第116話「空白」
庇の下は、二人で座ると、もう狭かった。
セラは膝を抱えて、雨を見ている。僕はその横で、布の上から、脇腹をそっと押さえていた。訊かれないので、こちらからも何も言わなかった。しばらく、雨の音だけがあった。
「痛むの」
やがて、セラが言った。傷のことだ。
「少し」
「馬鹿ね」
それで、また黙った。責める声じゃなかった。ただ、馬鹿ね、と言いたかっただけらしい。
言おうと思ったわけじゃなかった。
でも、あの男の声が、まだ耳の底に残っていた。本物は別の場所にある。外の君には、一生届かない。あの言い方は、僕の中のいちばん柔らかいところを、狙って撫でていった。
撫でられたところが、まだ、ひりひりしている。
どこかに、置きたかった。囲いの内側じゃない、どこかに。
「……見せたいものが、ある」
セラが、こちらを向いた。
僕は、襟の内から紐を引き出した。母の首飾り。ずっと、肌につけている。人に見せたことは、ほとんどない。
雨あかりの下で、それはただの古い金物に見えた。石が一つ。まわりに、細い彫りがめぐっている。
「母のものだ」
「お母さんの」
「もう、いない。ずっと前に。灰の村より、前だ」
セラは、首飾りに顔を寄せた。触ろうとして、指を止める。訊いていいのか迷った手つきだった。
「この彫り」僕は、石のまわりをなぞった。「文字だ。遺跡にあったのと、同じ種類の」
「読めるの、あんたなら」
「途中までは」
僕は、彫りのいちばん端を指した。そこだけ、他と違う。何も彫られていない。つるりとした、へこみが一つ。まわりの文字が、そこへ向かって流れて、その手前で、ぷつりと切れている。
「ここだけ、読めない。何も書いてないからだ。……書いてないのに、まわりの字は、ここへ向かってる。何かが入るはずだった場所が、空いてる。そんなふうに、見える」
「空いてる」
「僕には、そう見える。確かめようがないけど」
母のことを、僕はあまり知らない。覚えているのは、断片だ。
母の一族は、何かを守る人たちだった、と聞かされたことがある。守る、というより、閉じる。開いてはいけないものに、蓋をする。そういう役目の家系だと。
「この首飾りは、たぶん、その印だ。でも、肝心のところが、空いてる。母は、それを僕に言わずに、いなくなった」
言いながら、あの男の声が、また重なった。本物は別の場所にある。
もし、この空白を埋めるものが、どこかにしまってあるなら。母が言えなかったことの続きが、鍵のかかった場所にあるなら。
だから、僕は、その空白の続きを、自分で追いたい。男に見せてもらうんじゃなく、自分の足で。
セラは、しばらく、何も言わなかった。
僕は少し、こわくなった。こんな話をされても、困るだけだろう。答えなんか、あるわけがない。あの男なら、ここで、任せろ、と言ったはずだ。内側なら見える、と。
セラは、そうは言わなかった。
「わたし、その字、読めない」
「知ってる」
「埋め方も、分からない」
「……ああ」
「でも」セラは、首飾りから、僕の顔へ目を移した。「空いてるって、あんたが言うなら、そうなんでしょ。あんたが読めないって言うものを、わたしが読めるふりはしない」
それは、なんでもない言葉のようで、少し、効いた。
あの男は、見えないものを見せてやる、と言った。セラは、見えないものを、見えないままで、そこに置いておいてくれた。
どちらが楽なのかは、分からない。ただ、こっちのほうが、息はしやすかった。
まだ、言っていないことがあった。
僕の本当の名前。正面の門をくぐっていった、兄のこと。それは、まだ、口の奥に引っかかったままだった。首飾りのことは置けても、そこまでは、今日は届かなかった。
セラは、それ以上は訊かなかった。訊けば、また僕が黙ると、分かっているのかもしれない。
僕は、首飾りを襟の内へ戻した。肌に、冷たい石が触れる。いつもの重さだった。
雨は、まだやまない。
「腹、減った」セラが、唐突に言った。
「今の話の流れで、それか」
「関係ないでしょ。減ったものは減った」
僕は、少し笑った。首飾りの話をした後で、笑えるとは思っていなかった。
立ち上がると、脇腹が引きつって、顔をしかめた。セラがため息をついて、僕の腕を少しだけ支えた。すぐに離した。
「ひとりで立てる」
「立ててないでしょ、今」
庇を出ると、雨が、また肩を濡らした。囲いの外は、いつもこうだ。濡れる。
濡れながら、隣に、あの娘がいた。
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