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獣の王は花嫁にもう一度恋をする  作者: けもこ


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第8話① 改革派の侯爵

※長いので第8話を①・②として分けています※

教会の屋根裏にある修道士の為の宿泊室で、ロイドに半ば閉じ込められるように抱きしめられ横になったものの、ビアンカは少しも眠れなかった。

目を閉じるたびに地下室の光景が瞼の裏に浮かぶ。


赤い布。

硝子棚。

銀の名札。

作り物の微笑みを浮かべた母の顔。


甘い香水の匂いは、何度手を洗っても、髪や服の奥に染みついているような気がした。


落ち着かず身じろぎをすると、ロイドがつむじに唇を押し当てて呟いた。


「眠れないか」


「……ロイだって眠ってないでしょう」


ビアンカは身をよじってロイドの顔を覗き込む。


ロイドは返事をしなかった。黒い耳がわずかに伏せられている。その横顔は、夜の間に何年も年を取ったように見えた。


ビアンカはそっと手を伸ばし、彼の頬に触れた。


「ロイ」

「なんだ」

「私、壊れてないわ」


その言葉に、ロイドの眉が動いた。


「壊れてから言われても困る」

「もう。私、そんなにか弱くないわよ」


拗ねたように頬を膨らましてみる。

いつもなら、こうしたやりとりでロイドは笑ってくれる。けれど今は、唇の端すら動かなかった。


「本当は、連れて行きたくなかった。見せたくなんてなかったよ」


彼は低く言った。


「地下へ降りた時も、扉を開けた時も、今すぐおまえを抱えて逃げたかった」

「わかってる」

「でも、おまえが見ると言えば、それを遮ることはできない」

「そうね。ロイは私の意思を絶対に尊重してくれる」

「俺は、絶対に逃げないおまえのそういうところが誇らしくもあり…」


ロイドは、そこで一度言葉を切った。


「そして、怖いんだ」


ビアンカは静かにそう言う彼の瞳を見つめた。


彼が弱音を吐くことは、滅多にない。群れの前ではなおさらだ。いつも先に立ち、声を荒げることなく命令を出し、どれだけ危険な時でも視線を逸らさない。


そのロイドが、今はビアンカの指を握り返す手に、はっきりと恐れを滲ませていた。


「ロイ。私のことをそんなに心配しないで」

「......自分のことならいいんだ。でも、おまえのことだと怖くて堪らないな」


ロイドはビアンカの指を握りこむと、そっとそれを唇に押し当てた。


ビアンカの胸がキュッと絞られるように痛んだ。


「私も怖いわ」


ロイドが顔を上げる。


「あなたが、私のために自分を犠牲にするのが怖い」


ほんの短い沈黙が落ちた。

窓の外では、夜明け前の鳥が鳴いている。まだ空は暗い。けれど、黒一色ではなくなっていた。


ビアンカは、ロイドの手を両手で包んだ。


「だから、一緒にいるの。私が前に出すぎたら、あなたが止めて。あなたが怒りに飲まれそうになったら、私が引き戻す」

「……おまえに何かあったらと思うと、まともでいられる自信がないな。できるかどうか」

「できるわ。私たちは、ずっとそうしてきたでしょう」


ロイドはようやく、かすかに笑った。


「やっぱり強いな、俺の嫁は」

「強くないわよ」


ビアンカは首を横に振った。


「強くありたいだけよ。ずっと、あなたの隣に立つために」


ロイドはビアンカを引き寄せ、額を重ねた。

それは口づけよりも静かな仕草だった。


「絶対にずっと隣にいてくれ」

「ええ」

「けして、一人でいくな」


ビアンカは一瞬だけ答えに詰まった。

それをロイドは見逃さなかった。


「ヴィー」

「……行かないわ」

「本当に約束できるのか?」

「あー。もし先に動くことがあっても必ずあなたの隣に戻ると約束するわ」


ロイドの瞳が鋭くなる。

ビアンカはその目を見返した。


「できる限りあなたとともに行動する。だから、あなたも一人で抱え込まないで」


ロイドは長い息を吐いた。


「できる限り、か」

「あなたも似たようなものでしょう」

「否定できないな」


それから互いに、どうしようもないなというように笑いをこぼした。


しばらくして、廊下の向こうから足音がした。

控えめだが、急いでいる音。


若い神父が扉を叩く。


「ロイド様、ビアンカ様。ヨナス様がお呼びです。ハネイグ侯爵の使いが到着しました」


二人はどちらからというでもなく唇を合わせ、互いに手を握り合った。


夜が終わる。

そして、戦いが始まるのだ。


◇◇◇


司祭室は、すでに緊張が満ちていた。


ヨナスは机の前に立ち、グルドは壁際で腕を組んでいる。テルマ、ネイサ、ミゲルたちも戻って来ていた。三人とも外套に煤や泥をつけ、夜通し動き回っていたことがわかる。


机の上には、ジェラルドの地下室から持ち出した帳簿と名簿、香水瓶、そして保安官事務所の地下牢の鍵束が並べられていた。


ロイドが部屋に入ると、グルドが短く頷いた。


「保安官事務所の奥に、隠し扉があった。今日の時点では開けて確認する余裕が無かったが.......だが、中に誰かいる」

「子どもか」

「たぶんな。若いのが泣き声を聞いた」


ビアンカの顔が強張る。


「どうして置いてきたの?すぐに、行きましょう」

「待て」


ヨナスが止めた。


「子どもは商品だ。すぐには命は取られない。今、正面から動けば、ジェラルドたちが潜ってしまう。地下室の証拠を押さえたばかりだ。異変に気づけばむしろ危険だろう」


「でも、子どもたちがいるかもしれないのよ」

「だからこそ、救出と告発を同時にやる」


その時、小さなノックとともに扉が開いた。


神父に案内されて入ってきたのは、黒い外套をまとった中年の男。背は高く、髪にはわずかに銀が混じっている。装飾を抑えた服装だが、立ち姿だけで高位の人間だとわかる。


貴族特有の傲慢さはない。

けれど、その男には場を支配する静かな圧があった。


男は司祭室の中央で足を止め、ロイドに手を差し出した。


「先日はどうも、黒狼王」


ロイドの目が細くなる。


「俺は、そう呼ばれるのは好きじゃないんだ」

「では、ロイド・ウォルフガング殿」


出した手を引いて微かに苦笑いしながら、男はわずかに頭を下げた。

そして、ビアンカの方を向くとそれまでとは打って変わった上品な笑みを浮かべ、声のトーンを上げた。


「これはこれはお美しい。お噂はかねがね。あなたが、黒牙の群れの右腕であり、ロイド殿の番ビアンカ嬢ですね。私はロベルト・ハネイグ。この国を、これ以上腐らせたくないと考えている貴族の一人ですよ」


すっと手を取られ、危うく手の甲に口づけされそうになって驚いて手を引いた。

隣でロイドの歯ぎしりが聞こえた。


改革派の中心であり、黒牙の群れの支援者でもあるロベルト・ハイネグ。

物腰は柔らかく、笑みを絶やさないその顔の奥に、ビアンカには、なんとも読み切らない思惑が透けて見えた。

ヨナスの言う通り、この男は完全には信用しきれない。


テルマが小さく鼻を鳴らした。


「貴族様が言うと、なんか胡散臭いですね」

「テルマ」


グルドが低く咎める。


しかしロベルトは怒らなかった。


「当然の反応ですね。君たちが貴族を信用しない理由は、この帳簿を見れば十分にわかる」


彼は机の上の帳簿に視線を落とした。

ヨナスが一冊を差し出す。

ロベルトは数行読んだだけで、表情を消した。


「……王太子付き侍従長室」


「この香水瓶に見覚えは?」


ビアンカが箱に入った香水瓶を彼に見せた。


ロベルトは香水瓶を手に取り、底に刻まれた紋章を確かめた。


その瞬間、ほんのわずかに眉が動く。


「ああ。実に見覚えがあるね」


ロイドが低く言う。


「王太子のものか」

「正確には、王太子の私室に出入りする者に与えられる印だ。王太子本人の所有物と断じるには弱い。だが、王室の者がこの売買に関わっている証拠にはなる」

「弱い?」


テルマが噛みつくように言った。


「獣人の剥製部屋があって、帳簿があって、子どもが消えてて、それでも弱いって言うんですか」

「握り潰される余地がある、という意味だ」


飄々としていて、周囲の黒牙のメンバーの熱量とは相いれない、ロベルトの声は冷静そのものだった。


「王都の貴族は、罪を消す術に長けている。帳簿は偽造だと言い、香水瓶は盗品だと言うでしょう。地下室はジェラルド個人の狂気とされる。死者は証言できないですからね」


その言葉に、ビアンカの指が、ぎゅっと握られる。

ロベルトはその手を見てから、静かに続けた。


「だから、死者の代わりに、生きている者の声がいるのですよ」


ヨナスが頷く。


「保安官事務所の地下だな」

「ええ」


ロベルトは机の上の鍵束に目を向けた。


「そこに子どもたちがいるなら、今夜のうちに保護しましょう。怪我人がいれば教会へ。証言できる者は、私の保護下へ移す」


ロイドが一歩前へ出た。


「俺たちが動こう」

「もちろんだ。君たち以上に、この町で夜を動くのに最適な者はいない」


そのロベルトの返しにテルマが反応する。


「なら、あんたは何をしてくれるわけ?」


声には棘があった。

ロベルトはそれを受けて微かに笑みを浮かべた。


「私は、明朝、正式な査察令を持って保安官事務所へ入る」


部屋にいた者たちが息を飲む。


「そんなことをすれば、侯爵家もただでは済まないだろう」


ヨナスが言った。


「構わない」

「ロベルト」

「今、動けないなら、私が貴族でいる意味がないよ」


その声は静かだった。だが、揺るがない。


ロベルトはロイドを見た。


「君たちは闇から証拠を拾った。ならば私は、昼の光の下にそれを晒す。機は熟したというわけだ」


ロイドは黙った。

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