第118話「集める者」
その男が来たのは、三日後の昼だった。
院の空気が、来る前から変わっていた。モスが、机の綴じ本を、いつもより丁寧に積み直している。若い研究生たちが、口をつぐんで、手を速めた。誰かが来る、とだけ分かった。誰が、は、誰も言わなかった。
男は、供を一人連れて入ってきた。
地味だが、仕立てのいい上着。——一瞬、あの男かと思って、身体が固くなった。違った。この男は、もっと若く、もっと隙がない。笑わない。目だけで部屋を検めて、値踏みが済むと、院長へ短く会釈した。
「例のものを、引き取りに来た」男は言った。声が乾いていた。「塔の件だ。上で、目を通す」
上。
この前、痩せた一行を送る先だと、モスが言った、あの上だ。その上から、人が、直に降りてきた。
院長が、綴じ本を差し出した。塔の記録。僕が、乾く前の墨を今の字に直した、あの頁を含む束だ。
男は、その場で頁をめくった。引き取るだけかと思ったのに、検める。指が、崩し字の上を滑る。ときどき、止まった。読めない字に、つかえている。
「ここは」男が、供に訊いた。供が覗き込んで、首をひねる。
二人とも、読めていなかった。
僕は、目を伏せた。
読める、と言うな。いつか、番人の老人に言われた。読めるとわかった途端に、話が変わる、と。分かっていた。分かっていて、僕は下を向いた。
だが、モスが、余計なことをした。
「そいつに訊けば、分かる」
モスが、僕を顎で示す。
部屋の目が、いっせいに、僕へ集まった。
男が、僕を見た。初めて、目に色がついた。
「読めるのか」
「……行によります」
断りきれなかった。差し出された頁を受け取る。男の指がつかえていた字は、三代前の書役の癖だった。もう、手の内にある。
「『納』です。北の棟へ納めた、という。次の字は潰れていますが、前後から、たぶん『炭』。冬の炭の、覚え書きです」
男は、僕の顔を、しばらく見ていた。頁ではなく、顔を。
「炭の覚え書きを、そんな束に綴じるものか」
冷たい声だった。試している。
「綴じ間違い、だと思います。前の頁と、紙の質が違うので」
男は、答えなかった。かわりに、供に何か短く命じて、僕の名を控えさせた。
「レイ、と」供が、帳面に書きつける。
また、帳面だ。いつか、竜が祭りを襲ったときも、僕の名は、こうして紙に移された。名が紙に移るたびに、僕は、隠れられなくなっていく。
男は、束を供に持たせて、立ち上がった。去り際、モスへ言った。
「読める下働きは、珍しい。……こういうものを読める者は、少ないほうがいい。分かるな」
モスは、何も言わなかった。
少ないほうがいい。
その言い方は、褒めているようで、そうじゃなかった。読める者が増えると、困る者がいるらしい。番人の老人が、燃やしそこねて袖に入れた綴りのことを、思い出した。
読めない者から遠ざけるための蔵。そこへ、僕の名が、今、控えられた。
男が出ていったあと、院は、しばらく静かだった。
モスが、僕の横に来た。
「なぜ、僕の名を」僕は訊いた。「黙っていてくれても、よかったのに」
「黙ったところで、同じだ」モスは低く言った。「あれは、いずれ気づく。ならば、こちらから見せておくほうが、ましだ。……隠された読み手ほど、あの手の人間は、こわがる」
理屈は分かった。分かったが、腹の底は冷えたままだった。
僕が行きたいのは、あの男の来た、上だ。そこへ登るには、読める者だと、上に知られるしかない。だが、読める者だと知られることは、そのまま、遠ざけられる理由になる。近づくための鍵が、そのまま、締め出される理由だった。
この前モスに言われたことが、また形を変えて戻ってきた。上へ行くほど、目立つ。目立つほど、引き取りたがる手が、増える。
その夜、井戸端で、セラにその話をした。
名前を控えられたこと。少ないほうがいい、と言われたこと。
セラは、桶の水を汲みながら聞いていた。聞き終わって、こう言った。
「その人、あんたの顔、覚えて帰ったんでしょ」
「たぶん」
「じゃあ、次に会うときは、向こうも、あんたを知ってる」セラは桶を置いた。「知られたら、こっちも知り返すしかないじゃない。相手が誰か、どこから来たのか」
僕は、少し驚いた。遠ざけられる、締め出される、とばかり考えていた。セラは、逆から見ていた。向こうが僕を覚えたなら、僕も、向こうを覚えられる。
登る道の先が、初めて、少しだけ、こちらを向いた気がした。
水を汲む音が、夜の底で、規則正しく鳴っていた。
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