第120話「読めぬふり」
登用試の学識試は、秋の三日目に行われた。
場所は、院のいちばん奥の、ふだん使わない広間だった。長机が並び、一人ずつ、間を空けて座らされる。私語は禁じ。持ち込みも禁じ。配られるのは、筆と、紙と、それから——古い記録の束の、写しだった。
「読める行を、今の字に直せ」試験官が言った。「読めぬ行は、読めぬと書け。当て推量で埋めた者は、落とす」
当て推量で埋めた者は、落とす。
崩し字読みには、都合のいい決まりだった。読めない者ほど、それらしく埋めたくなる。僕は、埋めない。読めるものだけを、読む。
広間の後ろに、見知った背があった。
あの、集める者だ。壁ぎわの椅子に、供も連れず、一人で座っている。試験を見に来たのか、僕を見に来たのか。たぶん、両方だ。あの男が僕を押し出した以上、僕がどれだけ読めるかを、確かめる権利があると思っているのだろう。
見せてやればいい。半分だけ。
束が配られた。
開いて、すぐに分かった。三代、四代前の、いろんな書役の手が混ざっている。癖の強いのも、崩れきったのもある。だが、どれも人間の字だ。書いた者の論理が、崩れの向こうに透けている。
筆を動かした。
北の棟の出納。薬草の目録。古い訴えの控え。読める行が、一つずつ今の字になって、紙の上に立ち上がっていく。
隣の机で、上位の生徒が、一枚目で、もう唸っていた。座興だと笑ったうちの一人だ。筆が進んでいない。読めない行を前に、埋めるか、諦めるかで迷っている。
僕は、迷わなかった。読めるものは読める。読めないものは、まだ来ていなかった。
束の、終わりのほうに、それはあった。
一枚、紙の色が違う。ほかより、ずっと古い。字も、違った。
崩し字じゃない。
周りの者には、たぶん、虫の食った飾りか、滲んだ染みにしか見えない。こんな頁が、どういうわけで束に混じったのかは、分からない。誰にも読めない、埋め草の一枚。僕には、罠のようにも見えた。
僕には、読めた。
遺跡の壁と、母の首飾りに刻まれたものと、同じ字だった。あの古い字。名も知らない、けれど、僕の指だけが知っている字。
指が、止まった。
文字が、こちらへ流れ込んでくる。守る。閉じる。あずかる。読めてしまう。その先に、まだ続きがある。母の一族のことが、あの空白のことが、この数行の先に書いてあるかもしれない。
欲しかった。
喉から手が出るほど、欲しかった。
僕は、筆を置いた。
この一枚を読めば、僕が読めるのは崩し字だけじゃないと、知れる。あの古い字まで読む下働き。そんなものがこの広間に一人いると、後ろの椅子の男に知られる。
それは、面が剥がれるどころじゃない。皮の下の、肉が見える。
僕は、その頁に、こう書いた。
――読めず。
書いた手が、少し震えた。読めるものを読めぬと書くのは、初めてだった。読めないと書くより、ずっと、こたえた。
欲しいものを、自分の手で伏せた。ここでは、まだ届く時じゃない。あの入口の、いちばん下の段に足をかけただけの身で、伸ばしていい手じゃなかった。
試験官が、束を集めていった。あの一枚も、ほかの紙と一緒に束ねられて、運ばれていく。どこへ運ばれるかは、たぶん、見当がついた。
結果は、その日の夕方に貼り出された。
学識試を通ったのは、出た者の半分もいなかった。僕の名は、上のほうにあった。
座興だと笑った上位生の名は、無かった。あいつは貼り紙の前で、僕の名と自分の空白をしばらく見比べて、それから何も言わずに行った。読めない、と正直に書けなかったのだろう。
氷の名は、あった。真ん中あたりに。あいつは実技の男だ。学識で真ん中なら、上等だ。
セラの名も、僕の少し下にあった。
貼り紙の前で、あの娘が、僕の名を指でつついた。
「ちゃんと上にいるじゃない」
「……お前もな」
「わたしは正規の課程よ。あんたは、下働きから、これ」セラは、少しだけ笑った。「その顔で、よく澄ましてられるわね」
澄ましてなんか、いなかった。伏せた一枚の重さが、まだ指に残っていた。
貼り紙から離れるとき、後ろの椅子の男と、目が合った。
男は、立ち上がりかけていた。僕を見て、ほんの少し、首を傾けた。何かを確かめるように。
あの一枚を、僕が読めなかったと思っているのか。それとも、読めたのに伏せたと見抜いているのか。乾いた目からは、どちらとも読めなかった。
男は、何も言わずに広間を出ていった。
残るは、実技だ。
学識は、僕の土俵だった。それでも、いちばん読みたいものを伏せて通った。次は、僕の土俵じゃない。隠すことしかできない土俵で、氷の目の前で、鈍い火だけで、上位の連中と競る。
剥がれずに、勝てるか。
まだ、分からなかった。
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