第17話「言葉の手触り」
『集める』。
たった一語が読めただけで、手のひらの中身がこんなにも変わるとは思わなかった。
心臓の広間で目を閉じ、いつものように流れへ意識を寄せる。けれど今日はその前に、ゆうべ書き写したばかりの螺旋を頭の中へ思い浮かべた。外から内へ。渦を巻いて、途中でひと結び。あの言葉の形を、指でなぞるみたいに思い描く。
そうしてから、流れに触れた。
すると、どうだろう。
今までは暗がりを手探りするように形を探していた渦が、まるで最初から行き先を知っていたみたいに、すっと一巻きにまとまった。
息を呑んだ。
大きさは前と変わらない。握り拳ほどの、ささやかな青白い渦だ。けれど、明らかに違う。
これまでの僕は、渦を作るまでに何度も流れを取りこぼし、そのたびに体の「何か」を無駄に削っていた。形が定まらないまま流れを動かそうとして、半分は空回りしていたのだ。
でも今日は違った。最初から正しい形を知っていれば、流れは迷わない。同じ一回でも、こぼれる量がうんと少ない。
手のひらの渦を見つめながら、僕はようやく腑に落ちた。
力の大きさじゃない。やり方だ。
正しい言葉の形を一つ知るたびに、僕は同じことを、より少ない無駄でやれるようになる。
そしてそれは、ただ上達した、という以上の意味を持っていた。
無駄が減るということは、同じことをするのに流れを動かす回数が減るということだ。回数が減れば——あの最深部で脈打つ赤いものを、揺り起こしてしまう回数も減る。
僕が抱えたあの諸刃。流れを使うほど目覚めを早めてしまうという、出口のない枷。
それに抗うたった一つの道が、ここにあった。
闇雲に練習を重ねて引き換えに敵を起こすのではなく、一語ずつ正しい形を「読んで」、最小の手数で確かめていく。賢く使えば使うほど、引き換えに支払う代償は小さくなる。
壁の言葉を読むことは、ただの好奇心じゃない。僕に残された、唯一のまともな戦い方なのだ。
だから僕は、いっそう壁にかじりついた。
ただし、いくら気が急いても、読める言葉は増やせない。
壁の螺旋は、好きに眺めれば意味が浮かぶというものではなかった。僕に読めるのは、自分の体で一度でも「やった」ことのある動きを表した一文字だけだ。『集める』が読めたのも、渦を内へ寄せるあの感覚を、手のひらが先に覚えていたからだった。
体で覚えていない言葉は、どれだけ睨んでも、ただの綺麗な模様のまま黙っている。
修行と解読は、片方だけでは前に進まない。両方の輪が噛み合って、はじめて車は転がる。
僕は落書き帳に、自分が確かに「感じた」動きを一つずつ書き出した。流れを内へ寄せる感じ。寄せた流れが指の先からこぼれていく感じ。枯れる寸前の、底が見える感じ——。
その手触りを物差しにして、壁の螺旋を一つずつ当てていく。地味で、気の遠くなる作業だった。
その日、二つめの言葉に手が届いたのは、まったくの偶然からだった。
渦を保つ稽古をしていて、僕はうっかり集中を切らした。
途端に、内へ寄せていたはずの流れが、堰を切ったように外へ散っていく。指のあいだから砂がこぼれるみたいに、あっという間にほどけて消えた。
いつもなら舌打ちして終わりだ。けれどそのとき、僕の頭の隅で何かが引っかかった。
この感じ。ほどけて、散っていく、この動き。
『集める』のちょうど、逆だ。
僕は弾かれたように顔を上げ、壁を見渡した。『集める』の螺旋を探し、その形を頭に置いたまま、よく似ていて、けれどどこかが裏返しになった螺旋を探す。
あった。
内へ巻き込む渦の、流れの向きをそっくり逆さまにしたような螺旋。中心から外へ、ほどけて広がっていく形。
ぞくりと鳥肌が立った。
読めた。二文字めだ。
たぶんこれは——『散らす』か『ほどく』。集めたものを解いて外へ放つ、あの動きを表す言葉。
その瞬間、壁全体が、急にまるで違うものに見えてきた。
『集める』があって、その裏に『散らす』がある。言葉には、対になる相棒がいるのだ。
ということは、これはやっぱり、でたらめに並んだ模様なんかじゃない。きちんと裏表のある、筋の通った「言葉」なんだ。意味と意味が組み合わさり、つながって、何かを語っている。
壁一面の無数の螺旋が、急に巨大な一冊の書物のページに見えてきた。読めない外国語の本を、たった独りで、一語ずつ訳していくみたいに。
胸の奥が熱くなった。
もしこの言葉を、対も、つながりも、まるごと読めるようになったなら。
いつか僕は、神代の人たちが何をどう封じたのか——その「手順」そのものを、読めるようになるかもしれない。力ずくで蓋を押さえつけるんじゃなく、書いてある通りに、正しく。
そう思った直後、ふと背筋が冷えた。
『ほどく』。
集めて閉じた力を、解いて散らす言葉。
僕がそれを読めたということは、あの最深部の蓋にも、同じ「ほどく」が——いや。誰かが解いているわけじゃない。ただ、長い時の中で、あの蓋がひとりでにほどけかけている。脈打ちながら、ゆっくりと、確実に。
読める言葉が増えるほど、僕は世界の底で起きていることの形が、少しずつ見えてくる。見えてくるほど、その時計の針が止まっていないことも、はっきりしてしまう。
松明の灯りの下で、僕は新しいページに二つめの螺旋を書き写した。
『散らす/ほどく(たぶん)。渦が外へこぼれる感じ。集めるの裏。』
そして、隣の『集める』と線で結んだ。
二つの言葉が、僕のノートの中で初めて手をつないだ。
ふと、首にかけた母の形見に手が伸びた。
銀の首飾りの、円の中に絡む螺旋。何度も見てきたその文様を、僕は今、まったく違う目で見つめていた。
これは、ただの一文字じゃない。
よく見れば、いくつかの細い線が、ほどけては結び、結んではほどけて、一つの流れにつながっている。まるで、何語かが連なってできた——名前か、短い一文のような。
僕がさっき読んだ『集める』の形も、その連なりの中に、確かに混じっている気がした。
母は、この言葉を知っていたんだろうか。
この国の人ではなかった、とハンナは言った。だとすれば母の故郷では、この神代の言葉が、まだ生きて使われていたのかもしれない。
わからない。今の僕にはまだ、この首飾りに刻まれた一文を読み解く力はない。
でも、いつか必ず読む。母が何者だったのか。この螺旋が何を語っているのか。
胸の奥で、また一つ、絶対に手放せない問いが芽を張った。
遺跡を出る頃には、もう日が西へ大きく傾いていた。
空っぽに近い体を引きずって森の道を戻る。流れを使った日のこの帰り道は、いつも足が鉛のように重い。
集落の手前まで来たとき、僕はぎくりと足を止めた。
道のぬかるみに、足跡があった。
灰色の獣のものだ。三本指の、見慣れた形。けれど——大きい。これまで森のへりで見てきたどの個体の跡より、ひと回りもふた回りも大きい。
膝をついて、慎重に指で測った。間違いない。これは村の畑を荒らす犬ほどの獣の跡じゃない。もっと奥の、遺跡に近い場所で育った、大型の個体のものだ。
第二波は、ただ数が戻ってくるだけじゃない。前より大きいものが、前より奥から、押し出されてきている。
背中をいやな汗が伝った。僕は足跡の向きと深さを目に焼きつけ、急いで村へ走った。
集落の西の柵で、ボルツを見つけた。
日暮れの薄明かりの中、大男が一人、太い杭を地面に打ち込んでいた。掛矢を振り下ろすたびに、ずん、と腹に響く音がする。陽に焼けた腕が、汗で鈍く光っていた。片腕の古い火傷の痕が、力を込めるたびにひきつれて動く。
その柵は、もとはもっと低く、ところどころ朽ちて隙間だらけだった。それを彼は、この数日、一人で黙々と作り直していたのだ。
「ボルツ」
僕が駆け寄ると、彼は掛矢を止め、汗を腕で拭った。
「なんだ坊主。今日も森か」
僕がどこで何をしているのか、彼は一度も詳しく訊いてこない。森の遺跡に通っていることも、薄々わかっているはずだ。それでも、根掘り葉掘り問い詰めはしない。働く者の領分には、踏み込まない人だった。
「足跡を見た。森のへりに、いつもより大きいのが一頭。たぶん、奥のほうから来た個体だ」
ボルツの眉が、ぴくりと動いた。彼は鼻を鳴らすでも笑い飛ばすでもなく、ただ静かに僕の目を見た。
「……でかさは。前のと比べてどうだ」
「足跡で、ひと回り半。爪も深い。重い個体だと思う」
彼はしばらく無言で、東の森の闇を睨んだ。それから、地面に刺さった杭を、確かめるように手のひらで叩いた。
「だから柵を高くしてんだ」低い声だった。「火で追い返したのは去年の話だ。同じ手が次も通るとは限らねえ。通らなかった時のために、壁がいる」
彼はもう、次に備えて手を動かしていた。僕の見立てを聞いて慌てるでもなく、ただ、知っていたことが裏付けられたという顔で、淡々と。
僕がふらりとよろけたのを、彼は見逃さなかった。
「おい」
太い手が、肩を掴んで支える。岩みたいに重くて、温かい手だった。
「顔が白い。また飯も食わずに森に籠ってたな」
返事をする前に、彼は腰の布包みを開いて、黒パンの塊を僕の手に押しつけた。いつもの配給より、明らかに厚い一切れだった。
「食え」
「……働かん者は食えん、って」
「お前は働いてんだろうが」
彼はそれだけ言って、また掛矢を握り直した。
僕は黙ってパンをかじった。固くて、塩気が薄くて、けれど空っぽの体に、それは染みるようにうまかった。
ふと、彼が僕の腰の鉈に目をやった。
最初の森入りのとき、彼が「持っていけ」と寄こした、刃こぼれだらけの古い鉈だ。
「貸してみろ」
僕が渡すと、彼は刃を陽にかざし、太い親指の腹で、そっと刃先を撫でた。
「……ちゃんと砥いでるな」ぽつりと言う。「鉈を粗末にする奴は、長生きしねえ。森じゃ特にな」
彼は柵の杭に立てかけてあった砥石を取り、その場で数度、滑らかに刃を走らせた。素人の僕とはまるで違う、慣れた手つきだった。火傷の腕が、刃物の扱いを体で覚えている。
昔、何をしていた人なんだろう。ふと、そう思った。
代官なんて柄でもないこの辺境に、二十年。貴族の誰もが嫌がるこんな土地に、好きこのんで居つく理由なんて、あるはずがないのに。
その問いが顔に出ていたのか、彼は研ぎ終えた鉈を僕に返しながら、訊いてもいないのにぼそりと言った。
「俺がここに流れてきた頃はな、坊主。村はもう半分、森に食われかけてた」
火傷の腕に、ちらと目を落とす。
「あの灰色のに、人もずいぶん持っていかれた。逃げた奴も多い。……だが、誰かが残って柵を直さねえと、村はまるごと森に呑まれる。それだけのことよ」
それきり彼は口を閉じ、また杭を打ちはじめた。
ずん、ずん、と日暮れの村に音が響く。
慰めも、説教もなかった。けれど僕には、その背中が言っていることがわかった気がした。
逃げ場のない場所で、それでも踏みとどまって壁を直し続ける。誰かがそれをやらなければ、守られるはずのものが消えていく。
——それは、遺跡の奥であの蓋と競争している、今の僕と、よく似ていた。
僕はパンの最後のひと欠片を飲み込むと、立ち上がった。
まだ足は重い。けれど、不思議と力が戻ってくる気がした。
「ボルツ。柵、手伝う。明日の朝なら、頭も体も少しは戻ってる」
大男は振り向きもせず、ふん、と鼻を鳴らした。
「来るなら早く来い。寝坊するなよ、村ひとつ分の頭」
その口の端が、ほんの少しだけ持ち上がっているのを、僕は見逃さなかった。
その夜、廃館に戻った僕は、二つめの言葉を書き写したノートを、もう一度開いた。
『集める』と『散らす』。閉じる言葉と、ほどく言葉。
世界の底では、誰の手も借りずに『ほどく』がゆっくりと進んでいる。森の奥からは、前より大きな獣が押し出されてくる。時計の針は、僕が眠っているあいだも止まらない。
でも、僕の手の中にも、今、二つの言葉がある。
昨日より一つ多い。明日はもう一つ増やせるかもしれない。
ボルツが一本ずつ杭を打って柵を高くしていくように、僕も一語ずつ、世界の底へ届く言葉を積み上げていく。
だから読む。一文字でも、早く。
誰よりも賢く、誰よりも慎重に——森に呑まれる前に。
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