第119話「名乗り」
脇腹の糸が抜けたのは、夏の終わりだった。
傷は、白い線になって残った。指でなぞると、少しだけ皮が引きつる。それだけだ。塔の一件からひと月と少し、季節は、いつのまにか秋の入口へ動いていた。
塔は、まだ閉じている。石と漆喰の栓は、そのままだ。下の脅威が消えた話も、下手人が知れた話も、聞かない。ただ、誰も口にしないだけで、みんな、忘れたふりに慣れていった。
僕の暮らしは、狭い輪の中で回っていた。夜明け前の草地で、人目を選んで原初式を組む。昼は院で、崩し字を今の字に直す。夕には井戸端で、セラと指先の稽古をする。傷は塞がり、器は少し育ち、絞りは十のうち、七か八まで来た。
悪くない日々だった。悪くない、というだけの日々でもあった。
上へは、一歩も、近づいていなかった。
その報せが院に貼り出されたのは、秋の初めの朝だった。
人だかりができていた。若い研究生たちが、肩を押し合って、一枚の触書を覗き込んでいる。僕も、背の隙間から、それを読んだ。
――登用試。
その字が、目に刺さった。
三年に一度の催しだ、と、隣の研究生が誰かに教えていた。学園と研究院が合わせて、若い者からごく僅かを選び、上位へ引き上げる。実技と、学識、両方を試す。選ばれた者は、正規の研究生の、そのまた上——宮廷や、記録の中枢へ連なる道の、その入口に近づける。
記録の中枢。
その一語だけで、心の臓が鳴った。
モスが、いつか言った。あの蔵へ入れるのは、王族か、宮廷の魔導師か、よほど上の研究生だけだ、と。
よほど上の研究生。
その入口が、三年に一度、こうして、開く。
だが、触書の下のほうに、資格が並んでいた。正規の課程を修めた者。あるいは、教官の推薦を得た者。
僕は、どちらでもなかった。下働きから、研究院預かりのはみ出し枠に転がり込んだだけの、崩し字読みだ。名簿のいちばん端に、ようやく載った身だった。
人だかりから離れた。届かない場所の話だ。そう思って離れようとして、離れきれなかった。足が、触書の前から動かなかった。
「出たいのか」
背中で、声がした。モスだった。いつのまにか、後ろに立っていた。
「……無理です。推薦が、要る」
「推薦なら、ある」
僕は振り向いた。
「この前の男が、帰り際に置いていった」モスは声を落とした。「読める下働きを、一度、試しの場に出してみろ、とな。上の指図だ。……断る手もあった。だが断れば、あちらは別のやり方でおまえを試す。ならば、こちらの見える場所で試させたほうがましだ」
あの、集める者。少ないほうがいい、と言った男。
その男が、僕を登用試へ押し出そうとしている。
好機だった。同時に、罠のにおいがした。上へ登る梯子が向こうから差し出されるとき、その梯子は、たいてい、向こうの掌の上にある。
迷わなかった、と言えば嘘になる。
梯子が誰の掌にあろうと、登った先があの蔵へ続いているなら。母の首飾りの空白の、その続きが、あそこにあるなら。
自分の足で掘る、と、僕は言った。だが、掘る場所の入口がこんなに高いところにあるなら、まずそこまで登らなければ、鋤の先も届かない。
「出ます」
自分の声が、思ったより静かだった。
モスは、少しのあいだ僕を見ていた。
「登るほど、剥がれるぞ」
あの上着の男と、同じことを言った。違うのは、モスの声には、止める響きがなかったことだ。
「分かってます」
その日のうちに、出場する顔ぶれが、少しずつ知れてきた。
氷の学生の名が、あった。当然だ。実技であいつを超える者はそう多くない。あいつは登用試の場で、また、僕の戦い方を間近で解こうとするだろう。
セラの名もあった。あの娘は、正規の課程の側から、堂々と。
それから、上位の生徒が幾人か。そのうちの一人が、名簿で僕の名を見つけて鼻で笑ったのを、人づてに聞いた。下働きが、登用試に。座興だ、と。
座興、けっこうだ。
笑っている口の前で、崩し字を読んでみせればいい。あいつらの、誰にも読めない一行を。
その夜、草地で、いつもより長く、流れを組んだ。
絞りの火が、指の先で青く尖る。十のうち、八。前より確かだ。だが、登用試では、この火は出せない。出せば、一枚どころか、面ごと剥がれる。人前で見せられるのは、詠唱を被せた、鈍い火だけだ。
登るための力の、いちばん鋭いところを隠したまま、登る。
可笑しな話だった。それでも、初めて、登る先に、日付がついた。
秋が深まる前に、僕は、あの入口の、いちばん下の段に、足をかける。
剥がれながら。
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