいものも小さいものも、重い個体の爪の深い跡が、一頭ぶんではなく、いくつも折り重なってぬかるみを踏み荒らしている。僕は朝ごとに森の縁を見回り、その数を落書き帳に記録した。記録は嘘をつかない。数字はただ一つのことを告げていた。
次は、群れで来る。それも、あの大きいのが何頭も混じった群れで。
去年の氾濫を火の壁で追い返した夜を、村のみんなはまだ覚えている。けれどあの手は、もう通じない。一頭の大型個体でさえ、火に怯みこそすれ退かなかったのだ。あれが群れで斜面を駆け下りてきたら、継ぎ足したばかりの柵も、油の溝も、ひとたまりもないだろう。
猶予は、もう幾日も残っていなかった。
なぜ、また来るのか。その理由を、僕はもう自分の記録から知っていた。
獣たちの棲み処は、遺跡に近い森の奥——あの赤い光の、すぐそばだ。光も人の気配も嫌う獣が、暗い奥を捨ててまで森を出てくるのは、そこにいられなくなったときだけ。世界の底が脈打って揺れるたび、その震えに耐えきれず、奥から手前へと押し出されてくる。逃げ込んだ先が、たまたま森を抜けたところにある、僕らの村なのだ。
一度は鎮まったはずの赤い光が、このところ、また脈を強めている。だから一度は森の奥へ帰っていた獣が、ふたたび森のへりへにじり出てきた。
そして皮肉なことに、その目覚めを早めているのは、半分はあの底のひとりでの蠢きで——もう半分は、村を守る力を求めて流れに触れ続けている、僕自身の手なのだ。
その事実は、鉛の塊みたいに、僕の胃の底に沈んでいた。
僕は焦っていた。
壁の言葉を読む速さは、どう足掻いても上がらない。体で覚えた動きの分しか読めないという縛りは、思った以上に重かった。あれから増やせた語は、ほんの数えるほど。『集める』。『散らす』。あとは断片のような手応えがいくつか。
この調子で封印の手順を読み解き、世界の底を鎮めるなど、何年先になるかわからない。なのに村に残された時間は、何年どころか、もう幾日もないのだ。
間に合わない。その思いが、夜ごと僕の喉を締めつけた。
その夜も、僕は廃館の机で二つの言葉を睨んでいた。
『集める』と、『散らす/ほどく』。内へ寄せる渦と、外へほどける渦。閉じる言葉と、開く言葉。何度見ても、それは互いに裏返しの、対の形をしていた。
ふと、手が止まった。
……ほどける。
世界の底の、あの赤い光。長い時のなかで、ひとりでにゆっくりとほどけかけている封印。脈打つたびに緩み、緩むたびに奥の獣を押し出す、あの蓋。
あれは『ほどく』が、少しずつ進んでいる状態だ。
だったら、と心臓が大きく鳴った。
その逆を、すればいい。ほどけかけたものを、もう一度『集める』。緩んだ封印を内へ巻き直して、締め直す。底の震えが止まれば、奥から押し出される力も消える。獣はまた森の奥へ帰り、村まで出てくることはなくなる。
源を断てばいい。それだけで、群れは来ない。
僕は千の言葉なんて要らなかったのかもしれない。たった一つ、いちばん大事な言葉を、もう手にしていたんだ。
けれど、すぐに冷たい現実が覆いかぶさってきた。
今の僕の力で世界の底の封印を締め直すなど、できるわけがない。握り拳ほどの渦を二つ三つ作っただけで膝をつき、半日も動けなくなる。そんな小さな力が、世界を縫い止める蓋に届くはずもなかった。
僕の力は、あまりに小さい。
……でも。
ずっと避けてきた一つの像が、頭の隅に浮かび上がった。
遺跡の心臓。その中心に据えられた、低い石の台。首飾りと寸分たがわず合うように彫られた、円いくぼみ。
あそこに首飾りを置けば何かが起きる。いつかそう直感して、危ういからと僕は手を引いた。神代の遺物をわけもわからず起動するのは無謀だと。
でも、今ならわかる。あの心臓はただの広間じゃない。世界の底の流れがすべて集まってくる場所——封印を操るための、いわば操舵室だ。そして母の首飾りは、その舵を握るための鍵。
僕ひとりの力では、世界の底に手は届かない。けれど、あの石台と鍵を使えたら。心臓に集まる流れそのものに『集める』を教え、小さな僕の代わりに、遺跡まるごとに封印を締め直させられるかもしれない。
そこまで考えて、僕はぞっとした。
それは、僕がいちばん恐れてきたことの、ど真ん中だったからだ。
流れに触れるたび、世界の底の赤い光は強く脈打って応えた。力を使うほど、目覚めを早めてしまう。その諸刃を、僕は記録の上で何度も確かめてきた。
なのに今からやろうとしているのは、その赤い光のすぐ隣で——遺跡でいちばん強く流れの集まる心臓で、鍵を使い、遺跡そのものに力を振るわせることだ。
もししくじれば、締め直すどころか、眠りかけの何かを、自分の手で叩き起こすことになる。置いたら何が起きるのか、本当のところは誰も知らない。試した者は、一人もいないのだから。
賢く、慎重に。ずっと僕は、自分にそう言い聞かせてきた。確かめてからだ、急ぐな、と。
でも、確かめている時間は、もうなかった。
僕は目を閉じて、村を思った。
字を教えてくれと紙切れを握ってくる村人たちの顔。莫迦な子だ、と言いながら傷を巻いてくれたマルタの皺の手。村ひとつ分の頭、と僕の頭をぐしゃりと撫でた、ボルツの岩みたいな手のひら。
あの群れが来れば、その全部が消える。
火でも柵でも、もう守れない。なら、守れる見込みのある手は、危なくても、たった一つしか残っていない。
しかも、その第二波を呼んでいるのが半分は僕自身なら、なおさら、僕が止めるしかない。
——やる。恐怖を呑み込んで、僕は決めた。源を止める。誰かが死ぬ前に。
翌朝、柵の補強に出ると、ボルツが杭を担いでいた。
僕の顔を見るなり、彼は手を止めた。何かを見透かすような、鋭い目だった。
「……妙な顔してるな、坊主。何を企んでる」
胸が、ちくりと痛んだ。
話せるものなら、話したかった。世界の底の蓋のことも、鍵のことも、これからやろうとしている無茶のことも。でも、神代の封印なんて話したところで、信じてもらえるはずがない。そしてもし万が一にも信じてもらえたなら、この人はきっと、ついてくる。前に出るのは俺だ、と言って、僕より先にあの赤い光の前に立つ。
それだけは、させられなかった。
「森の様子を、もう一度見てくる」僕は目を逸らして言った。「群れが来る前に、確かめておきたいことがあるんだ」
半分は本当で、半分は嘘だった。
ボルツはしばらく僕を見ていた。それから、低くひとこと。
「一人で抱え込むな、と言ったはずだぞ」
……ごめん。心のなかで、僕はそう詫びた。
そして、信じてくれる人の言葉に、生まれて初めて嘘で背を向けた。
その日の昼過ぎ、僕は東の森へ入った。
松明と、鉈と、わずかな水。首にかけた母の形見。荷物はいつもと変わらない。変わったのは、僕の覚悟だけだった。
森のへりには、もういくつもの赤い目が潜んでいた。けれどどれも、まだ動かない。奥の何かの合図を待つように、じっと息をひそめている。群れが動き出すのは、たぶん今夜か、明日。僕はそれより、ほんの少しだけ早く着けばいい。
獣の気配を縫い、麻紐の印を辿って、僕は遺跡の奥へと進んだ。青白い光が足取りに応えて次々に灯り、その光の川を遡って、僕はあの心臓へ降り立った。
部屋いっぱいの巨大な螺旋。中心へ収束し、脈打つ青白い流れ。その渦のただ中に据えられた、低い石の台。
僕はその前に立った。
胸元から首飾りを外す。銀の盤に刻まれた螺旋が、心臓の鼓動に合わせるように、淡く熱を持っていた。母さんが遺してくれた、たった一つの鍵。
くぼみに、それを近づける。
いつか、ここで手を引いた。危ういからと、賢さを理由に退いた。
でも、今度は退かない。
頭上のはるか地の底から、ずう、と低い地鳴りが伝ってきた。世界の底の赤い光が、僕の覚悟を嗅ぎつけたように、強く脈を打つ。
僕はひとつ息を吸い、母の鍵を、石のくぼみへ下ろした。
次の瞬間、心臓じゅうの螺旋がいっせいに、目も眩む光を噴き上げた。
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