第112話「凪」
塔の口から縄が外されたのは、それから三日後だった。
朝もやの中に、見慣れた入口があった。何度も、夜明け前にひとりでくぐった穴だ。あのときは、誰にも見られない暗がりだった。今日は、灯りと人の声で埋まっている。同じ場所とは思えなかった。
教官が先頭に立った。手燭を持った研究院の者が二人。氷の学生。それから、セラとダリオ。
ダリオは、あの日の傷がまだ癒えきっていない。肩の動かし方で分かった。それでも来たのは、あの日の層を実際に見た者が、そう多くないからだ。前へは出さない、後詰めでいい、という約束で、本人が頼み込んだと聞いた。何も言わずに、僕の少し後ろに立った。
「案内、頼む」教官が、僕を見ずに言った。あの日、僕の訴えを払った声とは、少し違っていた。低くなっている。
下り始める。
一層、二層。ここまでは、何度も来ている。道は体が覚えていた。教官の足より僕の足のほうが速くなりかけて、慌てて歩幅を落とした。案内人が先導より速いのは、おかしい。
浅いところは、静かだった。
静かすぎた。
ふだんなら、二層のあたりで小さいのが何匹か出る。角の丸い、群れない獣だ。今日は、一匹もいない。物音がしない。手燭の炎が、まっすぐ立っている。風がない。
あの日と同じだ、と思った。あふれる前の、あの凪だ。
言おうとして、やめた。言えば、なぜ分かるのかと訊かれる。僕は記録の案内役で、下を読める理由を、うまく説明できなかった。
氷の学生が、僕の横に並んだ。
「気づいてるな」
小さい声だった。
「何が」
「静かすぎる。おまえ、さっきから足が、逃げ道を数えてる」
背筋が冷えた。歩き方まで読まれている。この男は、僕の力そのものより、体の癖を拾う。
「……気のせいだ」
「そう思うなら、それでいい」氷は前へ戻った。信じてはいなかった。ただ、今は詰めてこない。それだけのことだった。
三層まで下りた。あの日、僕たちが戦った層だ。
教官が手を挙げて、皆を止めた。
あった。
壁の一部が、崩れている。ただの崩落じゃない。僕はここを知っていた。夜ごと、この壁の前で流れを組んだ。ひび一つ、覚えている。
崩れているんじゃない。
開けられている。
人の背より高い口が、下へ向かって斜めに開いていた。縁が、妙に整っている。獣が体でこじ開けたなら、こんな縁にはならない。何かの道具で削った跡だった。削り跡は角がまだ立っていて、風化していない。縁の土も、踏み固められていない。ここに前からあった穴じゃない。ついこの間、開けられたものだ。
僕は、しゃがんで縁に手を寄せた。掌の先で、ほんの少しだけ、流れを組みかけた。残り香のようなものが読めれば、何が通ったか分かるかもしれない。そう思ったのだ。
「何してる」教官が言った。
手を止めた。氷が、こちらを見ていた。
「……いえ。掘り跡が、新しいので」
それは、嘘じゃなかった。
自然に崩れたのでも、獣が空けたのでもない。誰かが、下へ向けて道を通した。何のためかは、分からない。ただ、季節でざわつくだけの下から、あんなものがひとりでに湧いたのではないかもしれない。そう疑うには、この縁だけで十分だった。
あの日、あの巨体がどこから来たのか。その答えのように見えるものが、目の前に口を開けている。まだ、答えだと決めつけるには早い。それでも、目を逸らせる眺めではなかった。
教官が、口を覗き込んだまま、動かなかった。あの日、季節のせいだと言った男が、今、季節では説明のつかないものを、目の前にしている。何も言わなかった。言えることが、なかったんだろう。
セラが、そっと僕の横に来た。
「あんた、顔に出てる」ささやくように言う。「なんか気づいた顔」
「……そうか」
「喋ろうか」
あの、決めごとだった。僕が隠したいとき、あの娘が喋りだして、こちらの間を作る。ここには、隠すべき手はなかった。それでも、あの娘が横で口を開くと決めていてくれるだけで、少し息がしやすかった。
「いや。今は、いい」
セラは、うなずいた。
口の底から、風が来た。
ずっと止まっていた手燭の炎が、いっせいに一方へ傾いだ。下から、冷たいものが、押し上げてくる。
風が動くというのは、下で、何かが動いたということだ。
凪は、終わった。
「戻るぞ」教官が、初めて、急いだ声を出した。「今日はここまでだ。上へ報せて――」
言い終わらないうちに、口の奥で、石が鳴った。
一つじゃなかった。
あの日、退いていったものが、また来る、とセラに言った。あれは、脅しじゃなかったらしい。
僕は、山刀の柄に手をかけた。
剣に手を取られれば、そのぶん、隠すほうの手が回らない。隠しながら、守る。両方は、たぶん、今日はできない。あの日は、選ぶ前に体が動いた。今日は、どちらかを、僕が選ばなければならなかった。
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