第7話① 死者たちの帳簿
※長いので第7話を①・②として分けています※
夜明け前の教会は、ひどく静かだった。
礼拝堂の高い窓にはまだ光が入らず、石造りの床は夜の冷たさを残している。祭壇の前に灯された小さな蝋燭だけが、暗がりの中で揺れていた。
ロイドとビアンカが裏口から入ると、迎え入れた若い神父が扉を閉めた。
「ヨナス様は司祭室に」
ロイドは短く頷き、肩にかけていた袋を抱え直す。
袋の中には、ジェラルドの地下室から持ち出した帳簿と名簿、封蝋のついた香水瓶が入っていた。革と紙の重みしかないはずなのに、まるで死者たちの沈黙そのものを背負っているようだった。
ビアンカは、ずっと黙っていた。
屋敷を出てからここまで、彼女は一度も振り返らなかった。走る足も、息の乱れも、いつもと変わらない。けれどロイドにはわかっていた。
彼女の指先は冷えきっている。
外套の下で、細く震えている。
「ヴィー」
呼ぶと、ビアンカは少し遅れて顔を上げた。
「なに?」
「歩けるか」
「平気よ」
そう返す声は、いつもと同じように強かった。
だが、ロイドはその強さが痛かった。
彼女はいつも、平気だと言う。
壊れそうな時も、いつも同じ顔で。
ロイドは何も言わず、ビアンカの手を取った。
ビアンカは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐにその手を握り返す。強くはない。けれど確かに、そこに縋るような力があった。
「……ありがとう」
小さな声だった。
ロイドは答えなかった。
答える代わりに、その手を離さず司祭室へ向かった。
◇◇◇
司祭室では、ヨナスが起きていた。
司祭服を纏った片腕のない男は、机の上に広げた地図と書類を見つめていたが、二人の姿を見た瞬間、表情を変えた。
「遅い。何があった」
ロイドは袋を机の上に置いた。
鈍い音がする。
「ジェラルドの私邸に地下室があった」
その一言だけで、ヨナスの顔から余裕が消えた。
「地下室?」
「獣人の剥製が並んでいた」
部屋の空気が止まった。
ヨナスは、しばらく何も言わなかった。白く濁った片目が、机の上の袋に向けられる。
「……見たのか」
その問いは、ロイドではなくビアンカへ向けられていた。
ビアンカは頷いた。
「見たわ」
それだけだった。
ヨナスは椅子を引き、ロイドに目配せした。
「ビアンカ。おまえにはわからせたくなかったのに」
「私は――」
「座れ、ビアンカ」
静かだが強いヨナスの声が司祭室に響く。
「ここから先は、怒りだけで立っていられる話じゃない」
ビアンカは唇を引き結んだ。
ロイドがそっと肩に手を添えると、強張った肩から力を抜き、ようやく彼女は椅子に腰を下ろした。
ロイドはすぐ隣に立った。彼女の全てを支えたい。そういう距離だった。
ヨナスはその様子を一瞥しただけで、何も言わず袋を開けた。
最初に出てきたのは、革表紙の帳簿だった。
次に、保安官事務所の印が押された名簿。
剥製工房への支払い明細。
買い手の控え。
そして、布に包まれた香水瓶。
ヨナスは帳簿の一冊を開いた。
紙をめくる音だけが、室内に響く。
一枚。
また一枚。
彼の眉間に、深い皺が刻まれていった。
「……これは」
ロイドは机の向こうに立ったまま、低く言った。
「名前がある。金額も、納品先も、日付も」
「品目も、か」
ヨナスの声がかすれた。
帳簿の行には、美しい筆跡で残酷な言葉が並んでいる。
白狼雌。
狐耳幼体。
猫獣人尾部。
狼獣人胸像。
銀毛女体、保存加工済。
ビアンカは視線を落とした。
その中に、母を指す記録があるのだとわかっていた。だが今は、まだ見られなかった。
見てしまえば、動けなくなる。
ヨナスは別の紙束を手に取る。
「保安官事務所に“保護”された子どもの名簿だな」
「三か月で十二人。そのうち赤線が引かれていたのが五人」
ロイドが答える。
「孤児院で聞いた名前もあったわ」
ビアンカが続けた。
「ミラ。トマ。エリアス。皆、貧民街の子よ。親が罪を着せられて、保安官事務所に連れて行かれたって聞いていた」
ヨナスの指が止まった。
「赤線の意味は?」
「地下室にあった別帳簿と照合すればわかる」
ロイドは、もう一冊の帳簿を開いた。
そこには、別の筆跡で出荷先が記されていた。
王都、北区。
王都、サルヴィア宮。
ラドクリフ公爵家。
マグラス伯爵家。
王太子付き侍従長室。
ヨナスの顔色が変わった。
「……王太子付き、だと」
ビアンカが顔を上げる。
「その香水瓶にも、同じ紋があったわ」
ロイドは布をほどき、机の上に香水瓶を置いた。
薄い硝子の底に刻まれていたのは、王家に連なる者だけが使える紋章だった。正確には、王太子の私的な所持品につけられる印。
ヨナスはそれを手に取り、光に透かした。
「本物だ」
「本当に?確証があるのか?」
ロイドが問う。
「これは王都の専属工房だけが作る硝子だ。封蝋も同じ」
ヨナスは香水瓶を机に置いた。
その音は小さかったが、室内には妙に重く響いた。
「これは、ただの保安官の犯罪じゃない」
誰も口を挟まなかった。
ヨナスは帳簿をもう一度見下ろす。
「ジェラルドは実行役だ。狩る者、集める者、隠す者。だが、買っているのは王都の貴族たちだ。しかも王太子の周辺まで名が出ている」
「だから何だ」
ロイドの声は、低く冷えていた。
「王族なら見逃せと言うのか」
「逆だ」
ヨナスは鋭く返した。
「だから、やり方を間違えれば揉み消される。おまえが怒りに任せて王都へ乗り込めば、黒牙の群れはただの反逆者として処理される。帳簿は偽物にされ、地下室は焼かれ、死者たちはまた黙らされる」
ロイドの拳が、机の縁を軋ませた。
「なら、どうする」
「証人と証拠を分ける。写しを作り、帳簿が盗まれたことが王都に届く前に、教会、改革派、商人組合、獣人の集落代表へ同時に渡す」
ヨナスは迷いなく言った。
「誰か一人が消されても、真実が残る形にする」
ロイドは沈黙した。
体中が怒りで燃えている。今すぐジェラルドの喉笛を噛み切り、これまで悪事に加担した奴らをすべてあぶり出して、できうる限りの償いをさせたい。自分の手で。
だが、ヨナスの言葉が正しいこともわかっている。
この帳簿に記された名を、すべて表へ引きずり出さなければならない。
ビアンカが、静かに口を開いた。
「死んだ人たちの名前も、取り戻せる?」
ヨナスが彼女を見る。
「名簿が残っていれば」
「番号だけの人もいたわ。耳だけ、尾だけ、首だけにされた人たち。名前を奪われて、品物みたいに並べられていた」
ビアンカの声は震えていなかった。
むしろ、怖いほど静かだった。
「私は、彼らを“証拠品”にしたくない」
ロイドは掴んだままの指先にほんの少し力を込めた。
ビアンカは続けた。
「もちろん、証拠にはする。そうしなければ裁けない。でも、それだけじゃ嫌なの。この人たちは、事件の材料じゃない。怒りを煽るための道具でもない」
彼女は、帳簿の上に手を置いた。
「名前があったはずよ。家族がいたはずよ。好きな食べ物も、眠る場所も、誰かを呼んでいた声もあったはずなの」
ヨナスは目を伏せた。
「……わかった」
「ヨナス」
「教会の記録を洗う。孤児院、貧民街、行方不明の届出、埋葬記録、洗礼台帳。生きていた痕跡を探す」
ビアンカは息を吸った。
「ありがとう」
「礼を言うな。これは教会が、我々革命派が、最初からやるべきことだった」
その声には、苦い悔恨があった。
ヨナスは片腕しかない手で、帳簿を閉じた。
「ロイド。グルドたちは?」
「保安官事務所の陽動は成功した。ミゲルが外で合流する手筈だ」
「子どもたちは?」
「今夜は探れなかった。ジェラルドを引き離すだけで精一杯だ」
「なら急ぐ必要がある」
ヨナスは机の引き出しを開け、赤い封蝋の書簡を取り出した。
「ハネイグ侯爵に使いを出す」
その名に、ビアンカが反応した。
「改革派の貴族の中心ね。この間ロイドを訪ねてきた人」
「そうだ」
ヨナスは頷く。
「ロベルト・ハネイグ。名家の当主でありながら、今の王政と貴族制度に見切りをつけている男だ。俺をこの教会に置き、裏で情報網を作ったのも彼だ」
ロイドは柔らかい物腰でいながら、するどく核心を突く質問をしていった男を思い出し目を細めた。
「信用できるのか」
「完全にはできない」
ヨナスは即答した。
「だが、今この帳簿を表の力に変えられる貴族は、あの男しかいない」
ビアンカは机の上の香水瓶を見つめた。
もし、このお話を好きだ!と思ったらイイねやブックマークを!
気になる、気に入ったと思ったらコメントや評価☆☆☆☆☆,をお願いします。
定期更新を心がけてます。ぜひブックマークを!大変喜びます♪




