第113話「退き際」
最初に出てきたのは、頭だった。
穴の縁に、黒い塊が引っかかる。爪が石を掻いて、ずるりと胴が続いた。犬より大きい。毛のない、濡れた肌。あの日の巨体とは違う。もっと小さくて、もっと数のいるやつだ。
一匹目の後ろに、もう一つ。その後ろに、また一つ。
深いところの獣だった。ここまで、ひとりでに上がってくるものじゃない。上がってこられる道が、今はある。
「上へ!」教官が叫んだ。「戦えない者から! 手燭を落とすな!」
退く。
道は、僕がいちばん知っている。三層から二層への上がり口は、二つ。片方は狭くて急だ。数で来られたとき、正面を絞れる。
「左だ! 左の口へ!」
考えるより先に、口が動いた。案内役の仕事だけは、体に染みている。
手燭持ちの二人が先に走る。ダリオが、そのすぐ後ろについた。前へは出るなと言われている。負った肩をかばって、剣は左手だ。それでも、逃げる二人のいちばん近くで、盾になれる位置を、自分から取った。
氷の学生が、穴の前に残った。
片手を上げる。詠唱はない。穴の縁が、みしり、と白く凍った。這い出ようとした一匹の前肢が、氷に噛まれて止まる。
速い。あいつが穴を塞いでいるあいだに、僕たちは退ける。
だが、塞ぎきれるものじゃなかった。凍った縁を後ろの一匹が乗り越えて、横から回り込んでくる。氷の届かない角度へ。
僕は、そっちへ出た。
山刀を抜いて、火を口の中で唱えた。要りもしない詠唱を、いつものように。掌に、平凡な火が灯る。獣の鼻先で弾けさせて、たじろいだところを薙ぐ。手応えはあった。だが浅い。この肌は、厚い。
一匹を退けるあいだに、二匹目が横をすり抜けた。
ダリオのほうへ。
間に合わない。
僕とダリオのあいだには、まだ数歩ある。山刀は、今、別の一匹に食い込んでいる。抜いて投げても、届かない。ダリオは左手一本で、剣を構え直そうとしていた。負った肩では、振り遅れる。
選べ、と、頭のどこかが言った。
食い込んだ刃を、引き抜くか。火を、ほんとうの火にするか。
どちらか一つ。両方をやる手は、なかった。
火を、絞った。
口の中の詠唱を、途中で捨てる。掌の火が、ぎゅっと縮んで、青く尖った。平凡な火のふりを、やめた。針の先ほどに絞った熱を、獣の後ろ肢の付け根へ、まっすぐ飛ばす。肌の厚いところを避けて、薄いところだけを。
獣が短く鳴いて、たたらを踏んだ。ダリオが、その隙に一歩下がる。剣を立て直す。間に合った。
間に合ったが、見られた。
氷の学生が、穴の前から、こちらを見ていた。ほんの一瞬だ。あいつはすぐに前へ向き直って、また縁を凍らせた。何も言わない。
言わないことのほうが、こわかった。あの目は、今の火を、しまい込んだ。
「レイ!」
セラの声だった。
上がり口の手前で、手燭持ちの一人が足をもつれさせて倒れている。その先に、一匹。セラがあいだに入って、火を放っていた。あの娘の火は、まっすぐで、明るい。獣の目を灼く。だが、あの娘の火も、厚い肌には通らない。
僕は走った。倒れた男の襟をつかんで、引き起こす。セラの火が作った一瞬を、無駄にしないように。
「行け! 先に!」
セラは火を絶やさないまま、後ろへ下がる。二人で、殿を作った。
あの決めごとは、ここでは要らなかった。喋って間を作るより、火を絶やさないほうが、ずっと役に立った。
狭い上がり口に、順に体を入れる。
一人ずつしか通れない。そのぶん、獣も一匹ずつしか来られない。教官が先で受け、氷が最後に飛び込んで、口を頭から凍らせた。分厚い氷の栓が、通路を塞ぐ。
向こうで、爪が氷を掻く音がした。すぐには破れない。破れるまでに、上へ出る。
二層を駆け上がった。
誰も、口をきかなかった。息の音と、足音と、後ろで氷を掻く音だけ。手燭の炎が、走るたびに大きく揺れる。
一層の光が見えたとき、脇腹が濡れているのに気づいた。いつ裂かれたのか、覚えていない。火を絞ったときか、男を引き起こしたときか。痛みは、後から来た。
外は、まだ降っていた。
塔の口から転がり出て、雨に打たれて、ようやく、みんな足を止めた。手燭持ちの二人は、腰が抜けて座り込んでいる。ダリオが荒い息のまま、僕に向かって何か言おうとして、やめた。礼を言おうとして、言葉が見つからなかったんだろう。
誰も、死ななかった。
誰一人、下へ置いてこなかった。
氷の学生が、僕の横に立った。
雨に髪を濡らしたまま、塔の口を見ている。
「さっきの火」
低い声だった。
「詠唱と、合ってなかった」
僕は答えなかった。脇腹の傷が、雨に染みる。
「あの絞りかたは、練習した奴の手だ。まぐれじゃない」氷は、こちらを見ずに続けた。「下手な火を、わざわざ下手に見せてた。そういうことだろう」
当ててきた。半分は。
「……買いかぶりだ」
「そうかもしれん」氷は、それ以上は詰めなかった。詰めるかわりに、一つだけ置いていった。「次は、隠しながら守るのは無理だぞ。今日みたいには、いかない」
それは、脅しじゃなかった。忠告でも、なかった。
ただの、事実だった。
塔の口は、もう縄では塞げなかった。
石を積んで、氷で固める。そのあいだも、下では、爪が氷を掻いている。掘った誰かは、まだあの下にいるのかもしれなかった。
僕は、閉じていく口を見ながら、脇腹を押さえた。
選んだ。今日は、守るほうを。
そのぶん、隠すほうから、一枚、剥がれた。
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