第18話「柵の夜」
約束した朝は、約束どおりに来た。
まだ霜の残る早朝、僕は西の柵へ出た。ゆうべ空にした体は、一晩眠ってどうにか半分ほど戻っている。ボルツはとっくに来ていて、新しい杭の山のそばで掛矢を握っていた。
「来たか。寝坊しなかったのは褒めてやる」
僕は返事の代わりに、まず柵の端から端まで、ゆっくりと歩いた。
地面を見る。柵の高さを見る。森から村までの、ひらけた斜面の傾きを見る。ゆうべ頭の中で何度も組み直した絵を、本物の土地に重ねていく。
「ボルツ。柵を高くするのは正しい。でも、それだけじゃ足りないと思う」
「言ってみろ」
彼は手を止めた。僕の「頭」を、彼はもう端から馬鹿にしない。
「あの大きい足跡は、森の北寄りの筋から来てた。重い個体は、たぶん柵をよじ登れない。代わりに、体ごとぶつかって押し倒そうとするはずだ」
僕は柵のいちばん低い、朽ちかけた一画を指した。
「だから、ぶつかられて困る場所に杭を足すより先に、ぶつかってくる前に止めたい。柵の手前に、浅い溝を掘って油を含ませた枯れ枝を寝かせておく。獣が斜面を駆け下りてきたら、そこに火を放つ。去年と同じだ。火で、まず足を止める」
「去年と同じ、ね」ボルツが片眉を上げた。「お前さんは去年、その火が次は通らねえかもしれんと言ったんじゃなかったか」
鋭い。僕はうなずいた。
「うん。だから、火は『止める』んじゃなくて『遅らせる』ものとして使う。大きいのは火でも完全には退かないかもしれない。でも、ほんの一呼吸ひるませられれば、その間にこっちが選べる。どこで受けるか。誰が前に出るか。家畜と年寄りを、どこへ逃がすか」
ボルツはしばらく僕を見下ろしていた。それから、低く笑った。
「……前に出るのは俺だ。それだけは、お前が決めることじゃねえ」
その日から、村は静かに備えはじめた。
男たちが交代で柵を継ぎ足し、僕の言ったとおりに浅い溝を掘って枯れ枝を寝かせた。マルタたち年寄りと子供は、いざという時に村のいちばん奥の、所領館の石壁の内側へ逃げ込む手筈になった。
マルタは僕に干した芋を握らせて、皺だらけの顔で言った。
「莫迦な子だねえ。お前さんは逃げる側だよ」
僕は曖昧に笑って、それには答えなかった。
遺跡へは、もう前のように半日かけて通えなかった。村の備えに手を貸せば、その分、壁の言葉を読む時間は削れる。それでも僕は、二日に一度は森へ走り、短い時間だけ流れに触れ、螺旋を一つでも多く目に焼きつけて戻った。
読むことも、村を守ることも、どちらも止められない。時間はいつだって、僕の取り分より少なかった。
それが来たのは、霜のとけきらない、月のない夜だった。
最初に異変を告げたのは、犬でも見張りでもなく、家畜だった。
囲いの中の痩せた山羊が、突然いっせいに鳴きはじめた。怯えた、引きつったような声だ。僕は跳ね起きて廃館を飛び出した。空気がいやな匂いを孕んでいる。獣の、あの饐えた臭い。
西の柵のほうで、見張りの男が角笛を吹いた。
来た。
駆けつけた時には、もうボルツが柵の前に立っていた。松明の灯りの輪の、その外側の闇に——いた。
ひと回り半、大きい。
犬ほどだった去年の個体とは、まるで別の獣だった。肩までの高さが、大人の腰ほどもある。灰色の毛は鉄を思わせる硬さで、月のない闇の中、落ち窪んだ二つの赤い目だけが、濁った熾火のように光っていた。
「火だ!」ボルツが吼えた。
男たちが溝の枯れ枝に松明を投げ込む。ぼっ、と炎の帯が斜面に走った。
去年なら、それで群れは左右に割れて逃げ散った。
けれど、この一頭は違った。
炎の壁の前で、確かに足を止めた。顔を背け、赤い目を細めた。光と熱を嫌う、あの性質は健在だ。——だが、退かない。低く身を伏せ、唸りながら、炎の切れ目をじりじりと探している。一呼吸ひるみはした。それだけだった。
僕の予想は、いちばん悪い形で当たっていた。
火は、もう「止める」力じゃない。
獣が動いた。
炎のいちばん薄い一画めがけて、地を蹴る。鉄の塊が突っ込んでくるような、重い突進だった。朽ちかけた柵の杭が、体当たりひとつで、めきりと折れてひしゃげる。
その壊れた隙間へ、巨体がねじ込まれた瞬間——ボルツが、前へ出た。
大男が、掛矢を捨て、腰の山刀を抜く。火傷の腕が、低く構えた。
獣が牙をむいて飛びかかる。ボルツは退かなかった。半歩だけ体を開いて突進をいなし、すれ違いざま、その太い首筋へ刃を叩き込む。
ぐしゃ、と鈍い音がした。普通の獣なら、それで終わっていたはずの一撃だった。
獣がたたらを踏み、横ざまに倒れ込む。村の男たちが、勝った、と息を漏らした。
——けれど、それは倒れなかった。
首から黒い血を噴きながら、その大型の獣は、ありえない執念で、もう一度脚を踏ん張って立ち上がったのだ。
ぞくりとした。
あれは、生き物のすることじゃない。あんな傷で立てるはずがない。痛みも、恐れも、何かが根本から欠け落ちているみたいだった。
立ち上がった獣は、けれど次に襲いかかってはこなかった。
ぐらりと頭を巡らせ——その濁った赤い目が、まっすぐに、僕を捉えた。
炎ごしに、村の男たちの誰でもなく、ボルツでもなく。
僕を。
獲物を見る目じゃなかった。腹を空かせた獣が餌を狙う、あの目とは違う。もっと静かで、もっと底の知れない、何かを「思い出そうとする」ような——僕という存在を、確かめるような視線だった。
心臓が、氷を当てられたように縮んだ。
なぜ、僕を見る。
その一瞬の硬直を、ボルツは見逃さなかった。
「どこ見てやがる!」
彼の二撃目が、獣の脇腹を深くえぐった。さしものそれも、今度はたまらず体勢を崩す。ボルツがすかさず松明を掴み、その顔へ突きつけた。火の粉が散る。獣はようやく、低い咆哮を残して身を翻し、闇と森のほうへ重い足取りで退いていった。
追わなかった。追えば、森の中でこちらが食われる。それを、この村の誰もが知っていた。
炎が枯れ枝を舐めつくし、斜面に焦げた匂いだけが残った。
柵は一画が壊れ、山羊が二頭やられた。けれど人は、誰も死ななかった。ボルツの腕に、牙が掠めた浅い傷が一本増えただけだ。
彼はその傷を布で乱暴に縛りながら、まだ荒い息で、折れた柵を睨んでいた。
「……一頭でこれか」低く、彼は言った。「群れで来たら、火と柵だけじゃ、もたねえな」
誰も、言い返せなかった。
去年、僕らは確かに村を守りきった。あの夜の勝利を、村のみんなが覚えている。だからこそ、今夜の手応えは重かった。同じ手は、もう通らない。森の奥から押し出されてくるものは、去年よりも大きく、強く、そして——どこか、おかしい。
僕は、自分の手のひらを見下ろした。
まだ震えていた。獣の傷のせいじゃない。あの赤い目のせいだ。
あれは確かに、僕を見た。森の浅瀬の獣が、なぜ。
偶然だと思いたかった。けれど、観察は嘘をつかない。
流れを大きく使った翌日は、決まって最深部の赤い光が強く脈打つ——その薄気味の悪い繋がりを、僕はもう何度も記録の上で確かめてきた。世界の底のあれは、僕が流れに触れるたび、たしかに応える。
だとすれば。
その底から森へ押し出されてくる獣たちまでもが、流れに触れ続けている僕の匂いを、嗅ぎ分けはじめている——。
そんな、ありえない想像が、頭から離れなかった。
わからない。今はまだ、何一つ確かめようがない。
でも、わからないことは、いつだって書きとめておく。いつか線がつながる日のために。僕はその夜の獣の目を、震える手で、ノートの新しいページに書きつけた。
『大型個体。火に怯むが退かず。致命傷で立つ。——僕を、見た。』
その夜、村が寝静まってから、僕は折れた柵のそばにひとり残った。
ボルツが、修理の杭を運んできて、僕の隣にどさりと座った。傷の腕で、黙って煙草に火をつける。
「坊主」しばらくして、彼は前を向いたまま言った。「お前、森で何を探してる」
初めての問いだった。けれど、それは詮索の声じゃなかった。
「……この村を、本当に守れるものを」僕は正直に答えた。「火でも柵でもない、もっと、おおもとを止められる何かを」
ボルツは何も言わなかった。長いこと、夜の森を睨んでいた。それから、ぼそりと一言だけ。
「見つけたら、一人で抱え込むな」
煙草の火が、闇の中で小さく赤く灯っていた。
僕は、あの最深部の赤い光を思い出した。あれもこうして、誰にも気づかれない闇の底で、ひとりきり、ゆっくりと脈を強くしている。
急がなきゃいけない。
火が通じなくなった今、村を守れる道は、もうあの壁の言葉の先にしかない。
獣たちが森の奥から押し出されてくるより、ほんの少しだけ早く。僕は、世界の底へ届く言葉を、読み終えなきゃいけない。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや★★★★★評価・感想をいただけると、今後の執筆の励みになります!




