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【第二章完結・第三章開幕】無属性の落ちこぼれ追放令息は、失われた魔法《原初式》を読み解く ~世界の魔法は、最初から間違っていた~  作者: 刈谷るあ
学園編

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第115話「囲い」

 男は、動かなかった。

 僕も、動かなかった。中庭の雨が、二人のあいだで、細く縦に降っている。回廊の陰は乾いていて、男の靴の先まで、濡れていない。

 先に足を進めたのは、僕のほうだった。雨をくぐって、回廊の下へ入る。近づかなければ、話は始まらない。始めて、終わらせるしかなかった。


 「災難だったな」男が言った。ねぎらう声だった。「下は、危なかったろう」

 なぜ知っている、とは訊かなかった。訊けば、知っている、と答えるだけだ。この男は、いつもそうだった。

 「あんたが、掘ったのか」

 言ってしまってから、迂闊だった、と思った。部屋では誰にも言えなかったことを、この男には、こんなにたやすく口に出している。

 男は、笑わなかった。否定も、しなかった。

 「掘る理由が、私にあると思うか」

 「……分からない」

 「そうだ。分からないだろう」男は、少し首を傾けた。「部屋の中でも、誰も分からなかった。役人も、院長も、あの教官も。立派な人たちが雁首を揃えて、誰が、で終わった。違うか」


 部屋の中のことを、この男は知っている。誰が何を言い、何で終わったか。中にいたわけでもないだろうに。

 背中が寒くなった。傷のせいじゃない。

 「あんたは、知ってるのか。誰が掘ったか」

 「さあ」男は、はぐらかした。「知っていると言えば、君は私を疑う。知らないと言えば、君は私に用がなくなる。どちらも、私の得にはならん」

 答えない、という答えだった。


 「一つだけ、確かなことを言おう」男は、声を落とした。「外は、思っているより薄い。今日、君は塔で、隠していたものを一枚、剥がした」

 脇腹の傷が、ずくりと鳴った気がした。

 見られていた。塔の中まで。あるいは、剥がしたことだけを、どこかから嗅ぎ取ったのか。どちらでも、同じことだ。この男の目は、僕の一枚の下まで届いている。

 「剥がれた面は、二度ともとに戻らない。あの氷の学生は、もう嗅ぎつけている。次は役人が、その次は、もっと厄介なのが来る。外にいるかぎり、君は剥がれ続ける。裸になるまで」

 「……脅しか」

 「忠告だ」男は言った。「そして、誘いだ」

 男は、回廊の奥へ、ほんの少し身を引いた。おいで、と言うように。

 「内側は、暖かい。誰も君を裸にしない。君の面は、私が守る」


 「それに」男は続けた。「君が院で写している紙きれ。あれは、上澄みだ。掬っても掬っても、底には届かない。本物は、別の場所にしまってある。外の君には、一生、届かない場所に」

 息が、止まった。

 男は、母のことも、首飾りの空白も、口にしていない。それでも、その"別の場所"という言い方は、僕がいちばん欲しいものの在り処を、指の先でなぞってみせたように聞こえた。知られているのかもしれない。そう思わされているだけかもしれない。どちらでも、心は同じだけ、掻き乱された。


 「内側なら」男は言った。「その底が、見える」

 欲しかった。

 一瞬、本当に、手が動きかけた。


 でも、握った拳を、開いた。

 いつか、セラに言ったことがある。囲われると、自分の足を使わなくなる。使わないと、歩き方を忘れる、と。下手な言い方だと、自分でも思った。その下手な言葉を、今、自分に言い聞かせている。

 この男から底を渡されたら、僕は、そこへ自分の足で辿り着くことを、永遠にやめる。渡された底は、僕の底じゃない。男の掌の上の底だ。

 「……いい」僕は言った。「自分で、掘る」

 男は、僕をしばらく見ていた。怒りも、失望も、なかった。

 「掘る、か」小さく、笑ったようだった。「その言葉は、今日は、あまり縁起がよくないな」

 僕は、答えなかった。


 男は、雨のかからないところを選んで、歩き出した。すれ違いざま、足を止めずに、言った。

 「あの氷の学生には、気をつけろ。あれは、君を解くまでやめん。役人より、よほど質が悪い」

 それは、囲いへ引き込むための言葉にも聞こえた。僕の周りから、目の利く者を一人、遠ざける言葉に。

 だが、そう聞くには、声が、静かすぎた。

 男は、回廊の角を曲がって、消えた。追わなかった。追えば、囲いの内側だ。


 中庭へ、戻った。

 雨に打たれながら、ふと思った。あの男は、内側は暖かい、と言った。誰も裸にしない、と。それは、たぶん本当なんだろう。壁の内側は、風がない。

 でも、壁の内側には、隣がない。

 医務のほうへ、足を向けた。とうに追い出されたセラが、まだ待っているかどうかは、分からなかった。待っていないほうが、道理だった。

 回廊を抜けた先の、庇の下に、あの娘はいた。

 膝を抱えて、退屈そうに、雨を見ている。僕に気づくと、立ち上がって、開口一番、こう言った。

 「遅い」

 それだけだった。傷の具合も、院で何を言われたかも、まだ訊かない。訊く前に、まず、遅い、と言った。

 庇は狭い。壁も屋根も、ろくにない。雨は、ふちから、すぐ横に落ちている。

 「……悪い」

 僕は、そこへ歩いていった。自分の足で。



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