第114話「証」
傷は、思ったより浅かった。
医務の女が、脇腹を検めて、そう言った。肉を裂かれただけで、深いところには届いていない。糸で縫って、布を巻く。動くと引きつるが、動けないほどじゃない。
「運がいい」女は言った。「これで済んだのは」
運じゃない、と思った。あの一瞬、剣でなく火を選んだから、獣に近づかずに済んだ。近づいていれば、脇腹では済まなかった。選んだ結果だ。運じゃない。
でも、それは言わなかった。言えば、なぜ火を選べたのかを、話さなければならなくなる。
セラが外で待っている、と医務の女が言った。付き添いは要らないと追い出したらしい。あとで行く、と伝えてくれと頼んだ。
同じ部屋の隅で、ダリオが肩を診られていた。あの日の傷を、開き直したらしい。無理をしたぶんだ。目が合うと、あいつは口を開きかけて、また閉じた。塔を出てから、ずっとそうだ。何か言おうとして、言えずにいる。
礼を言われるより、そのほうが、気は楽だった。
セラのところへ寄る前に、午後、院から呼び出しが来た。
院の広い部屋に、いつもより多く人がいた。院長。実技の教官。研究院の年かさが何人か。見たことのない、身なりのいい役人らしいのも、後ろのほうに座っている。
教官が、先に話した。
あの穴のことを。縁が整っていたこと。削り跡が新しかったこと。獣が、あんな浅いところまで、道づたいに上がってきたこと。
僕が塔で訴えたことを、裏づける話だった。違うのは、今日は誰も遮らなかったことだ。
季節でざわつくだけだ、と、あの日、教官は言った。今日は言わない。かわりに、削り跡は人の手だと、はっきり言った。同じ口が、だ。
部屋の空気が、重くなった。
誰かが、獣が賢くなって自分で掘ったのでは、と言った。年かさの一人が、首を振る。獣は道具を使わない。削り跡には、刃の跡があった、と。
では、誰が。
その問いだけが、部屋に残った。答える者は、いなかった。
僕には、心当たりが一つあった。
仕立てのいい上着の男。下で何かが動いている、と言った声。あれは、これを知っていたんじゃないか。
でも、口にはできなかった。なぜそう思うのかと訊かれれば、男に囲われかけたことから話さなければならない。読める下働き、と男が僕を嗅ぎ当てたことから。糸を辿れば、僕の隠している中心へ届く。
誰が掘ったか、僕は知らない。ただ、知っていそうな者を、一人だけ、知っている。それを言えないことが、この部屋で、いちばんこたえた。
部屋の隅に、氷の学生もいた。
あいつも、下にいた一人として、話をした。獣の数。氷で塞いだこと。穴の様子。淡々と、見たとおりに。
僕の火のことは、言わなかった。
詠唱と合っていなかった、とも。絞りが練習した手だ、とも。一言も、出さない。塔の外で僕に当ててみせたことを、この部屋ではしまったままにした。
なぜだ、と思った。
密告するなら今だった。役人のいる、この場で。あいつが一言、あの下働きの火はおかしい、と言えば、僕の籍は、たぶん危うくなる。
言わなかった。
部屋を出るとき、氷が横に並んだ。
「言うと思ったか」
小さい声だった。
「……思った」
「くだらん」氷は前を見たまま言った。「おまえは、俺が見つけた問いだ。役人にくれてやる筋はない。あれは、俺が解く」
解く、と言った。暴く、ではなく。
あいつにとって、僕は密告する相手ではなく、解きたい問いらしかった。それが安心していいことなのか、僕には分からなかった。
院を出た。雨は、細くなっていた。
中庭を横切ろうとして、足が止まった。
回廊の柱の陰に、見覚えのある形が立っていた。
仕立てのいい上着。濡れてもいない。ずっと待っていたというより、僕が出てくるのに合わせて現れたように見えた。
男は、僕を見て、何も言わなかった。ただ、塔のほうへ一度だけ目をやって、それから、僕へ戻した。
言葉はなかった。それでも、伝わった。
――言っただろう。下で、何かが動いていると。
男は、柱の陰から動かなかった。僕が近づくのを待つでも、逃げるでもない。ただ、そこにいることを、僕に見せていた。
誰が掘ったのか、部屋の中では、誰も答えられなかった。
その答えを知っていそうな男が、雨を隔てて、僕を見ていた。
脇腹の傷が、布の下で、鈍く疼いた。
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