第117話「上へ」
雨が上がったのは、四日目の朝だった。
脇腹の糸は、まだ抜けない。動くと引きつるが、痛みは、だいぶ引いた。草地はまだ湿っていたけれど、空には、久しぶりに白い光があった。
塔は、閉じたままだ。氷の栓は溶けて、今は石と、あとから詰めた漆喰で塞がれている。誰も、開ける話をしない。下の脅威が消えたわけでもないのに、みんな、見ないことにしていた。
院の仕事へ戻った。
モスの机の周りは、いつもより片づいていた。散らかっていた古い綴じ本が、紐でまとめられて、脇へ寄せてある。
「これを写せ」モスが、一冊を滑らせた。「読める行だけでいい」
開くと、見覚えのある手蹟だった。塔の記録だ。この前、下の動きのあった年の分を写した、あの束の続き。
違うのは、今度は、いちばん新しい頁に、まだ乾いていない字があることだった。
この前の件が、書かれていた。
削り跡のこと。獣が上がってきたこと。検分隊が下りたこと。全員、無事に戻ったこと。
僕は、その字を目で追った。
人の手、とは、書いていなかった。
教官が、あの部屋で、はっきりそう言ったのに。刃の跡がある、と。年かさの一人が、獣は道具を使わない、と首を振ったのに。
頁には、こうあった。――塔下層に異変。規模、例年を上回る。原因、調査中。以上を上へ送り、判断を仰ぐ。
それだけだった。
人の手も、刃の跡も、誰が、も、無い。
この書き方を、僕は知っている。
いつか写した、古い頁と、同じだ。あのとき、誰かが「季節に非ず」と書いて、それが墨で潰され、規定どおりの一行に直されていた。行き先には、城の奥、とあった。
今度は、墨で潰した跡さえ、無かった。初めから、人の手、とは書かれていない。異変、原因調査中、上へ。それだけだった。
わざとなのか、ただ簡単に済ませただけなのかは、僕には分からない。分かるのは、こう書いておけば、誰も墨を潰す必要がない、ということだけだ。そして結果として、上が引き取る。
部屋いっぱいの人間が見たものが、乾く前の墨の中で、一行に痩せていく。
僕は、筆を持つ手を止めた。
「書けないのか」モスが、顔も上げずに言った。
「……いえ」
「なら、書け。おまえの仕事は、読める行を、今の字に直すことだ。中身を、直すことじゃない」
その言い方には、含みがあった。中身を直すのは別の誰かの仕事だ、と言っているように聞こえた。
「モス先生」僕は訊いた。「これは、この後、どこへ行くんですか」
モスの筆が、止まった。
「上だ」
「上の、どこですか」
「訊くな、と言ったはずだ」モスは、少し声を落とした。「だが、まあ、いい。一度だけ言う。……こういうものは、みな、同じ蔵へ行く。読まれないための蔵だ。おまえが、この前、一行だけ見た、あの行き先だよ」
城の奥。封じの蔵。
あそこへ、また一つ、事実の厚みが、痩せた形で送られていく。そういうものが、あそこに積まれていくのかもしれなかった。
可笑しな話だった。
僕がいちばん行きたい場所と、この国がいちばん人を近づけたくない場所が、同じだった。 母の首飾りの空白を埋めるものも、たぶん、あそこにある。今日、みんなの見たものが痩せて送られていくのも、あそこだ。答えと、あの一行のもとの厚みが、同じ鍵の向こうに、並んでしまっている。
「あそこへは」僕は、我ながら莫迦な問いだと思いながら、訊いた。「どうすれば、入れるんですか」
モスは、今度は、僕の顔を見た。長く。
「俺の知るかぎりだが」と、前置きした。「王族。宮廷の魔導師。あとは、よほど上の研究生。……その三つのどれかにでもならんかぎり、扉は、おまえのために開かん」
よほど上の研究生。
下働きから、はみ出しの編入生になったばかりの僕には、はるか遠い。だが、届かない、とは言われなかった。
「なろうとするな、とは言わん」モスは、また目を伏せた。「だが、上へ行くほど、おまえは目立つ。目立つほど、おまえを引き取りたがる手が増える。……この頁と、同じようにな」
仕立てのいい上着の男の声が、また、耳の底で鳴った。剥がれ続ける。裸になるまで。
隠れて生きたければ、下働きのままでいればよかった。真実に手を届かせたければ、上へ登るしかない。登れば、剥がれる。剥がれれば、あの男の言う「内側」が、口を開けて待っている。
安全な道と、危ない道が、また、同じ一本だった。
それでも、僕は、写しの続きへ、筆を戻した。今日のところは、この痩せた一行を、正しく今の字に直すことしか、できなかった。
いつか、この一行の、もとの厚みを、あの蔵の中で、僕自身の目で読む。
そのときまで、登る。剥がれながら。
院を出ると、空が、まだ明るかった。
雨が上がると、学舎は、急に人の声が増える。その中に、聞き慣れた声が一つ、混じっていた。井戸のほうで、セラが、同じ組の誰かと、何か言い合っている。僕に気づくと、片手だけ、雑に上げた。
登る道は、独りだと思っていた。
今日は、その道の途中に、井戸端の声が一つ、あった。
それだけのことが、痩せた一行の後では、やけに、こたえた。
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