第14話「流れに触れる」
遺跡は、静まり返っていた。
氾濫で、中にいた獣たちは、一頭残らず、外へ逃げ出したのだろう。あれほど警戒した入口の巣にも、もう、赤い目はなかった。皮肉なものだ。あの恐ろしい夜が、僕に、誰にも邪魔されない遺跡を、明け渡してくれた。
松明の灯りの中、僕は、迷わず、奥へと進んだ。目指すのは、あの心臓——床一面に螺旋が広がる、大広間。
壁を流れる青白い光が、僕の歩みに、静かに応えて、灯っていく。
今日、僕は、これを、確かめに来た。
炎の前にある"何か"が——この、流れが、本当に、僕に触れられるものなのかを。
心臓の、巨大な螺旋の、中心。首飾りと同じ形の、渦の真ん中に、僕は、腰を下ろした。
壁から、床から、青白い光が、ゆっくりと、中心へ流れ込んでくる。これが、生の力の流れ。仮説では、そうだ。
僕は、その流れに、手を伸ばした。
……何も、起きない。
光は、ただ、僕の手をすり抜けて、流れていく。掴もうとしても、指の間を、通り抜けるだけ。熱くも、冷たくも、ない。手応えなんて、何ひとつ、ない。
何度も、試した。手の形を変え、息を止め、力を込め——どれも、駄目だった。
じわり、と、不安が滲んだ。
……やっぱり、ただの、思い込みだったんだろうか。僕は、本当に、何の力もない、ただの無属性で。あの夜の高揚は、独りよがりの、夢だったんじゃ。
膝を抱えて、僕は、しばらく、動けなかった。
でも——いや、と、思い直す。
みんなは、「結果」を、作ろうとする。手をかざして、炎を、水を、出そうとする。僕も今、同じことを、していた。流れを「掴もう」と、力んでいた。それは結局、現代魔法と、同じやり方だ。
違う。流れは、掴むものじゃない。
炎の前にある"何か"は、力ずくで、どうこうするものじゃ、なかったはずだ。
……感じる、ことから、始めなきゃ。
僕は、目を、閉じた。
手を伸ばすのを、やめる。力むのを、やめる。ただ、息を、ゆっくりと、整える。母の首飾りを、胸の前で、両手で、そっと包んだ。これは、流れに、応えるもの。なら、これが「感じて」いるものを、僕も、感じられるはずだ。
観察は、僕の、いちばん古い武器だ。見ることも、聞くことも、こうやって、静かに、感じることも——みんな、観察だ。
どれくらい、そうしていただろう。
松明の爆ぜる音が、遠のいた。自分の鼓動が、やけに、大きく聞こえる。とくん、とくん、と。
その、鼓動の、合間に。
——あった。
言葉にできない、何か。流れ。確かに、それは、そこに、あった。部屋を、ゆっくりと巡り、首飾りを通って、僕の指先に、ほんの、かすかに、触れている。水でもない、風でもない。もっと、根源的な、"動き"そのもの。
目を閉じているのに、見えるようだった。いや、見えるんじゃない。感じる、んだ。世界に、ずっと満ちていたのに、誰も——僕すら、気づかなかった、その流れが。
炎の、前にある、"何か"。
——あった。本当に、あったんだ。
胸が、熱くなった。涙が、にじんだ。六つの僕が、誰にも信じてもらえずに書いた、あの一行。あれは、世迷言なんかじゃ、なかった。
その瞬間、僕は、夢中になって、その流れを、もっと、と、追いかけた。
とたんに、それは、すっと、指の間から、逃げていった。掴もうとした、その力みが、また、流れを、遠ざける。
目を開けると、どっと、汗が噴き出していた。息が、上がっている。たった、これだけのことで、長い距離を走った後みたいに、疲れ果てていた。
まだ、感じた、だけ。動かすことも、形にすることも、何ひとつ、できていない。
でも。
僕は、確かに、触れた。世界の誰も知らない、本物の魔法の、入口に。
震える手で、落書き帳に、今の感覚を、一文字でも多く、書きつけようとした——その時だった。
ぞわり、と。
背筋を、冷たいものが、這い上がった。
顔を上げる。心臓の、さらに奥。あの、深い闇の底で。
濁った赤い光が——さっきまでより、ほんの少し、強く、脈打っていた。
まるで、今、僕が流れに触れた、その、ほんのわずかな"揺れ"を。
——奥の、何かが、気づいた、みたいに。
松明の火が、ちりちりと、嫌な音を立てた。
僕は、ゆっくりと、立ち上がった。今日は、ここまでだ。深追いは、しない。
でも、心は、もう、決まっていた。
次は、この流れを、動かしてみせる。そして、いつか——あの赤いものを、止める。
炎の、前にある"何か"を、この手に掴む、その日まで。僕の研究は、まだ、始まったばかりだった。
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